澪(三)
「どこから広まったのかしら……まったく」
――人魚の肉を探している。
そういう輩が、だんだん徒浜に増え始めた頃だった。
母上が道楽で始めた宿屋にも、何人かそういう客がいた。
しばらく潮の治療のために隣の村へ行くという母上が私に、困り顔で言いつけたのは、「誰も泊めないように」ということ。
今の客が全員いなくなったら、新たな客は母上が戻ってくるまでとらない。
そろそろ祭りの次期だし、一階の酒屋の売り上げだけで十分だと、私と伯母に任せて、母上は潮を連れて行ってしまった。
ひと月は戻って来ないらしく、私も「ひと月も潮と離れられるのか」と最初は嬉しかったけれど、日が経つにつれて、つい「あと何日で潮が戻って来る」と思ってしまう。
これまでも、何日か治療の為に母上が潮と一緒に出て行くことはあった。
戻ってきたらまた、いつもの地獄に戻ってしまうのが怖かった。
潮と一緒にいるのが辛い。
私の気持ちなんて家族の誰も知らないだろうけれど、潮と離れられるその期間は、私が少しだけ解放された気分になっていた。
最初は母上がいないのが寂しかったけれど、ある日気がついた。
母上は、いてもいなくても潮の事しか見ていないのだと。
父上は漁に出ている間はほぼ家にいないし、伯母は料理の腕は一流だけれど無口で何を考えているかわからない。
私の事なんて、きっとどうでもいいと思ってる。
――帰りたくない。
伯母に頼まれた買い物の帰り道、突然そう思った。
今なら、潮も母上も父上もいない。
家にいるのは伯母だけ。
潮がいない今が、逃げ出す絶好の機会ではないかと思った。
でも、逃げ出して、どこへ行けばいいのだろう。
私には頼れる友人もいないし、お金もない。
逃げ出せたとして、どこに?
何処へ行けば、潮から離れられる?
「――なぁ、ねえちゃん聞いてるか?」
そんな風に頭の中でぐるぐると考えながら歩いていたら、いつの間にか見知らぬ男に絡まれていた。
「この村に、人魚がいるって話を聞いたんだ。どこにいるか、知らねぇか?」
「知らないです……」
男は私の前を塞ぐように立ち、かわそうとしてもついてくる。
今こんな醜男と話している暇はない。
私は、考えなければならないのに。
「知らないってことはないだろう? 人魚の女ってのはすげぇ美人だって聞いたぜ? ねえちゃん、いい顔してんじゃねぇか」
「やめてください……!」
私は何度もやめてと言ったが、男は私の腕を掴んできた。
「いいじゃねぇか、ちょっと話が聞きてぇだけだ。すぐに終わる」
「ちょっと! 触らないで」
振りほどきたくても、力の差がありすぎてどうにもならない。
どうしたらいいのかわからなかった。
こんなことなら、護身術でも身に着けておけばよかったと後悔しても、今更遅い。
「おい、その手を放せ」
困っていた私を助けてくれたのは、庄太郎という男だった。
額に傷はあるけれど、徒浜の――人魚ではない、人間の男にしては顔が整いて、上背もあって……
なにより、あの人に似ている気がした。
潮と会う前の、浩助さんに。
*
助けてくれたお礼として、私は母上の言いつけを破って庄太郎さんに部屋を貸した。
窓から海が一望できる二階の一番いい部屋。
私は庄太郎さんと話していると、彼と一緒にいると、浩助さんが戻ってきてくれたような気がして、嬉しかった。
けれど、庄太郎さんは人魚じゃない。
それに、どうやら人魚を捜しにどこかの城からやって来たお侍さんであることが分かった。
必死に色々な人に訊いて回っているのを見て、胸が痛い。
この村の人間は、決して人魚がこの村にいるだなんて言わない。
言ってしまったら、どんな酷い目に遭うかわかっているから。
「どうして、庄太郎さんはそんなに人魚を捜しているのですか?」
それでも、あまりに一生懸命だったから、つい気になって理由を訊いてしまった。
「……妹を、助けるためだ」
庄太郎さんは、酒をちびちびと飲みながら教えてくれた。
「俺が半年以内に人魚の肉を城に持ち帰らなければ、妹は殺されてしまう。戦で両親も他の弟たちも亡くした俺にとって、妹はたった一人の家族なんだ。家族を鏡を壊した罪なんかで殺されたくない」
そうか、庄太郎さんには、帰りを待っている家族がいるのか。
それじゃぁ、もし人魚が見つかったら、すぐに帰ってしまうのね。
ずっと、ここにいて欲しい。
私の側にいて欲しい。
「妹が無事なら、俺はそれで充分だ」
でも、そんな事情がある人に、そんなことを言えるはずもなかった。
人魚を見つけたら……いや、もしかしたら、ここにはいないと諦めて別のところへ行ってしまうかもしれない。
庄太郎さんがいなくなる。
私はそれが悲しくて、気づいたら涙が止まらなくなっていた。
「な、泣くなよ! これくらいで……」
「すみません……でも、お話を聞いていたら、思い出してしまって――」
これは、嘘だ。
「言ったでしょう? 私にも妹がいるのです。たった一人の。だから、その気持ちはよくわかります」
「妹……? ああ、そういえば、隣の村に行っていると言っていたか」
「ええ。もうそろそろ帰って来る頃ですが……妹は私と違って昔から体が弱くて……」
嘘だ。
「もしも潮が死んでしまったら……と、つい考えてしまったのです。妹のことを思ったら、涙が止まらなくて」
潮の事なんてどうでもいい。
私は、あなたがいなくなってしまうのが悲しくてたまらない。
愛している。
私は、あなたを愛している。
でも、言えない。
私は今のままでいようと思った。
どうせ、この人はこの村を出て行く。
だったら、その短い時間を楽しもうと思った。
これは、ひと夏の恋なのだと。
それも、私の一方的な片思い。
それでいい。
庄太郎さんは優しい人だし、彼の優しい眼差しが私に向けられているだけで、私は幸せだった。
でも、見てしまった。
買い出しに行った帰り道、浜辺で庄太郎さんと潮が一緒にいるところを。




