65.海の怪物
初めてのバンジージャンプでは、たった一呼吸の落下時間が10秒にも20秒に感じられた。そしてその体験は、2度目のジャンプでは得られなかった。命を脅かされたときに感じる恐怖は、安全と解かってからは得られなくなるのだ。
船の甲板の上からでも海面までは十分に高いが、そこから跳ね上げられた高さは紐なしバンジーと同義である。神経の図太い椿に落下の恐怖はなかったが、焦りが大きかった。
なんせ椿は海で泳いだことがない。
しかし、海水浴の初体験を、異世界で得ることになるとは。ハワイとかグァムで得たかったよ、新婚旅行とかで。ウフフッ……!
激しく着水した海中で、すぐさまポーションを瓶ごと咥えて飲み干し、切り割られた額を癒やす。身体強化魔法の掛かった体は呼吸を必要としない。かなり早い時期に気付いた魔法の効果だ。その知識がなければパニックになっていただろう。
魔力で編んだ筋肉の繊維を厚くまとう熊モードのおかげで、巨大トドから受けた薙ぎ払いの被害も軽微で済んだ。今は海中、ウェットスーツとしても働いてくれているようだ。水の温度を感じない、あ、いや、駄目だ、水が染み込んできた。魔力の繊維を束ねても隙間はあると言うことかな。
傷が癒え落ち着いた椿は、取り敢えず周囲を確認した。
光がカーテンのように射して見えるのが海面だ。少し離れた位置に、船体がゆっくり遠ざかるのが見える。後方にも船影が見えることから、あれが旗艦だと判断できる。幸いなことに、進行方向に飛ばされたようだ。
俄に旗艦周りの海面へ、次々と何かが落下してきた。
──まあ、当たり前の話だが、敵が海中の椿を放っておくはずがないのだ。
飛び込んでくるのは魚頭だ、それに旗艦の船員も確認できる。海中に引きずり込んで襲うのか。ヒトは海中ではろくに動けない。なるほど、恐怖の対象になるわけだ。
椿はすぐに薙刀を素振りして、海中での行動がどのように制限されるかを確認する。やっぱり駄目か、獲物を振り回すと身体の方が動いてしまう。これでは斬れない。海中では突くしか手段がなさそうだ。
その魚眼レンズな視界の端で椿が海面に落下するのを見つけたのだろう。折角にも海中に引き入れた船員を放ったらかして、魚頭達は椿に迫ってきた。その数は15を超える。
ええい、旗艦の連中よ、殆ど倒していないんじゃないか!?
だが間抜けなことに、魚頭たちでもその槍を使うには突くしかないようだ。ゴムを付けた手銛を発射してくる訳でもなし。凡庸に突いてくる槍は熊の手で掴み奪い、その醜い頭に返して差し上げる事ができた。取り囲んでから、一斉に襲ってくれば良いものを、お行儀よく順番に殺されに近づいてくる。おつむはよろしくないらしい。
弱すぎる、海中で呼吸ができるのであれば、なんら驚異ではないな。
水中に引きずり込んでパニックを起こした獲物を、楽々狩ってきただけの種族なのだろう。なんの研鑽も見て取れない。しかも、あの巨大ペットの力まで借りている訳だ。あのトドにだけ気を付けるべきだろう。
魚頭をすべて片付けた椿は、海面に居る船員たちに救護を手伝うように声を掛けた。当然ながら、船員はニジニの所属ばかりだ、言葉が通じない。仕方なく、気を失って海底に沈みかねない船員を拾い集め、元気そうな船員に押し付けていく。
のこらず回収した頃合いで、ちょうど椿の搭乗していた船が追いついてきた。船体を傷付けて申し訳ないが、熊の爪を食い込ませながらよじ登る。我ながらもう、どっちが怪獣だか分からんな。
船べりに手を掛けた辺りで、首根っこを捕まれ船上に引き上げられた。
『この馬鹿『お嬢様!! よくご無事で……』
怒鳴ろうとしたカザンを突き飛ばして抱きついてくるシェロブ、うわぁ、シェロブが本気の心配顔だ。かわいい。そんな椿のニヘラ顔が気に食わなかったのか、カザンから拳骨を頂戴してしまった。痛い。これは、後で説教もくるかもしれない。
甲板にはトドの死骸が転がっていた。
ひょっとして私、またカザンの決め手を見逃しちゃいました?
