最終話 グッバイ・ゴースト
あと数歩というところで、彼女は再び倒れてしまいます。
雪に足を取られたばかりではありません。すでに声は枯れ、足は鉛のように重く、目の前がかすんで見えてきました。
――もう少し、もう少しなのに……。
転んだ拍子に、口の中に潜り込んだ雪たちを吐き出しながら、指先に力を込めようとします。
感覚がなくなりかけているようで、雪の冷たさをあまり感じません。自分の言うこともほとんど聞き入れてくれません。
限界。この二文字が彼女の頭に浮かび出します。
――やっぱり、変わることなんて無理、だったのかな。
マッチに手を伸ばそうとしますが、エプロンのポケットから取り出すには、一度、身体を起こさねばなりません。しかし、どうやらその力も、自分には残されていないようでした。
童話のような安らかな最期。筋書きに歯向かった自分には、迎える資格もないということなのでしょうか。
――終わっちゃうのか……最後のマッチ。もし擦れたら、誰が迎えに来てくれたんだろう。
そんなことを考えながら、身体と一緒に、意識も雪の中に埋もれていきます――。
ふと、彼女は腕を取られました。
「ようやく見つけたぞ、小娘。あの臆面もない叫びがなかったら、もっと遅くなっていたところだ」
無理やり立たされます。閉じかけた目を開いてみますが、相手の輪郭しかわかりません。ですが、このだみ声には聞き覚えがあります。
もうどれくらい前か分かりませんが、ひかれそうになった馬車。あれの御者です。
「閣下のお召しだ。お前を連れていく。……おい、聞こえているか。ちっ、こんなコッパ娘、趣味じゃないってのによ」
負ぶわれる感覚。ほどなく、身体が暖かいものに包まれました。
男が自分をおんぶし、その上からコートを羽織ったようです。
幻ではない、本物の暖かさに包まれながら、今度こそ彼女は眠りへと落ちていきました。
気がつくと、彼女は大きなテントの中の、簡易ベッドに寝かされていました。しもやけだらけだった両手と両足は、お湯につけられています。
「良かった、気がついたかしら」
寝たまま顔を向けると、20代そこそこで、軍服姿の女の人が、いすに腰掛けていました。状況からして、自分を手当てしてくれたのでしょう。
「待っててね、すぐに閣下がお見えになるから。それまでにこの服を着て、良かったらスープも飲んで」
女の人が枕元に、きれいにたたんだスウェットの上下を差し出し、スープの入った器を置いていきます。この時に、少女はようやく、自分がほぼ下着姿であることに気づいたのでした。
用意されたスープは、幻でもなんでもなく、彼女をお腹の底から、じんわりと暖めてくれたのです。
「やあ、先ほどは御者が失礼をしたね。ともあれ、お疲れ様だった」
閣下と呼ばれた男性は、襟などに刺繍が入った、御者よりも立派な軍服をまとっています。その髪は短く剃られて、鼻の下からあごにかけて、立派なひげを生やしていました。
「お疲れ様、て……?」
彼女はベッドに腰かけながら、なんとか声を出しました。初対面の軍人らしき人、ということもあって、少しおびえてしまいます。
「順を追って話そう。まずはこれだ」
閣下がテントの中の長机に、一足の靴を置きます。
足の甲の部分に、花の彫刻をあしらった、大人用の靴。自分が家を出た時から履いていた靴です。
「これを履いているということは、私たちへの使者の証。この町にいる私の手の者ならば、これを履いている人物を見つけ次第、接触するようにしている。今回は御者の不手際で、迎えにいくのが非常に遅くなってしまった。申し訳ない」
「使者って……どういうことですか」
「子供には教えていないか。仕方あるまい。だが、来てもらった以上、君にも話さねばな。これからする話、外でしゃべってはいかんぞ」
閣下は語りました。
自分にマッチを与えて放り出した、父にあたる男。彼は危険な薬物を取り扱う、業者だったのです。自分が預けられたマッチの頭には、火をつけると幻覚作用のある香りを出す、薬が仕込まれています。
これまで、自分の母にあたる人物が、閣下との橋渡しをしていたのですが、へまをして、逮捕されてしまったらしいとのことでした。
追手を逃れるため、男は娘である自分を連れて、粗末に装った隠れ家に移り住みました。
そして今日という年の暮れ。閣下がこの町を訪れるタイミングで、秘密裏に薬を渡そうとしたのです。
皆が言い伝え通りに、怖がって、関わり合おうとしなくなるだろう、年の暮れの幽霊そっくりに、自分の娘を仕立て上げて。
「なんで、どうして、こんな薬を」
「戦争のためだ。今、こうしている間にも、遠く離れた戦地では、多くの兵が命を落としている。彼らに安らぎを与えるためだ。緊張の糸は、張り過ぎればプチンと切れて、それっきり。適度に緩ませねばならない。そのための娯楽の一つだよ」
閣下は先ほどの靴と同じように、彼女のエプロンに入っていたと思しき、マッチ箱を机の上に置きながら続けます。
「むろん、それだけではない。戦地で四肢をもがれ、誰かに助けを求めることもできず、痛みにのたうち回る……その苦しみから、解放するためだ。この薬、一時に大量に吸い込めば、作用が増すと共に、身体を死に至らしめる。幸福な幻を抱き、天へと召されるのだ。痛みも、苦しみも、何も感じることのない、素晴らしいところへね」
「そんな……死ぬことが救いだなんて」
「ふむ、さほど神を信じておらぬか……父親の仕事ゆえ、どこから足がつくか分からんし、教育をしっかり受けておらんようだな。やむないことだ」
立てるなら来なさい、と閣下があの靴を足元に置いて、促してきます。
彼女は腰を上げると、閣下の後に続いて、テントの外に出ていきました。
そこはどうやら、町はずれのようです。先ほどまでの舗装された道とは違う、地面の上。
何十頭もの馬たちが整列していました。雪除けのためか、鎧のような馬具を身につけています。
その背中には、騎手と布に包まれたいくつもの荷物。
「君からもらったマッチは試作品として、早馬で戦場に持っていく。効果次第では、追加注文と報酬を約束すると、お父さんに伝えてくれ……おっと、忘れるところだった。今回の報酬だ」
閣下が彼女に、小さい革袋を握らせます。中には金貨が何枚か入っていますが、どれほどの価値があるのか、彼女にはさっぱりわかりません。
馬たちが一斉に走り出します。それを追うかのように、町の方から鐘の音が響いてきました。
新年の訪れです。
雪がやみ、星々がまたたく空を見上げながら、彼女は思います。
自分は大晦日を生き延びることができました。しかし、それが本当に良かったのかどうか。
見上げる星々。その中の一つが、尾を引きながら流れ落ちました。
流れ星が落ちる時、一つの魂が天に召される。閣下の言う戦場で、今また一つの命が消えたのか、と彼女は思わずにいられません。
自分がこれからどうなっていくのか。
自分が届けたマッチで、どれだけの人が素晴らしいものを見ることになるのか。
そして、どれだけの人が、閣下の言う、素晴らしいところへ入っていくことになるのか。
それを知る人は、誰一人としていませんでした。
(了)