第一章:鏡の国のアリス04
迷路の中をどのように走り抜けたのかをアリシアは覚えている余裕がなかった。無我夢中で走り抜けた先は、駅ではなく森だった。
鎧の兵士たちのガシャガシャとした足音は既に聞こえない。息を切らしながらアリシアは手近な木の幹に背を預けてずるずると座り込む。
ひどく、疲れた。
アリシアは膝に顔を埋める。まだ息は整わない。そのせいか体が泥の中に沈むように重い。
「こんなところで、きみはいったい何をしているんだい?」
ねっとりとした声にアリシアは勢いよく顔を上げる。視線の先で太い尻尾が枝から垂れていた。それは不自然に左右に揺れている。根元を探るように視線を動かせば、そこには紫色の縞猫がいた。口角をいっぱいに上げてこちらを睨めつけているようにも見える。お世辞にも猫特有のかわいらしさがあるとは言えなかった。
「あなた、誰なの? さっきまでそこにいなかったわよね。赤の女王の追手かしら?」
アリシアは立ち上がって身構える。もしそうなら、また逃げなければならない。
「そう警戒しないでおくれよ。猫は静かな生き物さ」
常識だろう、とでも言いたげに猫は鼻を鳴らす。
「オイラはチェシャ猫。赤の女王とは関係ないよ。きみは?」
アリシアは訝しげな視線をチェシャ猫に送って名乗る。
「アリシアよ」
アリシア、と呟いてチェシャ猫はニタリと口角を上げる。その表情は不敵にアリシアの目に映った。
「逃げてきたんだろう? こんな場所、すぐに見つかってしまうよ。オイラについておいで。誰も知らない森の中へ逃がしてあげるよ」
ただの親切心かもしれない。けれど信じる根拠が足りない。連れられた先で赤の女王が待ち受けているかもしれないという懸念をアリシアは拭いきれなかった。
「本当? でもアタシ、またすぐに戻らなきゃいけないんだけど」
「チェスの試合だろう? 知っているよ。白の女王が招かれているんだ、これから何度だって行われるさ。赤の女王はきみのことなんてすぐに忘れてしまうよ」
アリシアは何歩か横に逸れる。
「言っていることが違うわ。すぐに追手が来てしまうって、あなた言ったじゃない」
「さあね。そんなこと言ったかな。言ったかもしれないね」
チェシャ猫は枝から垂れた太い尻尾をゆらりゆらりと左右に揺らす。
「猫は気まぐれなんだ」
チェシャ猫はまたニヤリと笑う。
「からかっているの?」
「まさか。いたって真面目さ。それで、どうするんだい? きみの首を刎ねるように言われた兵士たちまできみを忘れているとは限らないよ。きみの首はよく落ちなかったものだ」
アリシアは無意識に首元に手を添える。首を刎ねよという冷たい赤の女王の命令を思い出して、喉の奥がきゅっと締まるような感覚になった。指先は冷たくなっていてそれがさらに喉の閉塞感を強くする。
チェシャ猫は軽やかに木から飛び降りる。着地をするときすら足音はしない。
「否定は、できないわね」
アリシアの返事をチェシャ猫は肯定と受け取る。
「そうこなくっちゃ」
森の中から生ぬるい風がアリシアの肌を撫でた。木々が揺らす細枝のざわめきが妙に大きい。
チェシャ猫は立てた尻尾を大きく揺らす。
アリシアはその揺らめく大きな尻尾に誘われるように、いつのまにかチェシャ猫の後を追っていた。




