3 生活の芳香
夜は岩月山の何処か安全な木の枝で眠っている鳥たち。日の出と共に、源岩月院へと朝食を食べにやってくる。目覚めて最初に聴いたのは、メジロの鳴き声だった。メジロが庭に咲いている花の蜜を集めに来ているのだろう。
私は、布団から起き上がる。布団の中から湯たんぽを取り出す。そして、布団の足下側に準備して置いておいた桶に、湯たんぽの栓を開けて、まだ温もりを保っている湯を注ぎ込んでいく。桶の横、畳の上には手拭いと櫛が置いてある。桶に入れたお湯にそっと左手で掬う。昨晩、乱れた髪を右手で持った櫛で整えていく。数回、髪を櫛に通した。
私は隣に寝ている山平晴次朗さんの顔を見る。静かな寝顔だ。魂蔵に頭を預けて、どんな夢を見ているだろうか。山平晴次朗さんがこの家にやって来て1週間が経った。
櫛きことである。本当に、奇しきことである。夫となった人の寝顔を見ながら櫛を通す。私が結婚をする。少し前まで想像すらできなかったことだ。
お湯が畳に飛び散らないようにゆっくりと両手を桶に入れる。そして顔を洗う。次に、寝ている夫の布団の足下へと私は移動する。布団の足下に置いていた桶が転がっていた。昨晩夫の布団へと招き入れられたとき、私が弾みで桶を蹴ってしまったのかもしれない。
「失礼致します」と私は晴次朗さんの布団の中にある湯たんぽを取り出す。同じように栓を開け、桶へとお湯を注ぐ。そしてそれを夫の魂蔵の上まで持っていく。
「おはようございます。朝ですよ、あなた」と、肩を揺らす。夫は私のことを「風華」と呼ぶ。だが、私は夫のことを名前で呼べていない。どうやら目覚めたようだ。私は、「朝食の準備をして参りますね」と言って、障子を開ける。私が扉を開けたのに驚いたのか、庭にいたメジロは椿の花の蜜を吸っていたようだが、何処かへと飛び去ってしまった。
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「いただきます」と一緒に朝ご飯を食べる。今日は、奈須比の味噌汁。冬に作り為をしておいた沢庵。そして、白米は、二人で一合。質素な朝食かもしれないけれど、これが我が家の精一杯だ。
「美味しいです」と晴次朗さんは味噌汁を一口啜って言った。私は、まだ晴次朗さんの味の好みを知らない。今日は、奈須比を具材として使っているということもあり、少しお味噌を多く入れた。少し濃いと思っているのだろうか。それとも薄いと感じているのだろうか。今日の味噌汁が適度な濃さであれば、昨日のお味噌汁などは薄味ということになる。昨日も「美味しいです」と言っていた。濃いのだろうか、薄いのだろうか。それとも塩梅が良いのでしょうか。
「風華、今日、もしかしたら来客があるかもしれない」と晴次朗さんが箸を置いた。少し改まった話をしたいようだった。私も、茶碗と箸を置いた。
「分かりました。今日は、縫い物をする予定でしたので、受付に居るように致します。そのお客様がいらっしゃったら客間までお通しして、あなたをお呼びすればよいでしょうか?」
晴次朗さんが使う手ぬぐいに刺繍をしようと思っている。妻は夫に蓮の花を模した曼荼羅の刺繍入りの手ぬぐいを贈るのが習わしだ。本当であれば、結婚前に準備をしておくのだけれど、まだ私は準備できていない。
「遠雷庵にいるよ。お通しなくても、庭園を散歩しながら話すようにするよ」
「それなら受付から近いですね。お昼は、握り飯を作っておきます。遠雷庵の縁側でお昼を食べましょう」
「ありがとう。それで、内容によっては出張をしなければならないんだ」
晴次朗さんは、易部家の家業のお手伝いをしたいそうですが、婿として山平家に入ったので、家業を引き続き手伝う訳にもいかず、今はフリーランスとして仕事を請け負うことにしたそうです。
「荷物の準備をします。日程はどれくらいの予定ですか?」
出張。私は旅に出る人を見送るのが苦手です。道中の無事を祈願するのも、無事に帰って来るのを待つのもあまり得意ではない。
「分からない。野良鬼を滅するにしても、陰陽師が呼ばれる頃にはかなり複雑な事態になっているからね。風邪を引いたら陰陽師をすぐに呼んで、鳴弦を依頼するような時代ではないからね。これは鬼の仕業だって思う人も少なくなったし。野良鬼が、陰を取り込み過ぎて、その土地全体を禊がなくてはならない場合も多い。長ければ二週間かな」
鳴弦。弓を引き、弦だけで音を鳴らして魔を払う儀。私も怖い夢を見て眠れなくなった時には鳴弦をします。でも、怖い夢は、晴次朗さんと暮らし始めてからは見ていない。
