第一話 逃避への道
突然、地面に叩きつけられる衝撃を感じて、少女は目を覚ましました。
雪が降っています。先ほどまで、自分は室内で眠っていたはず。
ここは玄関の軒先。誰かが外に運んだというのでしょうか。
「いつまで寝ぼけている。時間だ。シャンとしろ」
頭上から声が降ってきます。
顔を上げると、頬に大きな傷を負った、男の容貌が目に入りました。お酒とたばこが混じったひどい臭いが、身体中から漂ってきます。
髪の毛はぼさぼさで、あちらこちらそっぽを向いていました。身につけている服もよれよれで、ところどころ破れており、そのすき間から、獣のような剛毛がはみ出しています。
「なんだ、その顔は。わけがわからなければ、もう一度言ってやろう。マッチを売って来るんだ。一箱でも売れ残したら許さん。証拠として金も持ってこい。終わるまで帰ってくるな」
これを履いていけ、と男は少女の足元に、一足の靴を放り投げます。
少女は自分が裸足であることを見て取りました。靴のサイズは自分の足より、ずっと大きい大人用。少しでも気を抜けば脱げてしまうことでしょう。
「この大晦日。それを履きつぶすつもりで歩いていけ。その靴、無くすなよ」
男はそう言い捨てて、少女を置いたまま、玄関のドアを閉めてしまいます。鍵をかける音も聞こえてきました。
少女はしばし呆然としていましたが、細かい雪の粒が素足にぽつぽつとあたり、刺すような痛みが足を襲います。
たまらず、男が放り捨てた靴の中に、足を滑らせました。ぶかぶかで履き心地の悪いこと、この上ないです。足の甲の部分には、花のような彫刻があしらってありました。
裸足の冷たさからは解放されましたが、今度は別の疑問が、少女の頭に湧いてきます。
「――誰? あの人」
あの男は彼女を知っているようでしたが、彼女は初めて見る人でした。
いえ、それどころか、何かがおかしいです。自分の足、自分の手のひら、こんなに小さなものだったでしょうか。
服も、眠る時に使っている寝間着ではなく、大きいポケットがついたエプロンを身につけています。
その中には、溢れそうなくらいのマッチ箱。そして、自分が提げているバスケットにも、同じものがいっぱい入っていました。
ポケットの中身を見ようと視線を落とした時、垂れさがった自分の髪は、見慣れた黒髪ではなく、美しくカールした金髪ではありませんか。
――まさか。
少女は手近な家の窓に、自分の顔を映してみます。
眠る前まで付き合っていたはずの、眼鏡でそばかす、見るからに根暗で陰気な、どんくささいっぱいの、産んだ親さえ呪ってしまうくらい大嫌いな、自分の顔はそこにありませんでした。
長い金髪。きめ細かく白い肌。サファイアを思わせる青い瞳。あどけなさをふんだんに残したその顔つきは、昔、読んだ、童話の中に出てくる主人公の少女を思わせます。
――うそ。信じられない。
自分の顔を存分につねってみましたが、痛いし、ガラスにはほっぺたを赤くした顔が映っています。降って来る雪の冷たさが身に沁みて、少女は震えながら、この事実を受け入れるしかありませんでした。
自分は童話の中に入り込んでいる。そして雪、マッチ、大晦日……連想するものは一つ。
「マッチ売りの少女」。
「はは、ホントに? 確かに今の自分じゃない、何かになりたいとは思ったけど……」
少女は顔にかかる金髪をかきあげながら、つぶやきます。その声も、鈴をころがすようなかわいいものでした。
けれども、新しい自分の姿を喜んではいられません。容姿が聞いた話と同じであるならば、辿る結末も聞いた話と同じになるかも知れないのです。
誰にも相手にしてもらえず、一人、マッチを擦りながら、美しい幻と共に、苦しみのない世界へと旅立っていく……。
「せめて、安らかに逝け」。
そんな神様の介錯か、と感じてしまうほどです。
――変わりたいとは思ったけど、死ぬのはごめん。どうにか、生き延びる術を考えないと。
自分はあの家にも父親にも、思い入れがない。ならば、義理立てしてやる必要も感じない。
今晩を生き延びる。ひとまずは、それだけを考えることにしたのです。
彼女は、マッチ売りの少女の内容を思い出しながら、大路にフラフラと歩み出ました。
馬のいななき。見ると、縦に連なった2台の馬車が、浅く積もった雪を跳ね飛ばし、こちらに向かって突っ込んできます。
慌てて、きびすを返そうとする彼女ですが、履いた靴がずれる感覚に、ぴきっと頭がうずきました。
――少女は馬車をかわそうとして、靴を失ってしまったはず。雪の中を裸足で歩く羽目になったら、動けなくなる。
彼女は靴の脱げない速さで、それでも極力、急ぎながら大路の隅へと逃げました。
しかし、馬車にとっては、緩慢な動きだったのでしょう。ほどなく、馬車は再びのいななきと共に、その足を止めました。
御者がじろりと、彼女を見ました。コートを羽織っていますが、その下から軍服とサーベルがのぞいています。やんごとないお方か、それに近い人を乗せているのでしょう。
肩で息をする彼女に向かって、「失せろ、小娘。今度は容赦なく、ひくぞ」とだみ声で叱り飛ばします。
その眼の光に、彼女は鳥肌が立ちました。元いた世界で、自分がへまをした時、周りのみんなが、向けてくる視線にそっくりだったからです。
――お前、存在自体が無駄なんだよ。ゴミが人様のスペース取って、どうすんの。
彼らの声が、頭の奥によみがえります。
彼女はつい、耳をふさぎます。胸がじくりじくりと、鋭いものでえぐられるのを感じながら、先ほど馬車をよけた時と同じように――そして、今までの自分が、やってきたことと同じように――背を向けて、逃げ出したのです。