バベルの図書館の住人の話
無限の書物を収めるバベルの図書館にはどんな本も見つかる。一面空白の本もある。
私もきっと、バベルの図書館に収められた書物の一冊にすぎないのだろう。それが人間にとり何かしら秩序を感じさせる構成物である確率は極めて低い。もっと言えば、自分を表す記号として人並みに『私』なんて使うのも適切かは不明だ。
しかし仮に意味を見出し得る時には、人は私にその自己をえぐりこませるに違いない。それは別の表現を試みるならば、読み手が読まれる書物とデータ的に交雑するようなものだ。ならば情報が何かを欲望するとしたら、きっと誰かによって読まれることであり、読者にとって有意義な書物たることだ。
まずは自己紹介も兼ねて、僕の家族を紹介せねばなるまい。
母はかつて魔法少女だった。知る人ぞ知る現代文明のキーパーソンでもある。というのも、現代社会に氾濫する魔法アイテムの原形のほとんどは母が作ったものなのだ。その第一号たる小さな手鏡は多くの人が知るところだろうが、それを使う際に唱える呪文に含まれる二文字『テク』はまさに、魔法が一つのテクノロジーとして体系化され始めたことを示していた。『マク』はマジック、『コン』はコントロールから取っている。マヤは……まあ商標登録みたいなものだ。
妹も魔法少女だ。ただし母と決定的に異なるのは、その力が戦いに使われることだ。魔法がなければ彼女はただの非力な女子高生でしかない。が、母の製作したステッキさえあれば彼女は一瞬にして正義の執行者となる。未成年が負うには少々重い言葉かもしれない。何故そんなことをと聞かれれば、天命としか言えない。何せ彼女がしているのは『月に代わってお仕置き』なのだから。
父もまた、変身する戦士だ。ただし彼が背負っているのは正義なんて大逸れたものではない。あれがそんな大層な人間なものか。動機はどうせ自分のため、せいぜい家族のためくらいだ。別に軽んじるわけではない。立派なのは確かだ。家父長としての責任は重い。まして彼は正義の使徒になどなれない。悪の手先によって改造された肉体こそが、彼の戦士としての資本なのだから。そしてまた、その歪んだ肉体こそヒーローたる二人目の彼たらしめる根拠だ。父でありヒーローである彼の足は、人ではなくバッタでなければならないということだ。
さて当の僕はといえば、生憎だが、変身しないし主人公でもない。環境は特殊でも、結局ひと固まりのゲノムとミームの表現型でしかない。こんな何の変哲もない僕がこんな異常な家族に囲まれていることや、一人として同じ苗字の家族がいないこと――父は本郷で妹は月野だ――を考えれば、適当に見繕ってきた複数の情報をうまく接ぎ木しただけかもしれない。なんだかんだ家族は愛しているから、そんな可能性は考えたくないけれど。
いや、本当に。
僕は家族が好きだ。家族も僕が好きだ。
対照するような表現にはちゃんと意味がある。僕の家族に対する愛し方は並みひと通りだが、家族が僕に向ける愛情の表現はそうではない。溺愛と言って差し支えなかった。
母が僕のために作ってくれた魔法アイテムの数は、世間に流通しているもののおよそ四割に当たるほどの多数だ。たとえば僕らの住む土地、その土壌までもが僕のため魔法によって改良されている。そこに含まれる細菌はすべて、母が製作したナノマシンだ。
妹は正義のための戦いを標榜しつつ、僕に何かがあるたびに押っ取りステッキで駆け付ける。妹に守られる情けない兄貴という評判が立ってしまうのは必然で、そんなことを言う奴はあたしが懲らしめてあげるなんて妹は言うけれど、彼女自身、そんな真似をしたら噂に拍車がかかるのは承知しているようで、実際にそうした事件があったとは聞かない。
父は、そこはそれ、男親と息子なのだから、先述の二人ほどではない。ただ、僕と妹が喧嘩になると、たいてい妹だけが叱られた。理由もなく叱る父ではないとはいえ、兄貴としてそれはどうなんだというような大人げないこともしてきた僕だ。それで叱られずに育っておきながら性格が歪まなかったのは、多分妹が大真面目に反省し、いつも謝ってくれたからだと思う。それによって、僕も「こっちこそごめん」を言えたから。
要は、周囲があまりにも歪んでいたために、僕は歪まず育ったとも言える、ということだ。
家族でピクニックに行くことになったのも、無論、僕を最優先に考える家族のおかげである。断じて僕のせいではない。「最近あまり陽に当たってない気がする」と漏らしたのを妹が聞きとがめ、「お母さん! お兄ちゃんが『お天道様を拝みたい』って!」
