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人魚殺し  作者: 星来香文子
第三章 翠

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翠(四)

 兄さまのお嫁さんは、人魚だった。

 あの時、姫さまの前に差し出された綺麗な人魚。

 妖怪、化け物。

 人間じゃない。

 不老長寿の妙薬。


 あの時は一瞬の事だったし、少し距離があったから、こんなに間近で見たのは初めてだった。

 まだしばらく水に浸かっていなければならないそうで、澪さんとそのまま少し話をした。

 人魚のこと。

 澪さんの家族のとか、どこからきて、どうして兄さまと一緒になろうと思ったのか。


 色々話したような気がする。

 でも、どうしてだろう。

 全然覚えていない。


 わたしのお腹はぐうぐう鳴り続けていて、空腹で、空腹で、人魚を食べた姫さまのことが頭から離れない。


 ――寝なくてもいい。傷ができても、すぐに治る。

 ――人魚の肉を食べる前と、何をしても変わらない。

 ――空腹がどんなものだったか、もう妾にはわからない。

 ――何かを食べたいとも思わないし、食べなくてもこのままで、生きていける。

 ――だから、食べ物はもう必要ないの。



 お腹がすいた。

 お腹がすいて、死にそうだ。


 わたしもこれを食べれば、この人魚の肉を食べれば、もう、こんなに辛い思いをしなくて済むのかな?


 それに、この人魚からは、何だかとても甘い香りがするの。

 いつか、姫さまから貰った異国の甘い砂糖菓子のような……



 少しでいい。

 ほんの少しで……

 小指程度の量でいい。


 姫さまがそうしたように、わたしも、人魚の肉を――――


「いっ……!」



 わたしは水の中にいる魚の白い腕に、嚙みついた。




 *




「……り……翠!」

「え……?」


 気がつくと、兄さまがわたしを呼んでいた。


「兄さま? あら、おかえりなさい……」


 ……あれ?

 わたし、いつの間に台所に来たんだっけ?


「ぎゃっ!」


 床に転がっていた何かに躓いて、わたしは転んでしまった。

 わたしを抱き起し、兄さまはわたしの着ていた衣を無理やり全部はぎ取った。


「ちょっと……!! 兄さま、何するの!?」

「いいから、俺の言うことを聞け、翠」


 そして、すぐに風呂に入るように言った。

 意味が分からない。

 わたし、そんなに汚かった?

 衣を全部取っちゃうくらいに?


 どうしてそうなったのか、理由は分からな片けれど、仕方がなく湯舟にたまっていた水を肩から掛け流した。

 暖かくもない、冷めきったぬるいお湯で頭を洗いながら、考える。


 なんで?

 兄さまが何を考えているのか、さっぱりわからなかった。


「……あれ?」


 ふと自分のお腹を見て考える。

 膨れている。


 たくさん食べたあと、いつもこんな風にお腹が大きくなって、でも、すぐに元に戻るの。

 食べったっけ?

 何を?


 ああ、そうだ、魚だ。

 とても美味しい魚だった。

 塩をかけて食べたら、もっと美味しかった。


 なんていう魚だったかしら?

 大きな……――――あら?

 そういえば、澪さんはどこに行ったのかしら?


 考えても、考えてもわからなくて、わたしはずっと首を傾げていたような気がする。

 でも、考えても答えが出ないのだから、それは無駄なことだといつも通り髪を洗って、顔を洗って、体を洗って、お風呂から出た。


「……あら、兄さまが新しく買ってきてくれたのかしら?」


 着替えを入れている籠の中に、見たことのない赤い着物が置いてあった。

 きっと、兄さまが仕事を頑張ったわたしの為に用意してくれたのね。

 袖を通すと、少しだけ短い。

 もう、兄さまったら。

 わたしの腕の長さも分かっていないなんて。


 何年わたしの兄さまをやっているのかしら。

 わたし、兄さまの中ではまだまだ子供のままなのね。

 もうこんなに大きくなったのに。


「兄さま?」


 台所を覗くと、兄さまは床を拭いているのが見えた。

 手伝おうとしたけど、「お前は良いから、自分の部屋で休んでいなさい」と言われて、仕方がなく言われた通りにした。


 とても眠かったし、まぁ、いいか。

 久しぶりに自分の布団に入って、わたしは休んだ。

 いつもなら、お腹がすいて、途中で起きてしまうのに、その日はぐっすり眠ることができた。


 次に目を覚ますと、兄さまがわたしの隣で眠っていた。

 いつからここにいたのか、全然気がつかなかった。

 兄さまだって疲れているんだって、そう思って、布団をかけて部屋を出る。


「あら、太陽があんなに高い位置に」


 いつの間にお昼になっていたんだろう。

 わたしが寝たのが、昨日の夕方のはずだから、半日も眠ってしまったんだなと気がついた。


 それにしても、なんだか妙な感じがする。

 体がいつもより軽い気がする。

 もう半日も何も口にしていないのに、全然お腹がすかない。

 なんでだろう?

 どうしてだろう?


 考えても分からない。

 考えても答えが出ないのだから、そんなのは時間の無駄。

 もっと別のことを考えなくちゃ。


 えーと、なんだったっけ?

 ああ、そうそう、兄さまは結婚したんだ。

 それで、えーと、お嫁さんはどこにいるのかな?


 どんな人だろう。

 早く会いたいな。





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