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埃一つなくなるまで清められた神殿の廊下は、美しく静謐な空気が漂っています。
天窓から差し込むうららかな春の光。聞こえてくる小鳥の鳴き声。
このまま外に出て芝生に寝転がれば、さぞかし気持ちのいいまどろみに身をゆだねる事ができるでしょう。
そんな素敵な天気のいい日に、屋内で、木箱一杯の書類を背負わされて、重さにふらつきながら歩いている十代半ばの美少女がいます。
それが私です。カタツムリの聖女こと、エクレーラです。
ほら見なさい。金の糸で刺繍された神官服を着た私が廊下を歩きます。
赤茶けた長い髪の毛は、頭の後ろでまとめられ、日光の輝きを受けてつややかな輝きを放っています。
こんな美少女である私がどうして、重い箱を背負ってひいひい言いながら廊下を歩かなければならないのでしょう? 世界は不公平です。
ああ、重い……。
この箱、どう考えても一トンぐらいあります。
この量の書類を人間に、それも一度に運ばせるのは無理があるのではないでしょうか?
引き受けた私も考えなしでした。
まさかこの箱を背負って大聖堂の端から端まで歩く事になるとは思いませんでしたよ。
ああ。こんな仕事を引き受けなければよかったです。
世界の全てを呪いながらも私は歩き続け、どうにか聖堂の東の端までたどり着きました。
廊下の端にある大扉。そこはこの世の悪を結束したと言っても過言ではない伏魔殿。この部屋の主に囚われたら最後です。
睡眠時間とおやつの時間とお昼寝と朝の二度寝を奪われてしまうのです。極悪なのです!
「何をグダグダ言っている。さっさと入って来い!」
「はいいいっ!」
扉の向こうからイラついた声が響きました。私の考えていた事が口から漏れていたのでしょうか?
私が一歩足を踏み出すと同時に、大扉が勝手に左右に開きます。
「遅かったな。カタツムリの聖女」
私を見てそう言うのは、白銀の聖女、ホワイト様です。
「ホワイト様、注文どおり、運んできたのです」
私はホワイト様に愛想笑いを返します。
聖女の中にも階級があり、私から見るとホワイト様はかなり上の方です。さん付けではなく様付けしないとアレなぐらいの差があるのです。
白いロングドレスを着た凛々しいそのお姿は、本性を知らない者からすれば大国の王妃と見間違えても仕方ないほどの神々しさを放っています。
しかしその外見に騙されてはいけません。この人は酷い人なのです。
「おまえは私について大いなる誤解を抱いているようだな」
「それはホワイト様の思い過ごしなのです。そんな事よりこの箱はどこに置けばいいですか?」
「そっちの角だ」
ホワイト様が指差した方には、私が背負ってきた木箱と同じような箱が数個積み重なっていました。
これ全部書類ですか?
この書類、どうするんでしょう? もしかして読むんですか? ホワイト様が? 全部?
「どうしたカタツムリ。まだ仕事をし足りないようだな。望むなら、もっと私の仕事を手伝わせて……」
「いえいえ。もう十分なのです。これはさすがに重かったのです」
私はありがたく辞退させていただきます。
こんな所にいたら、私の睡眠時間を守れそうにありません。
「それはただの書類だ。重いはずはない。おまえの鍛え方が足りないのであろう」
ホワイト様はそう言うと、私が運んできた木箱を持ち上げて見せます。ほら、軽いだろう? と言いたげに。
「……それ、一トンぐらいあると思うんですけど」
「大げさな事を言うな。せいぜい三百キロあるかないかだろう」
出ました。ホワイト様の体育会系的脳筋暴言。
ホワイトなのにブラックとはこれいかに。
ホワイト様は箱を床に下ろすと、両手を前に突き出します。
何をするのかと思っていると、ホワイト様の全身に青白い光が漂い始めます。光は木箱とホワイト様の顔の近くを行ったり来たり……。
もしかして読んでるんですか? それで箱の中の書類を読めるんですか?
