翠(四)
兄さまのお嫁さんは、人魚だった。
あの時、姫さまの前に差し出された綺麗な人魚。
妖怪、化け物。
人間じゃない。
不老長寿の妙薬。
あの時は一瞬の事だったし、少し距離があったから、こんなに間近で見たのは初めてだった。
まだしばらく水に浸かっていなければならないそうで、澪さんとそのまま少し話をした。
人魚のこと。
澪さんの家族のとか、どこからきて、どうして兄さまと一緒になろうと思ったのか。
色々話したような気がする。
でも、どうしてだろう。
全然覚えていない。
わたしのお腹はぐうぐう鳴り続けていて、空腹で、空腹で、人魚を食べた姫さまのことが頭から離れない。
――寝なくてもいい。傷ができても、すぐに治る。
――人魚の肉を食べる前と、何をしても変わらない。
――空腹がどんなものだったか、もう妾にはわからない。
――何かを食べたいとも思わないし、食べなくてもこのままで、生きていける。
――だから、食べ物はもう必要ないの。
お腹がすいた。
お腹がすいて、死にそうだ。
わたしもこれを食べれば、この人魚の肉を食べれば、もう、こんなに辛い思いをしなくて済むのかな?
それに、この人魚からは、何だかとても甘い香りがするの。
いつか、姫さまから貰った異国の甘い砂糖菓子のような……
少しでいい。
ほんの少しで……
小指程度の量でいい。
姫さまがそうしたように、わたしも、人魚の肉を――――
「いっ……!」
わたしは水の中にいる魚の白い腕に、嚙みついた。
*
「……り……翠!」
「え……?」
気がつくと、兄さまがわたしを呼んでいた。
「兄さま? あら、おかえりなさい……」
……あれ?
わたし、いつの間に台所に来たんだっけ?
「ぎゃっ!」
床に転がっていた何かに躓いて、わたしは転んでしまった。
わたしを抱き起し、兄さまはわたしの着ていた衣を無理やり全部はぎ取った。
「ちょっと……!! 兄さま、何するの!?」
「いいから、俺の言うことを聞け、翠」
そして、すぐに風呂に入るように言った。
意味が分からない。
わたし、そんなに汚かった?
衣を全部取っちゃうくらいに?
どうしてそうなったのか、理由は分からな片けれど、仕方がなく湯舟にたまっていた水を肩から掛け流した。
暖かくもない、冷めきったぬるいお湯で頭を洗いながら、考える。
なんで?
兄さまが何を考えているのか、さっぱりわからなかった。
「……あれ?」
ふと自分のお腹を見て考える。
膨れている。
たくさん食べたあと、いつもこんな風にお腹が大きくなって、でも、すぐに元に戻るの。
食べったっけ?
何を?
ああ、そうだ、魚だ。
とても美味しい魚だった。
塩をかけて食べたら、もっと美味しかった。
なんていう魚だったかしら?
大きな……――――あら?
そういえば、澪さんはどこに行ったのかしら?
考えても、考えてもわからなくて、わたしはずっと首を傾げていたような気がする。
でも、考えても答えが出ないのだから、それは無駄なことだといつも通り髪を洗って、顔を洗って、体を洗って、お風呂から出た。
「……あら、兄さまが新しく買ってきてくれたのかしら?」
着替えを入れている籠の中に、見たことのない赤い着物が置いてあった。
きっと、兄さまが仕事を頑張ったわたしの為に用意してくれたのね。
袖を通すと、少しだけ短い。
もう、兄さまったら。
わたしの腕の長さも分かっていないなんて。
何年わたしの兄さまをやっているのかしら。
わたし、兄さまの中ではまだまだ子供のままなのね。
もうこんなに大きくなったのに。
「兄さま?」
台所を覗くと、兄さまは床を拭いているのが見えた。
手伝おうとしたけど、「お前は良いから、自分の部屋で休んでいなさい」と言われて、仕方がなく言われた通りにした。
とても眠かったし、まぁ、いいか。
久しぶりに自分の布団に入って、わたしは休んだ。
いつもなら、お腹がすいて、途中で起きてしまうのに、その日はぐっすり眠ることができた。
次に目を覚ますと、兄さまがわたしの隣で眠っていた。
いつからここにいたのか、全然気がつかなかった。
兄さまだって疲れているんだって、そう思って、布団をかけて部屋を出る。
「あら、太陽があんなに高い位置に」
いつの間にお昼になっていたんだろう。
わたしが寝たのが、昨日の夕方のはずだから、半日も眠ってしまったんだなと気がついた。
それにしても、なんだか妙な感じがする。
体がいつもより軽い気がする。
もう半日も何も口にしていないのに、全然お腹がすかない。
なんでだろう?
どうしてだろう?
考えても分からない。
考えても答えが出ないのだから、そんなのは時間の無駄。
もっと別のことを考えなくちゃ。
えーと、なんだったっけ?
ああ、そうそう、兄さまは結婚したんだ。
それで、えーと、お嫁さんはどこにいるのかな?
どんな人だろう。
早く会いたいな。




