第一話
裏口の扉を開けて外へ出る。
午前五時の裏路地は薄暗く、敗者に相応しい場所だった。
両手にゴミ袋を抱えた俺は腐臭の漂うゴミ捨て場へ向かう。夜の王になりたくてホストになって、しかしそうはなれなかった奴の成れの果て。それが自己分析によって導き出した現在の俺だ。
売上に勝る評価基準は存在しない。
容姿、話術、営業努力、重要なのは客に金を落とさせることだ。勤務態度が優秀なんて言葉はどこにも転がっていない。標準売上を達成できない底辺ホストは、酸素を吸って二酸化炭素を吐き出す有害物質でしかない。
保護用の網を外してゴミ捨て場にゴミ袋を放り込む。この中に俺がいても違和感ないかもなんて自虐的な思考を巡らせてから灰暗い空を見上げた。
頭が痛む。
売上貢献で酒を飲み続けているのだから、肉体的にも精神的にも健康上非常に悪い。しかしそうでもしなければ存在する価値さえなかった。高級背広に身を包み上流階級の女を接客する人気ホストの傍らで、俺たちのような下っ端が虐げられる対象として求められる。なぜなら煌びやかな世界を演出するには、王の絶対的な魅力を引き立たせるための奴隷が必要だからだ。
「さっさと帰って寝よう」
俺は独りごちてから保護用の網を張り直した。店の戸締まりは残っている連中に任せよう。そう考えて徒歩で五分ほどかかる寮まで歩き出そうとしたときだった。
「おい、人間」
この世に誕生して二十一年経つが、こんな呼び止められ方をしたのは初である。不快感より好奇心が突き動かされたのかもしれない。
声の主へ視線を向けると、室外機の上に黒猫がいた。野良にしては毛並みが整っているので、ひょっとすると近くの誰かに飼われているのかもしれない。
「ふむ」
俺は改めて周囲を確認して空耳と判断した。疲れが溜まっていることは自覚していたし、声が聞こえたような気がする現象は珍しくない。
「おい、待て、人間」
再び歩き出そうとした俺の背中に声が投げかけられた。しかし振り返ると黒猫しかいない。俺は瞳を閉じて両手で左右のこめかみをぐりぐりと刺激する。
「人間」
それでも幻聴は消えなかった。
帰りに酔い覚まし効果のあるドリンクでも購入しよう。そんな思考を巡らせていると、声の主は気だるそうに語り始めた。
「現実から目を背けるな」
「だったら話しかけるな」
ついつい幻聴に突っ込んでしまった。
「ふむ。しかしそうなると話が進まない」
正確な返しに思わず瞳を開けてしまう。もちろん室外機の上には黒猫しかいない。誰かが声を合わせているにしても、こんな時間帯を選ぶとは思えないし、なにより俺を騙す理由が世界中を探しても見つからない。
数瞬の沈黙。
「俺は今から馬鹿な質問をするぞ。喋りかけてきたのはお前なのか?」
自らに言い聞かせながら俺は黒猫に問いかける。
張り詰めたような間の抜けたような空気が漂う。
しばらくして黒猫の小さな口から人語が紡がれた。
「まあな」
さっきよりも頭が痛む。
底辺ホストと喋る黒猫。
共通点が月と鼈くらい存在しない。
「用がないなら帰って寝たいんだが?」
「夢のない奴だな。人語を喋る猫が珍しくないのか?」
「幼い頃に飼い猫と話せたらどれだけ楽しいだろうと妄想したことはあるさ。でも実際に喋る猫を見て考えを改めた。かなり気持ち悪いだけでメルヘンな要素なんてどこにもないからな」
これで二足歩行なんてされたら笑うしかない。
黒猫は思案顔を作りながら首を傾げた。
「急いでいるなら用件だけ簡潔に伝えよう」
可愛らしい容姿からは想像もできない重低音が耳に届く。俺は夢と現実の境が曖昧になっていた。
「桐原大河、君には手術を受けないと助からない妹がいるだろう?」
「…………」
桐原大河。
源氏名ではなく本名だ。
しかも妹が病床に伏していることまで把握されている。
なにか返さなければいけないのだが、まったく言葉が思い浮かばなかった。
「ボクは大金を稼ぐために大河がホストになったことを知っている。そしてボクは君の妹を助けることもできるんだ」
