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プロローグ:前編




私は、どこにでもいるような普通の学生だった。




ごくごく平凡な人生を歩む私は、試験で名前を書いて出せば受かる誰にでも入れるような大学を、悪くはないが特段良いというわけでもない平均的な成績で卒業し、就職が決まっていた私は4月から晴れてある大学の事務職員に採用された。

就職といっても仲の良かった教授からの推薦……もとい、コネ就職のようなものだった。

そんなコネの就職でも両親は、



「良かったねぇ」



と嬉しそうに祝ってくれた。私もそう言われて社会人になるのだと実感し、嬉しい気持ちになった半面、学生生活が終わってしまうんだという焦燥感も同時に感じるようになった。






そして私は実家を出て、上京して一人暮らしを始める事になった。

実家から引っ越す前の日の夜に、






「辛くなったらいつでも帰っておいで」






と言ってくれた両親の言葉が、ずっと脳裏に焼きついている。






✳︎✳︎ ✳︎✳︎ ✳︎✳︎ ✳︎✳︎ ✳︎✳︎






新生活の、春。




仕事を始めてからは、慣れない電車の乗り継ぎ通勤と業務内容を覚えることでてんやわんやな毎日。



自分のデスクに置かれた山のように積まれた書類を見て、頭がパンクしそうになった。置ききれない分は床にまで散乱してしまっている有様。

いくらデジタル化されてきている世の中でも、紙の書類がゼロになる事はないのだ。現にこうして、書類が山積みになっている。

こんなにごちゃごちゃしているから、愛用のボールペンも書類の山に埋もれてしまった。しかし、下手にどけたら山が崩れてきそうで怖い。

結果、1枚1枚処理していって発掘するしかないという結論に至る。



私が通っていた大学の1年の頃は、紙に書いた履修届を学生課の窓口で提出し、事務の方々がその履修届を見ながら手作業で入力していた。

大学2年になってからはシステムが大きく変わり、パソコンで履修届を入力しメールで送るといったやり方に変わった。まぁ、いずれこの方法もどんどん改善されていくんだろうけどね。

少しでも業務を効率化して、事務の負担を減らす。これからの社会に求められることだよね。




話が戻るが、学生時代とは異なる忙しさが、社会人にはあるのだと知った春になった。




そんな中でも、失敗しながらも1つ1つの仕事を確実に覚えてスキルアップしているという実感が自信に繋がり、何とか仕事へのモチベーションを保っていた。




だが仕事で明らかに大きな失敗をしたとなれば、さすがに凹む。




「あ〜……ここのExcelの関数、全角で入れちゃった?半角に直さないと正しく読み取ってくれないから気をつけて。ほら、こっちの関数も1列ズレてる。そのまま前のシート、コピペしちゃった?ここは最初から直してね。……いくらExcelが使えるシステムでも、使う人間側がこれじゃあ表計算してる意味ないからさ」




教育係の先輩から指摘された箇所をみて、私は青ざめた。




「……!すぐに半角に打ち直します!関数も入れ直します!……お手をおかけしてすみません。ご指摘ありがとうございます」



「うん、次からは気をつけてね」




大学でも学んだはずなのに、いざ仕事で使うとなると色々と抜けてしまってボロが出まくってしまう。自分の無能さが明るみになり、自己嫌悪のループにハマるとなかなか抜け出せなくなる。自分は出来ない子なんだと、改めて再認識するのが辛かった。



言われたところをすぐに直そうとパソコンに目を向けるが、隣の席から聞こえた、



「クスッ」



という、ほんの少しの笑う声にドキリとした。

声の聞こえた先は一緒に入社した同期の倉橋さんだった。倉橋さんはかの有名なT大を卒業して頭も人一番良く、人あたりも良くて周りから好かれている。おまけに小顔で可愛く、お胸も大きいときたものだ。これに性格の良さが加わったらもう最強じゃん?



私はといえば3流大学の出で頭は良くなく、人前で話すのが苦手で暗い印象。髪は三つ編みで目も悪いので分厚いレンズの丸メガネをかけている。最近はよく眠れないせいかお肌の調子も悪くて、目元にはうっすらと隈が出来ている。ついでにお胸もぺったんこ。



倉橋さんとはまるっきり真逆のタイプの私は、周りにどう思われているのだろう?



他人と比較しても仕方ないと分かっているが、それでも自分と比べてひがんでしまう。





ーーーーー私の、悪い癖だ。





私は無限に続いているような気さえする関数と向かい合いながら、気持ちが沈んでいくのを感じた。






✳︎✳︎ ✳︎✳︎ ✳︎✳︎ ✳︎✳︎ ✳︎✳︎






厳しくも、優しく仕事を教えてくれていた先輩教育係の古沼さん。



しかし、私はある時、お昼に給湯室に向かう途中で偶然聞いてしまったのだ。

古沼さんと、源田さんが話している内容を。



源田さんは倉橋さんについている教育係の先輩で、古沼さんと同期だと聞いた。





「アタシが担当している新人、マジ使えないんだよねー」



「あぁ、端っこの席でいつもアタフタしてるあの子?確かに、ちょっと鈍臭いところがあるかもね〜」



「アタシさ、仕事が出来る側の人間だから?ああいうの見てるとイライラしちゃって、もうストレス溜まりまくりなのよ。いいわよね、源田の担当している倉橋ちゃんは覚えも早くて可愛くてさ〜。ねぇ、担当交換してよ〜〜」



「えぇ?嫌よ。最後まで責任持って受け持ちなさいよね〜」



「……はぁ、貧乏くじ引いちゃったな。昔からくじ運ないのよね、アタシ」





えっ、古沼さんと源田さんが話しているのって、もしかしなくても私のこと?

