庄太郎(四)
「あんた、澪を嫁にしようとしてるんじゃぁないだろうね」
宿屋を手伝っている――といっても、俺が見た限り一階の酒屋で料理を作っているだけの澪の伯母は、とても無口な女だった。
数日滞在していたが、一度も話しかけられたこともない。
ところが、澪が「明日、母と妹が帰って来るかも知れない」と言ったその日の夜、唐突にそう言われてしまった。
「もし、そう考えてるんだったら、やめた方がいい。潮が帰って来る前に、立ち去った方がいい」
「……それは、澪が勝手に俺を泊めているから――か?」
「それもあるけどね、澪に手を出すんじゃぁないって言ってるんだよ」
伯母の話によれば、潮は姉である澪を慕っている。
双子と言っても、二人は全く同じ顔というわけではないらしい。
潮は童顔で、自分より美人で大人っぽい姉を強く憧れているほどなのだとか。
その為、潮は姉がどこの馬の骨ともわからない男に取られるのを嫌がるだろうという話だった。
「澪だって年頃だからね、何度か縁談の話はあったんだ。でも、潮が全部駄目にした。あの子は澪をずっと自分の側に置いておきたいのさ」
「でも、今は隣の村に行っているんだろう?」
「ああ、仕方がなくね。病気を治すためだし、ひと月程度だしね。でも、嫁ぐとなれば、話は別だろう? あんたがこの村にずっといるというなら、話は変わってくるかもしれないけどね」
それはない。
人魚の肉さえ手に入れば、俺はすぐにでも城に戻る。
あたえられた期日までに帰らなければ、翠は殺される。
確かに澪は美しいし、心の優しいいい女だ。
だが、澪を娶ろうなんて全く考えてもいないことだった。
「まさか。俺は目的さえ果たせれば、それでいい。それに、嫁だなんて――」
考えたことがなかった。
確かに優人に薦められて婚約まで行った女はいたが、自分から嫁が欲しいだなんて思ったことは一度もないし、その女を心から愛していたとは思えない。
仮に俺が心から愛せるような、そういう女が現れたとしても、俺が一番大切に思っているのは翠だし、翠に反対されればすぐに別れるだろうなと、簡単に想像できる。
「それならいいけどね。くれぐれも、潮の前ではそう誤解されないように気を付けておくれよ」
面倒なことはごめんだからね、と言って、伯母は厨房に戻って行った。
*
翌日も俺は朝からいつものように人魚について聞いて回った。
その日は快晴で、浜辺の村だっていうのに、風もまったく吹いていなかったと思う。
そのせいか、いつもより暑く感じた。
そして、太陽の位置が高くなるにつれて、気温は上がる。
ふらふらした足取りで、大した成果も得られないし、目の前に海があるんだから――海に入って少し涼もうと砂浜へ行った。
俺は泳げないから、あまり沖の方にはいかないように、浅瀬のところに足をつけただけでも冷たくて、心地がいいと思っていたんだ。
立っていられるギリギリの場所まで行こうと海の中を歩いて……膝まで浸かったあと、もう一歩と踏み出すと、片足は何も踏めなかった。
そこから突然、海が深くなったようだった。
情けなく転んで、そのまま波に流されてしまった。
俺は泳げないんだ。
家の近くに川はあっても、流れが速すぎてとても泳ごうなんて思ったことはない。
海が近ければ、また別だったのかもしれないが……
溺れて、もがいていた。
苦しくて仕方がない。
このまま死んでしまうんじゃないかと思った時、大きな白い魚が俺の目の前を横切ったのが一瞬見えた。
喰われるのではないかと思ったその瞬間、誰かが俺の衣を掴んで、引っ張って……
そこで限界が来たのか、次に目が覚めた時は砂浜にあおむけで倒れていた。
俺の隣に誰かが座っている気配がして、首だけそちらを向くと、女だった。
俺は最初、その女は澪だと思ったのだが、
「まったく、泳げないくせに海に入るなんて、死にたいのか」
声と口調がまるで違った。
「私が見つけなければ、死ぬところだったぞ?」
澪の女らしく、少しか細いような声と違って、腹から声が出ているような、快活そうな声の少女だった。
俺はその少女に助けてもらった礼を言って、それから、海の中にいた「あの大きな魚はなんだ」と訊いた。
「大きな魚? さぁ、そんなのいたかな? 私は見てないけど……?」
「見てない? 俺はてっきり、あれに食われるかと思ったんだが……」
身振り手振りで大きさや形、色を伝えたが、俺が何を言っても、少女は小首を傾げる。
自分の顎に右人差し指を押し当て、少し左側に頭を傾けているその様は、澪と似ているように見えた。
この少女は、澪ではないのに。
「うーん、そう言われても……ここは海だから、色々な魚がいるし……大きい魚も小さい魚も――私はただ、溺れているのが見えたから助けただけだ。何か、幻覚でも見たんじゃないか?」
「……そう、だろうか?」
溺れて気が動転して、何か見間違えたのかもしれない。
少女はそういうと、すくっと立ち上がり、足元の砂を払った。
「とにかく、もう海には入らない方がいい。泳げないのだから……あんたも、人魚を探しにこの村に来たのか?」
「ああ、そうだ」
「あんなのはただの噂だ。別の村を当たった方がいい。それに――」
逆光で、少女の顔はよく見えない。
だから、どんな表情をしていたのかわからなかった。
「仮にこの村に人魚がいたとしても、誰も教えてはくれないよ。徒浜の人たちは、よそ者を信用していないからね」
少女はそう言って、さっそうと去って行った。
俺はその場でしばらく休んだ後、もうここにいても見つからないのだと、なんだかすっかり諦めてしまって、宿に戻った。
明日からは別の村に行って、人魚の話を聞いて回ろうと。
人魚がいると噂されている場所は、徒浜以外にもあるのだから、と。
だから、まさかこの後、宿で待っていた澪に、自分が人魚であること――いや、この村の人たちが、本当は皆、人魚であると打ち明けられるなんて、思いもしなかった。