「そうですか。無理をなさらないでください」と、私は答えます。
ただの鬼であれば良いのですが、長らく人々から忘れられた氏神などが何かの触りで荒ぶった場合など、危険であると聞きます。
「実績を積めば、多く仕事を回してもらえそうだけど、依頼の数自体も少なくなってきているからね」
「源岩月院の入場料だけで食べていければ良いのですが、閑古鳥が鳴いています」
月の入場料収入は夏休みでも一万円を超えることはありません。食べていく分には畑もありますし、衣服に関しても晴次朗さんが着る和服は桐箪笥の中にはありますが、新しい服に袖を通してもらいたい。当主が立たねば、家も立ちません。私が出来るのは、味噌を買わずに済ませ、蔵が建つようにすることでしょうか。いえ、もう蔵は十分すぎるくらいにありますが……。
「風華が気に病む必要はないよ。婿に入ったとはいえ、家を支えるのは当主の責務だ。いざとなったら、咒を売る覚悟さ」
易部家の主な家業は、建築士に対する風水的アドバイスを行うことだそうです。土地の有り余っている田舎などならともかく、限られた土地しかない都会では、鬼門の方角に玄関を設計しなければならない時などがあります。そのような場合に、厄災が家に入ってこないように計らう必要があります。
また、最近は、硝子張りのビルなどが増え、ガラスが鏡の役割を果たしてしまい、思わぬ方向から厄が飛んでくる場合もあるそうです。それに対して、出窓は作るらないほうが良いとか、アドバイスをするのが易部家の家業だそうです。
「咒を売るなど物騒な。術返しにあったら大変です。ですが、そうなれば出張は無くなるのでしょうか」
咒を売る。術者にとっても危険な事です。ですが、晴次朗さんが出張に行く必要がないということであれば、心揺れるものがあるのも事実です。
「いや、実地で見ることはどうしても必要だよ。写真だけだと、イメージしにくいし、その対象者の人となりを見る必要があるからね。そうじゃないと、間違って親族に飛んでいってしまう場合もある。だから出張自体は無くならない」
「それならば、危険なことはやめてくださいね」
「もちろんだ。人を呪えば穴二つ。咒禁師の末路は悲惨なものさ」と晴次朗さんは言います。私も、その通りだと思います。
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お客様が来たのは、お昼に近い午前中でした。車の激しいエンジン音が何処からか聞こえてきたかと思えば、源岩月院の正門に車が止まりました。私は車には詳しくありませんが、紅色のオープン・カーでした。
何事かと受付口から正門まで出てきた私に、運転席にいた女性は、「ここ、駐車場どこあるの?」と聞いてきました。
「この先、600メートルほどの所にお客様専用駐車場がございます」と私が答えると、その人はエンジンを切り、車から降りました。どうやら、駐車場まで行くのが面倒だと彼女は思ったようです。
黒くて艶光している長い髪。それに、黒曜石のような光沢のある黒色のレザーコートにレザーのデニムパンツ。どちらも体とぴったりとしていて、体の線は細いものの、スタイルが良いということは分かります。ファッション・モデルであると言われれば信じてしまうかも知れません。
源岩月院の見学に来られた方ではないでしょう。きっと、晴次朗さんのお客様というのはこの人であると私は思いました。美しい人だと思います。
「ねぇ、晴ちゃん呼んできてよ」と彼女は言いました。晴ちゃんというのは晴次朗さんのことだと思います。
「山平晴次朗様は、源岩月院の中でお待ちです。よろしければ、ご案内いたしましょうか?」
「嫌よ。ここで待ってるから呼んできて。って、そもそもあなた、私を中に入れる気ないでしょう? 木門が閉じてるし」
え? と私は後ろを振り向きます。開館時間の10時から閉館の17時までは木門は開けたままにしているはずです。それに、私は門を通って源岩月院の外へと出てきたのです。門が閉じられていたら、そもそも私が外へ出ることなどできません。
私は振り返り、門を確認します。源岩月院の正門は開いたままです。門の真ん中には、『開館中』という案内板も置いてあります。
「あ、あの開いてますが?」と私は彼女に言いました。駐車場に車を止めず、さらには、人をからかうのでしょうか。
「なるほどね。つまり、あなたがあの、山平風華ってわけね」と彼女は言いました。気づけば、彼女の右手には日本刀が握られていました。しかも、刀身はすでに鞘から抜かれていました。岩月山から遠吠えが聞こえた。