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荷物の重さ

作者: はな
掲載日:2026/07/29

「自分がされて嫌なことは、相手にもするな」


それが、世界のルールだと七歳の僕は信じていた。


放課後の教室で、担任の先生が言った。


「誰か、資料室までこの荷物を運ぶのを手伝ってくれる人はいませんか?」


僕は誰よりも早く手を挙げた。


段ボールが指に食い込む。


腕が震える。


重い。正直、楽ではない。


でも、その重さが嬉しかった。


僕は今、誰かの役に立っている。


その実感が、胸の奥で小さな火花のように弾けていた。


「重そうだから、持ってあげる」


後ろから声がした。


クラスメイトの女の子だった。


彼女の手は、たぶん優しさから伸ばされたものだった。


でも、彼女は僕の返事を待たなかった。


次の瞬間、僕の腕から段ボールが離れた。


僕が大切に抱えていた「役に立てた」という気持ちまで、一緒に奪われたような気がした。


「かえして!」


僕は叫んだ。


彼女から荷物を取り戻そうとして、手が当たった。


女の子は泣いた。


駆けつけた先生と、周囲の子供たちの視線が僕に集まった。


「どうしてそんなことをするの?」


先生は悲しそうな顔をした。


「親切にしてくれたのに。その優しさを踏みにじるなんて、自分がされたら嫌でしょう?」


僕は言葉を失った。


僕が嫌だったのは、自分で持ちたかった荷物を、勝手に奪われたことだった。


でも、それを上手に表現できるだけの言葉を持たなかった。


周囲が「優しさ」と呼ぶものは、僕にとっては違う感情だった。


その日、僕は初めて覚えた。


自分の感じたことは、世界の正解ではないのだと。


そして、世界が決めた正しさに合わせることが、生きる方法なのだと。


三十五歳になった僕の前には、一枚の履歴書が置かれていた。


二年。一年半。十ヶ月。半年の空白。そして一年。


細切れの職歴。


「一貫性が見えませんね」


転職エージェントの男性は、履歴書から目を上げた。


「企業側は、忍耐力がない、人間関係に問題がある、と判断する可能性があります」


僕はすぐに笑顔を作った。


「おっしゃる通りです。自己管理の甘さを反省しております」


相手が求める答え。


相手が安心する表情。


相手が聞きたい言葉。


僕はそれを探して出力することだけは得意だった。


頭が悪かったわけではない。


むしろ、傷つかないために、人間関係の法則を必死に集めてきた。


基礎心理学。応用心理学。コミュニケーション術。MBTI。エニアグラム。成功者の語る処世術。


世の中にある「人間攻略法」を読み漁り、自分という人間を動かすマニュアルを作った。


面接では完璧に振る舞えた。


相手の表情、声の間、質問の意図。


そこから最適な答えを計算する。


内定はいくつも取れた。


でも、仕事が始まると必ず壁にぶつかった。


「主体的に動いて」


そう言われたから動いた。すると、


「勝手な判断をしないで」


と言われた。


昨日の正解が、今日の不正解になる。


人間の世界には、説明書に書かれていない例外処理が多すぎた。


そのたびに僕の中のシステムは混乱した。


どちらが正しいのか。


何をすれば嫌われないのか。


考え続けて、限界を超えて、僕はまた職場を離れた。


深夜三時。


暗い部屋で、僕はスマートフォンを眺めていた。


検索履歴には、


「三十五歳 転職 絶望」

「MBTI 適職」

「社会不適合者 生き方」


という言葉が並んでいた。


その時、ひとつの投稿が目に入った。


フォロワーは少ない。


空の写真のアイコン。


そこには、こんな文章が書かれていた。


『今日も職場で疲れて、トイレで泣いた。


私は社会に向いていないのかもしれない。


でも、本に書いてあった「あなたは敏感に世界を感じ取れる特別な存在」という言葉に救われた。


科学的根拠はないかもしれない。


でも、これが私を壊さないための盾になるなら、それでいい。


今日も生きていてえらい』


僕はしばらく画面を見つめた。


科学的に正しいかと言われれば、僕には分からない。


専門家なら反論するかもしれない。


でも、その言葉は、その人にとって嘘ではなかった。


崩れそうな自分を支えるための、一本の手すりだった。


僕は気づいた。


僕はずっと、自分の中にある感覚を疑っていた。


誰かが嬉しいと言えば、僕が嫌でも受け入れた。


誰かが正しいと言えば、僕の違和感を間違いにした。


僕が嫌なことを人にされても、世間で『親切』とされている事であれば感謝しなければならない。


僕がされて嫌な事でも、世間で『親切』とされている事を人にしてあげなければならない。


僕だけは、ありのまま生きることは許されない。


周囲が、僕にそう教えたからだ。


七歳の日。


僕が抱えていた段ボールは、ただの荷物ではなかった。


誰かの役に立ちたいという、僕自身の気持ちだった。


あの時の僕は、間違っていなかった。


そして、あの女の子も、きっと間違っていなかった。


優しくしたかった。


助けたかった。


ただ、お互いの気持ちを伝える方法を知らなかっただけだ。


翌日。


僕は小さな貿易会社の面接室にいた。


初老の面接官は、僕の履歴書を見て言った。


「随分と転職を繰り返されていますね」


以前の僕なら、すぐに完璧な答えを探していた。


しかし、今回は違った。


怖かった。


正解ではない言葉を話すことが。


それでも、僕は口を開いた。


「おっしゃる通りです。長く続けられなかったことは、私の弱さだったと思います」


面接官は黙って聞いている。


「私はこれまで、周囲が求める人間になろうとしすぎました。


嫌われない答えを探して、自分が何を感じているのかを忘れていました」


僕は自分の手を見る。


何も持っていないように見える手。


でも、この手で何度も荷物を持とうとしてきた。


「もし働く機会をいただけるなら、今度は誰かの正解を演じるのではなく、目の前の仕事を、自分の手で受け止めたいと思っています」


沈黙のあと、面接官は小さく笑った。


「……ずいぶん正直な方ですね」


外に出ると、雨が降っていた。


鞄の中に折り畳み傘はある。


だけど、なぜだか傘を開く気になれなかった。


冷たい雨がクリーニングしたばかりのスーツを濡らしていく。


昔なら、周囲の視線を気にしていた。


みっともない。効率が悪い。


頭の中の古いマニュアルが騒ぐ。


でも、僕は歩いた。


雨は冷たい。


でも、嫌いではなかった。


これは僕が感じていることだった。


誰かに決められた答えではない。


三十五歳の僕が、初めて自分で選んだ答えだった。

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