頭が変形しているどころか、喉から脳天にかけて風穴が空いている。いやいや、これはもう人力じゃないだろ。
くそぅ、一体何をやったらこうなるんだ……
『ねえ、これ、どうやったの』
ダメ元で尋ねる椿を無視して、カザンはニジニ兵達に指示を飛ばしていた。
忘れていたが、戦闘中であった。他の船も襲われているのだった。
通訳の御者くんを通してはいるが、どうやらカザンは片言のニジニ語が使えるらしい。この漢は、頭の方も出来がいいのか、嫉妬が止まらないぞ!
紐付きの浮き輪(救命浮き輪と呼ぶらしい)を投げ入れたり、命綱を付けたニジニ兵が海に飛び込んだりして、次々と旗艦の船員たちを引き上げる。手際の良さに、精鋭っぷりが伺える。やはり、海軍にあたる組織の兵じゃなかろうか。
救護を終えた船は速度を上げ、旗艦に並んだ。その甲板は凄惨な状態であった。船員たちの大部分が死傷している。海に落ちた船員たちの方が、却って被害が少なかったようだ。しかしなぜ、非戦闘員の彼らが魚頭と対峙する羽目になったんだ。
それも、カザンの舌打ちと向ける視線で察することができた。船室に続く扉は固く閉ざされている。糞と金魚のフンが、彼らを囮として甲板に締め出したのだろう。
船員を犠牲にしてどうする、彼らが居なくなれば誰が船を操るのか。
底抜けの糞だな。
『ねえ、あの糞と取り巻きは戦えないの?』
椿の疑問に、カザンが吐き捨てるように答える。
『お貴族様は野蛮な行為がお好きじゃないんだよ』
『えぇ……、あれで貴族なの?
貴族の義務は何処に行ったのよ』
無事な船員に手伝わせ、椿は重傷者から癒やしていく。3馬鹿が、手早くポーションを与えて回ってくれたので、椿は身体強化魔法の範囲を広げるだけで済んだ。
ポーションと身体強化魔法を併せた治癒は、意識を失っているヒトにも効くようだ。ひょっとすると、死後であっても間がなければ回復するかもしれない。とにかく、手あたり次第に治療していく。
途中、旗艦が大きく軋んで揺れた。カザンによると、前方からトドの死骸が流れてきてぶつかったらしい。先頭の船には勇者が乗っている。心配はしていなかったが、茜にしては手こずったようだ。魚頭の気持ち悪さに尻込みしたんじゃなかろうか。もしくは、海面にいる相手に雷が効かないと勘違いしたか。
そう言えば、旗艦を襲っていたトドは何処に行ったのだろうか?
・・・・・
3隻を並べ、主だった面子が状況の確認と、今後の方針を決めている。眼鏡と糞と漢カザンが顔を突き合わせている。糞は、マーリンがすいぶん長いこと呼びかけて、ようやく出てきた。マーリンは馬鹿ではない、糞を問い詰めたりはしない。糞がヘソを曲げると進行に影響がでるからだ。
だから糞に対しては、事務的に、短的に、1秒でも早く段取りが進むように取り計らっているのが分かる。心を無にするって奴だ、デキる男だぜ。
椿だって糞の顔など見たくない、カザンに言い置いて、その場を離れた。カザンも特に何も言わないでいてくれる。こっちの男は、糞をずっと睨みつけていたが。
海水に濡れた服を替え、3馬鹿を休憩に向かわせると、茜の様子を見るため反対側に横付けされた船を訪ねた。どうやら、茜の不調の原因は3馬鹿と同じ、徹夜と船酔いのあわせ技であったようだ。ポーションを手渡してスターシャやカザンと同じ、一般的な身体強化魔法を手解きしておく。
「すっごい楽になりました。
これ、ヤバいお薬ですね」
凄いでしょう、異世界カビの不思議パワー、ずっと自分の魔力のおかげだと思ってたけど。まさか、第三者に魔力を醸されていただけとは思いもしなかったさ。
プラシーボ効果を狙って、茜に手渡したのは黄金色に輝くポーションだ。解毒(赤)と、体力回復(緑)のカビさんの働きは、老廃物を取り除き、気力と体力を向上させる魔法のエナジードリングだ。
せっかく気分が良くなったのだ、今は敢えてカビの事を触れなくてよかろう。
まあ、いずれ耳に入るだろうけど。
そのまま茜と雑談を始める。
内容はもっぱら魔法に関して。茜は魔法の威力に不満があるようだ。あれでも不満なのか。たしかに、電気ではデカブツには効き難いかもしれない。椿も、身体強化魔法を更に工夫していきたいところ。あのトドも一刀両断できるくらいが理想だな!