その言葉に俺の心が揺らいだ。
これまでに似た台詞を口にした連中は、その全員が詐欺師と呼ばれる存在で、ちゃんとした医者からは沈痛な表情を向けられたことしかない。
「お前は一体……何者だ?」
渇いた声を絞り出すだけで精一杯だった。
黒猫は柔和な笑みを浮かべる。
「この世界に絶望している人間に希望をもたらす存在だ」
「本当に妹を助けられるのか?」
馬鹿な質問だとわかっている。騙すつもりなら正直に答えるはずがないからだ。
それでも俺は――眼前の喋る猫に一縷の望みを賭けたい衝動に抗えなかった。
「ただし条件がある」
「金か?」
常套句に対して定型句を返しておく。黒猫は首を左右に振った。
「この世界の通過に興味なんてない」
「それじゃあ一体、なにを求めている?」
「ボクは君の願いを叶える。だから君もボクの願いを叶えてくれればいい」
俺は力任せに右手で頬を捻る。痛い。どうやら今起きていることは現実らしかった。
「妹が助かるなら命だってくれてやるさ」
「契約成立だな」
その言葉を合図に黒猫の身体から眩い閃光が発せられた。俺は両腕で顔を覆いながら瞳を閉じる。しばらくして周囲を確認すると、いつもと変わらない景色が広がっていた。
腐臭の漂うゴミ捨て場。
しかし室外機の上に黒猫はいない。
「夢――じゃないらしいな」
俺は店の名前を見て異変を理解した。看板にホストクラブ「もののふ」と書かれている。
「ホストクラブ『もののふ』でナンバーワンになってほしい」
脳内に黒猫の声が響いた。俺は反射的に突っ込んでしまう。
「底辺ホストの俺に頼む願うことじゃねえぞ!」
「すでに大河の願いは叶えた。ボクの願いを叶えてくれるまでこちらの世界へは戻れない」
すでに俺の願いが叶った?
もし妹が助かったのなら、俺に思い残すことはないな。
表現し難い脱力感に襲われていると、胸ポケットに入れてある携帯電話が震えた。送信先は公衆電話と表示されている。こんな時間に一体誰だろう?
「もしもし」
「あ、お兄ちゃん? こんな時間にごめんなさい」
「あ、いや、それはいいんだ。それより電話なんかして大丈夫なのか?」
思わず声が上擦ってしまう。
「うん、なんだかとても体調がいいんだよ。検診のとき主治医さんにも話してみる」
「そうか……それはよかったな」
妹が無事なら元の世界に戻れなくても構わない。
等価交換以上の結果だ。契約した黒猫には申し訳ないけどな。
「お兄ちゃん、今度はいつ面会に来れるの? できれば元気なときに会いたいな」
「ああ、そうだな」
言葉が淀む。しばらく二の句を継げなかった。
「……会いたくないの?」
「馬鹿、そんなことあるわけないだろ!」
そうだよな。勝手に納得してる場合じゃない。
元の世界へ戻って妹に会わなきゃ駄目だ。
せっかく元気になった妹――麻里を哀しませることなんて出来ない。
「最近ちょっと仕事が忙しくて行けないけど、時間を作れたら即行で病院に行くから待ってろ」
「うん、待ってる。電話やメールはしても大丈夫?」
「もちろんだ」
「わかった。それじゃあ、病室に戻るね」
「ああ」
俺は通話を終えて携帯電話を胸ポケットへ戻した。
「お前、こんなところでなにをやってるんだ?」
不意に背後から声をかけられた。
振り向くと歌舞伎者とでも呼ぶべき豪奢な着物に身を包んだ青年が立っている。金色の長い髪を後ろで束ねて、しかし両手にはゴミ袋が握られていた。こういう状況の人物には痛いほど心当たりがある。
「俺、桐原大河と申します。このホストクラブ『もののふ』で働かせてください」
俺は最敬礼しながら頼み込んだ。着物姿の青年は緩やかな口調で告げる。
「ああ、そう。入店希望者ね。俺は北条氏康。オーナー店に残ってるから、時間があるなら紹介しようか?」
「はい、お願いします!」
戦国武将が苛烈なナンバーワン争いを繰り広げるホストクラブ「もののふ」で、歴史に疎い俺の新たなホスト生活はこうして始まるのだった。