どんどん頭にクエスチョンマークが増えていくが、それでも扉の先では会話が続いていく。





「つかさー、この前も会議の資料を両面刷りで印刷かけたところまでは順調だったんだけど、あの子ステープルかけるの忘れちゃってて」



「あ〜、私も最初の頃やってたわ。っていう古沼も最初の頃は…………」





1枚扉を隔てた休憩室から聞こえる、かん高い笑い声。





私は頭の中で聞こえてきた会話の内容を反芻し、ヒュッと、息を呑んだ。





私は何を聞いてしまったの?





ついに頭の中が真っ白になりお弁当箱を両手に抱えたままその場に数秒、立ち尽くしてしまった。私はそっと数歩移動して、印刷機の陰に隠れるようにへたり込んだ。





それからどれくらいそうしていたのか。

ハッと時計を見た時にはお昼休憩が終わる時間帯だった。



「あっ……そろそろ戻らなきゃ」



今は春で、もうすぐ夏が来るというのに、私の手足は真冬の氷水に漬けていたように冷たくなっていた。






✳︎✳︎ ✳︎✳︎ ✳︎✳︎ ✳︎✳︎ ✳︎✳︎






私は結局、お昼を食べないまま事務室へと戻った。



デスクまで戻ってくると、古沼さんが先に席に戻ってきているのが分かった。というのも教育係である古沼さんは私のデスクの真向かいの席。



嫌でも顔を見合わせなくてはならない席なのだ。

今はこの山積みの書類が、皮肉にもうまい具合に間に挟まり、物理的に距離を取れているような気がしてほんの少しホッとさせてくれた。



私は、先ほどの出来事が嘘であってほしいと思う。

さっきのは私の聞き間違いで、私は疲れていただけなのだと、そう、思い込みたかった。



考える時間が欲しかった。

それでも時間は止まってくれるわけはなく、私がデスクに戻ってきたことに気づいた古沼さんが声をかけてきた。



「あら?お昼休憩はもういいの?」



真向かいに座る古沼さんから声をかけられ、返事をしないわけにはいかない。



「あっ、はい……」



と顔をあげた瞬間、私は信じられない現象を目の当たりにしたのだ。






古沼さんの顔の周りに、まるで生き物のように浮かぶ無数の文字たち。

そこにあった文字とは、




〝あー、マジだっりー。いつまでガキのお守りさせられんだか。さっさと定時で帰りてぇわ、くそだりぃ〜〟




だった。




「えっ?」




目をゴシゴシとこすり、再び目を向けるとそこにはまた別の文字が浮かんでいた。




怪訝そうな表情の古沼さん。




〝さっきから人の顔みて百面相しやがって失礼な女ね。お前よりは愛嬌のある顔だっての〟




だって。




「ひぃぃぃぃぃ。もっ、申し訳ございませんっっっっっ!!!」




私は思わずデスク越しに慌てて謝った。




頭を下げた時に、勢い余って自分のデスクに頭突きをしてしまい、デスクの書類が盛大に崩れた。



ひらひらと舞う書類たち。




「なっ、なによ。アタシ何も言ってないけどっ……?」

”ちょっとやめてよ。アタシがパワハラしたみたいに見えるじゃない!〟




周りに座っていた他の職員たちも、なんだなんだとこちらを見てくる。




「なに、揉め事?」

”どうせやるなら派手にやってくれよな〜。女って怖ええw俺は三次元の女なんて、真っ平ごめんだけど〟



「古沼ったら、なに新人に謝らせてんのよ~」

”古沼ったら、ザマァないわね。人の彼氏に色目使ってっからこうなるのよ〟



「何事かね」

“勘弁してくれよこの時期に内輪めとか。今日はこの後クラブで飲み会があるのに。せっかく女房に嘘ついてまでセッティングしたってのに、行けなかったら計画がパーじゃないか。無能どもがわしの足を引っ張るんじゃないよ〟




言葉とは裏腹に、溢れ出る言葉。

もしかしてこの浮かぶ文字は、人の “本音〟 ?




「まあまあ、部長さん。落ち着いてくださいよ〜」

〝ちょっとーーー私がわざわざ置いてあげた書類の山、崩してんじゃないわよーーー。これじゃボールペンがデスクに無いの、バレちゃうじゃない!アンタみたいな根暗女がピンクのあんなに可愛いペンなんか持ってるって分不相応なのよっっ〟




そう言ったのは、隣のデスクに座る倉橋さん。

私が凝視していると、倉橋さんの顔の周りに浮かぶ文字はとめどなく増えていく。




〝アンタは仕事が出来ない子で、私は仕事が出来る愛されキャラの立ち位置でいてもらわなきゃ。アンタは私の引き立て役なのよっっ。そのためにアンタのExcelのデータをチョチョイといじって、恥をかかせたってのに。ま、私がイタズラしたっていう証拠は無いんだけどね〜〜〜っっっっっw〟




ーーーーーはっ?




「えっ、私の無くしたと思っていたボールペン、倉橋さんが持ってたの?Excelデータもイタズラしたって、何それ………なんで?………えっ?」




私は後先を考えないまま、思ったことをそのまま口に出してしまった。




倉橋さんの顔はみるみると無表情に変わっていった。






【補足】

※ステープル……ホッチキスの針のこと

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