女子力の高すぎるおしゃべりは、カザンの呼びかけで終了となった。
どうやら編成を変えるらしい。3馬鹿と一緒に、船から荷物を引き上げてこいとのこと。荷物を引き上げてどうするんだ? その答えはすぐ分かる。
船員が少なくなった事を理由に、糞が最後尾の船に移ると言い出したようだ。椿は、当然のように追い出され旗艦に移ることとなる。最も、先の理由は言い訳だろう。先程の襲撃では、旗艦に魚頭が群がった。亜人の特性を考えれば、まず1番でかい船を襲うに決まっている。次の襲撃を恐れての下知だろう、糞らしいお賢い選択だな。
怪我人を旗艦に残して、最後尾の船と人員が丸々入れ替わる形となった。ひとまわり小さいので、いま動けるだけの船員で十分らしい。旗艦の運用も、椿と同乗していた精鋭たちで問題ないそうだ。流石、海軍(?)兵士だ。
新しく充てがわれた船室は広く4人で使える。昨夜まで使っていた2段どころか、3段ベッド(ボンクと呼ぶらしい)のすし詰め船室とは段違いの居心地だ。先の船では一部屋3人と言うこともあり、独りだけ隣室を引いたポーシャが、一緒の部屋になったことを喜んでいた。
『アレッサンドロス殿下が使われていた船室だそうですよ』
……本当に余計な一言が多いな、スターシャは。せっかくの気分に水を差しよる。
まあ、部屋に罪はない。
なぜか存在したベッドを部屋の外に放り出し、シーツが取り払われていたボンクを整える。船は傾くものだ、ほとんどの家具は壁や床に備え付けのもの。普通のベッドを使うなど、馬鹿のすることだ。昨夜の嵐レベルであれば、下手をすればひっくり返ったベッドの下敷きにだってなりかねない。
寝そべったまま伸びができるほど、スペースのある寝床に横たわる。小柄なシェロブとポーシャが、上の段を使う。あっと言う間に寝入り、ふがふが寝息を立て始めたスターシャにつられるように、椿も眠りに入っていった。
その晩も遅く……
──ズンッ!! ──ズシンッ!!
遠くで花火がなっているような、寝床を揺らす低い音で目が冷めた。
船室の窓から見える空は暗い、夜明けにはまだ早い時刻だ。
同じように目を覚ましたシェロブと共に、簡単に身支度をして部屋を出た。兵達に変わった様子はない。先程の音はもう感じない、気の所為だったのだろうか。いや、シェロブも目を覚ましたのだ、何かがあったはず。まずは様子を見ておこうと、椿は甲板に向かった。
甲板に上がると、船の縁から身を乗り出すようにして後方を確認するカザンの姿が見えた。
『何かあったの?』
『お前、魚頭を何体片付けた?』
『えー…… 30くらい?』
決まりだな、と言ったカザンが号鐘を鳴らす。船は一気に緊迫した雰囲気に変わる。龕燈で後方の船に信号を送るが返答がないようだ。前方の船も臨戦態勢に移っている。
旗艦は帆を畳み、篝火を上げ、後方の船と合流しようとする。先頭の船は、後方の船に回り込むように回頭している。
マーリンの魔術だろう、先頭の船は強烈な光で前方の海面を照らしている。
『来るぞ!』
海面を僅かに盛り上げ近づいてくるのは、例のトドだ。この暗さで海中に放り込まれるのは勘弁願いたい。体重が軽く、簡単に振り落とされる恐れのあるシェロブを船室に戻し、椿も熊モードの足裏を柔らかいゴム質に変え、爪で甲板を捕えるようにして備える。
カザンが手槍をトドに撃ち込む姿の奥で、茜の雷が2条、3条と走るのが見えた。
エゲツない太さの雷光が走る。先程、椿が適当に与えたアドバイスを、茜は自分なりに消化してしまったらしい。ポーシャも体得した「循環させ、圧縮して、放つ」手順と、「電気だから経路を多く取ったらどうだろう、何往復もさせるとか」などが、あのような形に昇華されたみたい。まあ、側にはマーリンが居るからな、工夫するにはうってつけかの環境だ。夜の間、ふたりでイチャイチャと実験を繰り返したに違いない。
茜の雷に気を取られていたら、カザンの方もトドを仕留めてしまったようだ。また見逃したか…… だが、何か重いものが落ちるような、低くて鈍い音がした。そう言った事をしたのだろう。
トドは全部で3体を確認した。昼間に見た、旗艦を襲っていた数と同じだ。これですべて片付いたなら良いのだが。その後も、ちらほらと現れる魚頭を処理しながら、一行は夜明けを迎えた。
しかし、最後尾の船の姿はどこにも見当たらなかった。
海から現れる敵、普通に怖すぎる。
そして、順調に育つ勇者・茜ちゃん。




