潮(三)
あの日、男を助けた後、私は母上たちの元に戻った。
ちょうど名物の貝焼きを食べ終わったところで、母上が「今度は甘味処に行きましょう」と、別の店に行ったりしていたから、家に帰って来た時にはすっかり日が暮れていた。
一階の酒屋は祭りの影響もあって、慌ただしいのに、姉さまの姿がない。
いつもなら店の手伝いなんてしない父上が、注文をとって間違えて怒られたりしていた。
「澪はどうしたんですか?」
「さぁ、知らないよ。何度も呼んでるんだけど、あの子ちっとも降りて来やしない」
母上が伯母に訊ねたが、姉さまは二階から降りてこない。
直接呼びに行きたくても、お客がいるから二階に上がる暇がなく、そのままなのだとか。
「昼時に一度出かけてね、帰って来たけれどなんというか、真っ青な顔をしていたんだよ。具合でも悪くて、寝てるんじゃないかとも思ったんだけど……」
気にかけてやれる暇なんてなくて、そのまま今に至るそうだ。
私は自分と母の荷物を持って二階に上がった。
「姉さま?」
荷物を置いて、姉さまの部屋を開ける。
部屋は明かりの一つも点いていなくて、具合が悪くて横になっているのかとも思ったけれど、布団も敷かれていないし、姉さまはいなかった。
その代わり、窓の前にある文机の上に、私宛の文が一通。
灯りを点けて読んでみれば、別れの文だった。
「……何よ、これ――!!」
それも、もう徒浜には帰って来ないという。
姉さまは家族を置いて、私を置いて、出て行った。
探さないでと書いてあった。
確かに姉さまの字だ。
でも、震えている。
文字が震えていて、これは誰かに脅されて書いたのではないかと思った。
「母上!! 姉さまが!! 姉さまが!!」
慌てて一階に降りる。
手紙を母上に見せると、父上も伯母も真っ青になっていた。
「……まさか――おい、庄太郎は? 庄太郎はどうした!?」
「庄太郎……?」
父が酒屋の客たちを見渡しながら叫んだ。
「庄太郎……? 庄太郎って、誰?」
「人魚を探しに来た侍さ。澪の命の恩人さ」
「姉さまの!?」
伯母に詳しく訊くと、私が隣の村に行った数日後に姉さまが庄太郎という侍を連れて来た。
人魚を捜しに来た妙な輩が多いから、宿の営業はしていなかったが、姉さまが庄太郎は命の恩人だからと、特別に部屋を貸してやったそうだ。
「なんでも、普段はお城の警備をしている侍とかなんとか……そこの姫様に頼まれて、人魚を探していた男さ。ここんところに傷があって……」
伯母は額を指さしてそう言った。
「庄太郎だったら、さっきここへ来る前にすれ違ったぜ?」
「何だって!?」
「女連れだったけど……まさか、あれ、澪ちゃんか?」
客の一人が、その庄太郎という男が顔を隠した女を連れて歩いているのを見ていた。
「暗かったし、頭巾で顔はみえんかったけど……女だったのは確かだ」
「あいつは人魚を探しに来ていたんだろう……? それなら、澪が――」
言いかけて、父上は口を閉ざした。
その場には、他の村から来た客もいたのだ。
姉さまが人魚であることを知られたかもしれないなんて、言えるはずがなかった。
私はすぐに追いかけるべきだと言ったが、その時、突然、雷鳴が鳴り響いて、雨が降り始めた。
「この天気では駄目だ。それに、手紙が偽物だとは――……少なくとも俺の目には、庄太郎はこれまで人魚を探しに来たよそ者とは違って見えた」
「違う……!? どこが!?」
「落ち着け、潮。仮に澪があいつに攫われたとしても、澪だって馬鹿じゃない」
「それは……」
確かに姉さまなら頭がいいから、どうにかして逃げる方法を見つけるかもしれない。
例えば、川に飛び込んで、魚の姿で逃げてしまえば、普通の人間なら追いつけない。
ましてや、あの男は泳げないようだった。
水の中にさえ入ってしまえば……
でも、おその前に殺されてしまったら?
いくら姉さまでも、傷を負っていたら、泳げない。
「――それに、この手紙には『落ち着いたらこちらから連絡する』とも書かれている。澪のことだ、何か考えがあってのことじゃぁないのか?」
父上はそう言っていたけれど、私は信じられなかった。
姉さまが、私に何の相談もせずにそんな、知らない男と一緒に村を出て行くなんて信じられない。
私は、姉さまに早く会いたくて、このひと月、ずっと我慢していた。
姉さまに会える日が来るのを、ずっと楽しみにしていたのに……
それから半月後、姉さまから文が届いた。
庄太郎と夫婦になったという連絡だった。
今は幸せにやっているから、安心して欲しいと書かれていた。
私は文を届けてくれた人に、すぐに返事を書いて持たせた。
ひと月後にまた文が届いて、私もすぐに返事を書いた。
姉さまはどこに住んでいるのかは教えてくれなかったから、私は文を持って行った人の後をつけたけれど、途中で見失ってしまった。
仕方がなく、家に戻った。
また返事が来たら、今度こそしっかり張り付いてやる。
そう思っていたのだけど……
ふた月を過ぎても、姉さまからの連絡は、それ以来一切なかった。