母と妹は即断即決で外出の計画を立てた。
大体元を正せば、件の二人がちょっと極端で、学校に行くにも母の魔法アイテムによる監視を受ける。妹も悪い虫がお兄ちゃんに付かないようにとか何とか母に言いつけているらしい。一度など、下駄箱にチョコを入れたクラスメイトの女子を暴き出した妹がステッキの魔法でその子を転校させたことがある。それすら、結果論で言えば、付き合う気のなかった僕が告白を振る手間を省いてくれたのだから、怒りたくない。いや、怒ればいいのだけれど、僕のためを思ってしたことを僕が怒ったりすると、彼女は情緒不安定になる。面倒が乗算的に増えてしまうわけだ。
そんな家族に囲まれると、目の届かないところに一人で行くのは想像するだけでも疲れてしまう。ピクニックの発端となったあの発言だって、直ちに外出しようという気があったわけではないのだ。
妹が肩から下げるバスケットには、二人が気合を入れて作ったサンドイッチが詰まっている。父はハッカーだかロッカーだかいう腐れ縁の宿敵を倒しに行っていて、母はさっきまでその文句ばかり言っていた。僕に対する愛が足りないとまで口にしていて怖かったので、せっかくのピクニックなんだから楽しく過ごそうと諭す役を買って出た。ついでに、自分の足で歩くことも強硬に主張した。僕から不快をどこまで奪う気なんだこの親はと思いながら、それでも嫌いにはなれずに。
日なたにビニールシートを敷き、三人で車座に座る。ずっと家に引きこもっていると憂鬱になりがちだったが、この数時間ですっかり気が晴れた。母に渡されたお手拭きで手を清め、三人で一緒にいただきますを唱和した。一つ目のたまごサンドに手を伸ばす。
その時。
晴れ渡った空に雲がにわかに湧き起こる。それは全く自然な様子ではなかった。白い綿雲は幾つかあったけれど、今頭上を覆いつつあるそれは、太陽光をきっちり奪い去る黒色だったし、発煙筒から煙が出るかのようにすさまじいスピードで天蓋を形成しているのだ。
雷鳴がドラムロールのように絶え間なく鳴るのも、氷水滴があの速度で摩擦していると考えればうなずける。まだ稲妻も雨粒も落ちてきてはいないが、だからと言って呑気にここで昼食をとろうなんて誰も思わない。
さっさと家に帰ろう。そう思い、僕が立ちあがるその直前に妹が立ちあがった。ただならぬ様子に僕はやや身を引いた。妹がステッキを抜いたのを見て、僕はまさか、と思う。
そのまさかだった。何事か叫んだ妹は光に包まれ、次の瞬間にはセーラー服を魔術図形で個性的にアレンジしたいつもの戦闘コスチュームを身に纏っていた。さらに何事か叫ぶ声がして背後を振り返ると、仮面を付けバイクにまたがる奇怪な装備のライダー。父だ。
「まさか二人とも、雲に対して怒ってるんじゃないだろうな……?」
僕が怯えながら訊くと、
「そんなわけないでしょ」緊張した面持ちで妹が答える。「あれは――」
「マルドゥックだ」父が妹の言葉を引き継いだ。まさかのビッグネームに僕は呆れた。何だそれは。その思考を読み取った魔法アイテムの一つがわざわざウェブでマルドゥックを検索する。キリスト教の悪魔の一つであり、都市国家バビロンの守護神。そういう存在に、僕のためだからと条件反射で立ち向かうのは正義と言えるのだろうか。
雲の渦の中心から、何かが降りてくるのが分かった。雷をバシバシと四方八方に飛ばしている。その一つが妹を、他の一つが父を正確に射抜き、吹っ飛ばす。母の鞄から二つの魔法アイテムが飛びだし、二人の元へ駆け付ける。レーザーで体内の状況を探査し、戻ってくると画面上に怪我の状態を表示した。画面上部には一様に〈損傷率九〇パーセント〉とある。もちろん心肺は停止。
近くの栗の木に落雷。母が反射的にしゃがんだ。そしてその体勢のまま横倒しに倒れる。
家族三人が皆電気ショックで意識不明の重体。さすがに見逃せない。
家族たちも大概身勝手で野蛮だが、僕を愛し、僕が愛した家族たちだ。彼らのイデオロギーはすべて僕に帰属する。所詮は『私』のために作られた世界だ。
この辺りで修正させてもらおう。
バベルの図書館にはきっとこんな、つまり私のような書物もあるに違いない。何かを欲望し、自己を自由に記述するような。そういう書物ならば主義主張は選び放題だ。
バベルの図書館には、答えだけが無い。
これは内田某と円城某から悪影響を受けてますね…