第三話 過ぎ行く年の幽霊
赤々と燃える、小さい炎。普段なら、ぞんざいに扱っていたともしびが、冷え切った手には、何よりのプレゼントに思えました。
炎を、足先へと近づけます。寒さを溶かすぬくもりに、足が歓喜の悲鳴をあげているのが聞こえました。
彼女の目の前に広がるもの。それは、自分が元いた世界。
くたびれた電気カーペット。小さいこたつ。眠りへと誘う、甘い誘惑。
それらに身を委ねながら、耳につけたイヤホンで、好きな音楽を聴いている、少し前の自分。
何気なく通り過ぎた、あの日の姿が、強く強く映し出されます。
――あったかい。もっと、もっと……。
彼女は足を熱源に近づけていき……悲鳴をあげました。
マッチの火は消え、幻も潰えてしまいます。
そして、足には先ほどとは別の痛み。火を直に押し当てられたことで、皮膚が悶えているのです。たまらず、先ほど払い落としたはずの雪を、やけどしたところに押し当てます。
何をやっているんだか、と苦笑いを浮かべた時。背後のドアの向こうで声がしました。
「ねえ、お母さん。本当に入れちゃいけないの?」
小さい男の子の声。
彼女は相手の声には敏感でした。黙って聞き耳を立てます。
母親らしい声が続きました。
「ダメよ。絶対に開けてはダメ」
「どうして? こんな寒い雪の中、外を出歩いている。マッチを擦って、足を温めながらだよ。少しくらい、ここで休んでもらっても」
「それが、あいつらのやり口なのよ。前に話したでしょう。年の暮れに現れる幽霊のこと」
年の暮れに現れる幽霊。
彼女はすっかり冷えた足から、押し当てた雪を放し、続きの言葉を待ちます。
「年の暮れには、過ぎ行く年の幽霊が現れる。新しい年を迎える前に、死んでしまった人たちが、道連れを求めてやってくる。一人でも多くの人に、年を越させないために。自分たちと一緒に、過ぎ行く年にとどまってくれるように。それは往々にして、人を油断させる子供の姿。家にあげてはならない。関わってはならない。昨日も言ったでしょう」
「だけど、だけど……もし、本当に生きている女の子だったら」
「仮にそうだとしても、こんな時間まで出歩いているなんて、ろくな子じゃないわ。どんな事情があろうとね」
声は途絶え、扉の向こうからの気配もなくなります。二人は奥へと引っ込んでいったのでしょう。
――過ぎ行く年の幽霊。生きていても、ろくな子供じゃない、か。
彼女は言い返すことができませんでした。
自分ではない、何かに変わりたいと思った心。それは確かに、過ぎ行く年と共に、捨て去るべき亡霊ともいうべき妄執。
そして日々を嫌々(いやいや)、惰性で生きていた自分は、ろくな子供とは言えない。
彼女は力なく腰を上げると、うなだれながらその家を後にしました。
けれど冷えた身体の内側から、熱いものがふつふつと湧いてきます。
それは「怒り」でした。
――だけど、私はここにいる。寒さを感じる。幽霊なんかじゃ、絶対ない。
雪が降る中、彼女はどうにか前へと進み続けます。
立ち止まったら、またマッチに頼りたくなってしまうことでしょう。それは更に自分を、あの結末へと、追い込むことになりかねません。
レンガで組まれた家々が左右に立ち並ぶ中。彼女は残った力を振り絞って、涙混じりの声を張り上げました。
「お願いです。あたし、死にそうなんです。誰か、助けてください。誰でもいい……助けて」
あの男を引き留める時に、どうしてこれくらい出なかったのかと思うほど、大きな声です。
しかし、吹きすさぶ風に乗せた彼女の声を、受け止める者は現れませんでした。いや、あの会話が本当であれば、むしろ逆効果かもしれません。
彼らは自分の声を、バンシーの泣き声のごとく受け止め、ますます家の戸を固く閉じることでしょう。もし自分が彼らの立場なら、やりかねません。
それでも、一縷の望みを捨てるわけにはいかないのです。
彼女は見通しのきく、大路に出ようとしていました。人に頼れない以上、自分で教会を探すしかありません。鐘や十字架を目印にして。
新年を迎えれば、鐘が鳴り、時間も場所も分かるかも知れません。しかし、それまで自分の体力が持つかどうか。
もう、何度目か分からないお腹の虫がうめいて、一歩一歩踏み出すたび、元気が地面に吸い込まれていきます。
雪たちも人肌が恋しいのか、靴や服のすき間から彼女にぴっとりくっついて、あるいは積み重なって染み込んで、盛んに求めてくるのです。彼女の生気を。
――立ち止まっちゃいけない。歩くんだ。叫ぶんだ。私はここにいるんだ。誰がなんと言おうと、ここにいるんだ。生きているんだ。
彼女は頭の中で何度もつぶやきながら、進んでいきます。自分がいることを誰かに伝えるために。
ふらついた足を、積もった雪が捕まえます。彼女はつんのめり、派手に転んでしまいました。
バスケットの中のマッチ箱は外へと飛び出し、中身があちらこちらに散らばります。薬が湿ってしまった以上、彼らはもう使い物にならないでしょう。
雪そのものがクッションになってくれて、傷はないようですが、湿った服に上乗せされた雪たちの冷たさに、彼女は身体中が凍りそうな錯覚を覚えます。
どうにか立ち上がった時には、自分の身体を抱きしめて、震えざるを得ませんでした。
――このままじゃあたしが持たない……かくなる上は。
彼女はすっかり青くなった手で、エプロンのポケットから、マッチを1本だけ取り出します。
――2本目。まだ大丈夫なはず。お願い。私に……力を。
そばの家の壁でマッチを擦ります。ちろちろと、しかし明るく燃える、細い棒。
彼女は炎を手で覆い、降って来る雪から守りつつ、服に燃え移らないように下半身を温めていきます。
ふと、足湯に漬かっている風景が見えました。いくつだったか、家族で温泉に行った時のことです。
人生で初めての足湯。父母も仲良く自分の隣で、一緒に漬かったのを覚えています。
あの日々にはもう戻れません。
家にも、家族にも、あの世界にも。自分は望んで、別れを告げたのですから。
垂れた涙が、マッチの火と一緒に、幻を打ち消します。現れたのは、わずかばかりに乾いた、自分の下半身。
――歩ける。行かなくちゃ。
彼女はよろけながらも、また一歩を踏み出します。
はるか前方に見える路地の切れ目。あそこが自分の目指す、大路だと信じて。