澪(一)
あの人を一目見た時から、私の心は決まっていた。
大好きだったあの人に雰囲気が似ていて、その上、家族のために一生懸命なところとか、不意に抱き留められた時の腕の感じだとか。
この胸の高鳴りが、恋でなければ、何と呼ぶのか私にはわからない。
もう失いたくなかった。
誰にも、奪われたくなかった。
だから、私の小指一本くらい、あの村から私を連れ去ってくれるなら、いくらでもくれてやる。
愛していた。
本当に、私はあの人と一緒になれて嬉しかった。
取引だなんて言ったけれど、あの人は優しくて、私を大切にしてくれていた。
もうこれで大丈夫だって、そう、思えたのに……
私を抱いた後、
「翠……」
寝言で何度も別の女の名前を呼ぶなんて。
ああ、やっぱり一番は、私じゃないんだって、知ってしまった。
私はまた、誰かの一番ではない。
悔しくて、悲しくて、それでも、私だけを見て欲しくて……
たくさん考えて、出した結論は、半分賭けのようだったけれど、信じてよかった。
少し時間はかかってしまったけれど、これでいい。
これでよかった。
あの人の一番に、私はなれたのだから。
* * *
「――不老長寿?」
「ああ、人魚の肉には、人間が食べるとそういう効果がある」
私が初めて人魚の肉にそんな力があると知ったのは、七つの時だった。
人魚が暮らしているこの徒浜では、七つになると村長からその話を聞かされる。
潮も一緒にその話を聞いていたけれど、あの子は小さい頃から体が弱かったから、話の途中で帰ってしまった。
私は他の子たちと残って、最後まで話を聞いた。
「みんなは家族以外の人の前で、魚に変身してはいけないと言い聞かされているだろう?」
「うん、絶対に外で変身しちゃ駄目って、母上が言っていた」
「そうだ。それは、この徒浜には多くの人魚が暮らしていることを、人間に知られてはいけないからなんだ」
人間に人魚であることを知られてはいけない。
その一番の理由が、その不老長寿の力にあるのだと、村長は言った。
「人魚の肉を食べると、人間は時間が止まる。老けないし、怪我をしてもすぐに治ってしまう。だから、普通の人間よりずっと長生きするようになる」
「それじゃぁ、何をしても死なないの?」
「そんなことはない。本来の寿命の……そうだな、十倍くらいの時が経てば死ぬといわれている。人魚を食べた人間として有名な、八百比丘尼と呼ばれている人間の女は、その呼び名の通り八百年生きたとされているから」
何度も死ぬほどの怪我を負っていたら、もっと早くに死んでいた可能性もある、と、村長は微笑しながら続ける。
「人魚が人間にとって不老長寿の薬となることは本当の話だ。儂らの先祖が、その事実を知った人間に利用され、悲惨な目に遭った。一頭の人魚からいくつも肉を切り出して、高値で売られた。あんな恐ろしいことが二度と起こらないように、儂ら人魚は決して人間の前で変身してはいけないんだよ」
それに、村長はこうも言っていた。
「だが、もし君が人魚であることを人間に知られてしまったら、君たちには三つの選択肢がある」
「三つ……?」
一つ目は、その人間に殺される前に、その人間を殺すこと。
二つ目は、体の体の一部を自ら差し出し、取引に応じさせること。
「取引……?」
「人間にも様々なやつがいるが、全員が全員、悪い人間とは限らない。どうしても悪い奴なら、一つ目の殺すを選択するのがいいが、そうでないなら、指一本と引き換えに、こちらの願いも叶えてもらえばいい。金でも土地でも、なんでもいい。人間が不老長寿になるには、指一本分くらいの一部でいい。全部は多すぎる。それが、三つ目につながる」
「え? どういう意味ですか?」
みんな、意味が分からず首を傾げていた。
てっきり、食べられて死んでしまうと思っていたこともあり、多すぎるとはどういう意味か想像がつかなかった。
「三つ目は、人間の体を乗っ取ること」
「え……?」
ますます意味が分からなかった。
人魚は人間と魚の両方に変身できる。
両方の姿でいられて、どちらが本来の姿というわけでもない。
半分半分でいる方が楽な人魚もいれば、顔以外は魚の方が楽だというものや、その逆もある。
「多すぎる薬は、毒になるんだ。例えば、人魚の肉を一人の人間がたくさん食べたとしよう。たくさん食われたら、儂らは死んでしまう。だが、それは人間にとっての毒になる。人間が体に取り込んだ人魚の肉は毒となり、やがてその人間の体を乗っ取る」
外見は自分を食べた人間そのものであるが、中身が変わるらしい。
「どうしても逃げられないなら、多くの人間に食われないように。一人の人間に大半を食われて死ね。そうすれば、その人間の体はやがて、お前のものになる」
その人間の地位も、名誉も、家族も、友人も、恋人も、全部全部、お前のものになるのだ、と、村長は私の目を見て、はっきり言った。