私が驚愕しているとホワイト様は私の方をちらりと見ます。
「ん? ああそうか、次におまえがするべき仕事は……」
おっと。見とれている場合ではありませんでした。こんな所にいたら、また新しい雑用を命じられてしまいます。
早く逃げなければ。
「あの、私、ベルナルディッタ様から呼び出しを受けているのです」
「ん? しかし、まだ時間はあるのではないか?」
あります。
けれど正直に答えるのはあまりにも愚か。ここはあいまいな表現で追求を交わします。
「よ、呼ばれているのは私一人ではないのです。だから絶対に遅刻するわけには行きませんので。失礼します」
私はそう言い終わると同時に後ろ歩きで退出しました。ホワイト様の返事は待ちません。ぐずぐずしていると余計な仕事を押し付けられてしまいます。
私はカタツムリ。けれども逃げ足だけは素早いのです。
私は聖堂を出て建物の裏手の運動場に行きます。
ここは隣の敷地にある騎士団本部と共同で使うための場所。
今は、十歳になるかならないかぐらいの少年少女が、体操服姿で走り回っています。
聖女候補や騎士候補でしょう。
そして、それらの集団の先頭を走っているのは十代後半ぐらいの少女です。
オレンジ色っぽい服を着て、頭に金属プレート入りのバンダナを巻いている勇ましくも可憐なお姿。
オニアザミの聖女、アンヘリナさんです。
私の友人であり、今回、共にベルナルディッタ様から呼び出されている相手でもあります。
ここから見ている限り、悪い人ではなさそうだし、外見からは知的で冷静な印象を受けますね。
しかし、騙されてはいけません。あの人はホワイト様の影響を強く受けていますから。外見が花の様に可憐でも、中身は脳筋なのです。
こんな所でなぜかランニングしているぐらいだから、脳筋に決まっています。
それにしても、この人達、どれぐらいの時間を走っているんでしょうか。新人の時からこんなトレーニングされたらつらいでしょうに。
私は近くの芝生に寝そべると、未来ある若者達の活躍を神に祈りながら目を閉じました。
◇
どこですか。ここは?
何か薄暗い、広大な部屋。向こうの壁まで百メートルか二百メートルはあるようです。
その部屋の中央に何か巨大な塊がいます。
カバに似たシルエットの胴体。しかし顔は人間の物に似ているような。そして全長は三、四十メートルはあろうかと思われる巨体。
その異形の巨獣にただ一人、立ち向かうのはアンヘリナさんです。
大きな盾と短い槍を構えています。
その表情に怯えは見えません。が、敵の大きさの前にはあまりにも無力に見えます。
『ガァァァァッ!』
魂を縮めさせるような咆哮を上げる、巨獣。
巨獣の背中から光の線が飛び交い、天井を破壊します。
そして、降り注ぐ瓦礫がアンヘリナさんを……
◇
「あらあら、エクレーラさんではありませんか。おかげん、お変わりないようで……って起きろよ! てめぇ私が挨拶してるのに何普通に寝てんだ! この腐れマイマイが! 起きろ起きろ起きろ!」
なんだか、激しく揺すられたような気がしました。
これはいけませんね。
寝ている人を起こしてはいけません。止むを得ない事情で起こさなければならなかったとしても、激しく揺するのはダメです。
当人の名前を呼びながら肩を三回叩く。これが正しい起こし方なのです。
「……んもう、なんですか? 起きますよ、起きますから」
何か嫌な夢を見ていたような気がするのですが、よく思いだせません。
私は不届き者がいるらしい方向に腕を振り上げながら、目を開けました。
そこにいたのは、黒っぽいドレスを着て、黒い日傘を差している女性でした。いわゆるゴシックロリータなのです。
彼女はタミオラさんです。
私との関係は昔の悪友と言った所でしょうか?
「なんだか、久しぶりにタミオラさんの暴言を聞いたような気がします」
「いったい何を言っているのかしら? 私の口が汚い言葉をつむぐ事などありえませんわ。おほほほほ」
タミオラさんは口に手を当てて笑います。
はいはい。私相手に本性を隠しても意味ないと思うんですけどね。
タミオラさんは当たり前のように世間話を始めます。
「それにしても、今の生活はどうでして?」
「別に不満はありませんよ。強いて言うなら休みが欲しいですけど」
ちなみに、あまり多くない休みを、現在進行形でタミオラさんに邪魔されているのです。用がないなら二度寝させてくれますか?
