第一章:鏡の国のアリス05
「ねえ、ここはどこなの?」
「鏡の国さ」
チェシャ猫は尻尾をピンと立てたままアリシアの前を歩く。
「どうして女王がふたりもいるの?」
「鏡の国だからね。アリスも鏡合わせにふたりいるのさ」
「アリス?」
チェシャ猫は足を止めてゆっくりと首だけで振り向く。
「アリスを知らないのかい? 教えてもらっていたと思ったけれど」
「知らないわ。アリスって、女の子の名前じゃないの?」
「きみの国ではそうだったんだね。あの白ウサギが言っていなかったかい?」
「白ウサギ? 誰のことを言っているの?」
「おやおや、可哀想に」
チェシャ猫は再び前を向いて歩きだす。その足取りは先ほどより軽やかだった。
木々はふたりを誘うように道だけを開けて、不気味なほど静かに佇んでいる。
「そういえば、あなたの名前を聞いたかしら」
「ああ、言ったよ」
「そうだったかしら。でもごめんなさい、思い出せないの。もう一度教えてくれる?」
「いいよ。オイラはチェシャ猫」
チェシャ猫は振り向きもせずに答える。
「鏡の国って、どういう国なの?」
「赤の女王が統治している国さ」
「じゃあ白の女王はどこを治めているの?」
「さあね、猫はそんなこと知らないよ。彼女はチェスの対戦相手に赤の女王にどこからか呼ばれているだけさ」
チェシャ猫の声は軽やかで、まるで歌でも歌っているようだった。
歩けど歩けど景色はたいしいて変化しない。似たような木々が並んでいる。高い木も低い木もよく似ているものばかりだ。アリシアは自分がどれだけの時間、森を歩いているのか既にわからなくなっている。
「そういえば、きみはどうして赤の女王なんかとチェスの試合をしていたんだい?」
「一緒に旅をしている友達の冤罪を晴らさないといけなかったの」
「ふうん。オイラにはよくわからないな。そんなに友達が大切なのかい? ひとりで逃げてしまえばいいじゃないか」
「そういうわけにもいかないわ。ピーターとは約束があるもの」
「へえ、どんな?」
アリシアは言葉に詰まる。
「どんな、だったかしら」
アリシアはピーターとの会話を思い出そうとする。口が動いていたような記憶はある。しかしそれがどんな声でどんな言葉を紡いだのかが繋がらない。
「思い出せない約束なら、反故にしてしまってもいいんじゃないのかい」
「それはダメ」
「人間はどうして面倒な重荷を自ら背負おうとするんだろうね」
「猫じゃないからじゃない」
「なるほど、確かにそうだ」
ふたりの間には再び沈黙が訪れる。
「ねえ、この森はどれくらい深いの? けっこう歩いたと思うんだけれど」
「さあて、どれくらいだろうね。それは着いてのお楽しみ」
チェシャ猫は振り向きざまにニヤリと笑う。その顔は今までと同じはずなのに、何かが違うような気がしてアリシアは思わず立ち止まる。その一瞬、チェシャ猫の影がブレたような気がしてアリシアは身震いする。
「どうしたんだい?」
チェシャ猫が振り返る。アリシアの足音が止まったことを聞き逃さなかったのだろう。
「何でもないわ」
「そう。じゃあ行こう」
チェシャ猫は何事もなかったように前を向いて歩き出す。その影はチェシャ猫の動きをなぞっていた。
「気のせい、かしら」
アリシアも同様に歩き出す。しかし足を踏み出したその瞬間、一瞬ではあるが足が地面に引っ張られて踏み出せなくなった。
「なに?」
アリシアは反射的に地面を見る。踏み出そうと上げた足に対して、影は立ち止まったままの形を保っている。自分自身の影が地面とアリシアを縫い付けているようだった。
「ちょっと待って」
「何かあったのかい?」
アリシアの訴えにチェシャ猫は足を止めて振り向く。その顔はひどく退屈そうだった。
「足が……」
アリシアがそう言いかけて踏み出そうとすると、今度は何の抵抗もなく前に進むことができる。再び影を見ると、何事もなかったようにアリシアの動きに連動している。
「疲れてしまったのかい?」
「いいえ、忘れて」
チェシャ猫は何も言わず、早足に進んでいった。