「休みが欲しいのでしたら、こちらに戻ってくれば、ある程度は増やせるかもしれませんことよ?」
「戻る? 戦闘派に?」
「私に頭を下げるのでしたら、口利きして差し上げましょう」
タミオラさんは顔に笑みを浮かべます。
本人的には、聖母の微笑を見せたつもりだったのかもしれません。ですが私の目には、せいぜい季節物贈品の作り笑いにしか見えませんでした。
聖母とお歳暮が掛かっています。
全く。今更、再勧誘ですか。しつこいですね。
「お気持ちはありがたいけれど。私は戻りませんよ、そっちには」
「……」
「あなたの事は嫌いじゃないです。でも方針の違いは覆せません」
「……そうですか。とても残念です」
タミオラさんは下手な作り笑いを浮かべると、去っていきました。
グラウンドの方を見ると、少年少女達はまだ走っています。あれから一時間ぐらい経っていると思うんですけど、よくスタミナが持ちますね……と思ったら、五人ぐらい倒れています。まだ走っている人達も今にも倒れそうです。あ、また一人脱落しました。
これはマズイ。
「アンヘリナさぁぁん!」
私が大声で呼ぶとアンヘリナさんはこちらを見て手を振ります。
「いつまで走っているんですか! そろそろベルナルディッタ様の所に行く時間なのですよぅ!」
私がそう叫ぶと、生き残っていた少年少女達は、ほっとした様になります。
私は、こっちにやって来たアンヘリナさんに言います。
「あんなに厳しくしたら死んでしまいますよ」
「あの程度で人は死にません」
アンヘリナさんはきっぱりと言い切ります。
「いや……私が言いたいのはそういう事じゃなくて」
「聞いてくださいエクレーラちゃん。あんな訓練は不用だと言う人はいます。でも、みんな実戦で負けて死んでしまいました。私はあの子達には死んで欲しくないのです」
「……」
言ってる事は解りますが。こんなハードな訓練をしていたら、未来ある少年少女達が絶望に囚われてしまいます。
それとも、心が折れて実戦に出れなくなるのがある意味幸せだと思っているのでしょうか。
これさえなければ、本当にいい人なんですけどね。
それにしてもアンヘリナさんは、ちょっと汗ばんでいる程度です。一時間以上全力ダッシュして疲れの一つも見せないとか、なんなんですかこの人は。
他の人をあなたと同じ基準で鍛えようなんて、無茶だと思います。
死なれたくないなら、むしろ危険から逃げる術を教えるべきなのです。
私とアンヘリナさんは聖堂の隣に立つ尖塔へと向かいます。
この塔の一本の最上階に、ベルナルディッタ様の執務室があるのです。
扉をノックすると中から入室を許可する声がかかります。
やたらと重い金属の扉を開けると、その正面になんとも表現しがたい姿の女性が座っていました。
体の右半分は青いドレスを着ているのですが、左半分は黒い金属製のパーツとそれに突き刺さった無数のコードのような物に侵食されています。
ベルナルディッタ様です。
半身サイボーグ状態。
過去に何があったのか詳しく知らないのですが、私が始めてお会いした時には、もうこんなお姿でした。
ベルナルディッタ様は優しげな微笑を浮かべます。
「エクレーラ、アンヘリナ。召喚に応じてくれてありがとう」
「「はい」」
私とアンヘリナさんは揃って片膝を付きます。
アンヘリナさんは不思議な笑みを浮かべながらお言葉をくれます。
「カタツムリは時を司る獣、その未来を見る事など容易いでしょう」
「は、はい」
これは私に話しかけて、いますよね?
失礼にならないように返事をしてはみますが、何を仰っているのかよく解りません。カタツムリは時を司らないし、獣でもありません。
……この人、本当に大丈夫でしょうか?
あと、どんなに私を煽ててても、書類仕事は手伝いませんからね? 絶対に嫌ですよ?
「今回、あなた達を呼んだのは他でもありません。あなたもよく知っているでしょう。戦闘派の事です」
「……はい。確かに存じております」
知っているけど、あまりいい思い出はありません。
「都市の下層ブロックに最近、妙な物が運び込まれているようです」
「妙な物、ですか?」
「厳重に梱包されているため、正体は判然としていません。しかし、フォルウル・ストラクトの配下の研究員が出入りしているようです」
魔法派のフォルウル様は、だいたいろくな事をしません。
でも百回に一回ぐらいの割合で凄く役に立つ事をしてくれるので安易に切り捨てるわけにも行かなくて、皆困っているのです。
「何か、開発しているのですね?」
「少なくとも、こちらで予算を付けた物ではありません。しかも、レンガルム・マクシーノの直属を見たという報告もあります」
「……それは、確かに嫌な予感がしますね」
レンガルム様の直属と言えば。私、その一人に、ついさっき会っているのです。いえ、タミオラさんの事ですけど。
ところで。
私とベルナルディッタ様は普通に会話しているのですが、アンヘリナさんはちょっと困り顔になっています。
もしかして、上層部の複雑な対立構造について知らなくて話についていけていないのでは?
でも彼女は脳筋ですからね。仕方がないのです。
「それらを踏まえた上で、あなた達二人に命令します」
ベルナルディッタ様は言います。
「エクレーラ。あなたは戦闘派と魔法派が何を企んでいるのかを内偵し、それが必要かつ可能と認められた場合は破壊工作を行いなさい」
「はっ」
「その任務中、何かの危険に見舞われる可能性があります。そこでアンヘリナ。あなたは盾となりエクレーラを守りなさい」
「はっ」
その後、現場の詳細な位置や、現時点で解っている細々した事などについて説明を受けてから、私達はベルナルディッタ様の部屋を退出しました。




