プロローグ:不思議の国のアリス01
気持ちのいい昼下がりだった。こんな日に部屋に籠って勉強しなくてはならないなんて、堪ったものじゃないとアリシアは部屋を抜け出した。
家の裏庭に植えてある木の裏側はちょうど窓から死角になっていて、昼寝にうってつけの場所なのではとアリシアは以前から目をつけていた。そうして今日、今は亡き祖母の書棚から持ち出した物語を片手に木陰で悠々とサボっている。
(今日の物語――そういえば、読んだことはなかったわね)
パラパラページを捲るが天気がいいこともあって眠くなってしまったアリシアは、開いた本を顔の上に乗せて目を閉じる。アリシアはすぐにうとうとし始めた。
そよそよと心地のいい風が頬を撫でる。
夢の片隅が見え始めそうな頃、アリシアの眠りは妨げられた。足元に小さな衝撃があって、それがアリシアの意識を現実に引き戻す。
「んもう、人が気持ちよく寝ているときに何なのよ……」
アリシアが顔を上げて足元を見ると、そこには青いジャケットを着た白ウサギがポテッと転がっていた。
「どうしてこんなところにウサギが……?」
白ウサギはアリシアと目が合うと耳をピンと立てて身を固くする。
「大丈夫よ、取って食べたりしないわ」
その言葉に安心したのかそれとも動かないアリシアに捕らえられる心配がなくなったのか、白ウサギはキョロキョロとあたりを見回している。逃げようとしているんだろうなとアリシアは思ったが、なかなかその場を動かない白ウサギが少し不思議だった。
「アタシはまた寝るから、今度は邪魔しないでね」
手元の本を再び顔に乗せるつもりで手繰るが、触れたのは本とは異なる冷たく硬いもの。驚いたアリシアが手元を見ると、古びた鍵の束が転がっていた。
「何これ? さっきまでこんなものなかったのに」
アリシアはそれを拾い上げる。持ち手に宝石があしらわれたものや造りが複雑なもの、細いものから太いものまで雑多な鍵がひとつの輪でまとめられている。きらびやかなものではないが、アリシアはそれを美しいものだと感じた。
「返して!!」
アリシアは教育係の叔母に見つかったのではないかと思ってあたりを見回す。しかし周囲にその姿はない。それどころか、人間は自分以外に見当たらない。では、今の声はいったいどこから?
「……もしかして、今喋ったのってあなた?」
アリシアはありえないだろうと思っていた可能性を口にする。
「その鍵を返して! とても大切なものなんだ!」
「静かにしなさいよ! 見つかっちゃうでしょ!」
アリシアは咄嗟に白ウサギの口を塞ぐ。白ウサギはモゴモゴフガフガと小さく暴れてアリシアから逃れようとしている。
「――あなた、喋れるのね」
白ウサギが観念して大人しくなった頃にアリシアは解放した。
アリシアの知る限り、ウサギは喋らない。声帯がないらしいと何かの本で読んだ気がした。しかし目の前のウサギはアリシアと同じ言葉を操っている。
「これ、あなたが落とした鍵?」
「そうだよ。それがないと僕は家に帰れないんだ。だから、返して」
白ウサギは起き上がってポンポンと服の埃を払う。たいして汚れていないだろうに、とアリシアは思った。
「ねえ、あなたの家ってどこにあるの?」
「ここじゃない国だよ」
「そこからどうやってこの庭にやってきたの? 他の国ってことは、すごく遠いところにあるんでしょう?」
「……その鍵を使って来たんだよ」
「ふうん? そういえば、あなたの名前は? アタシはアリシア。あなたの国の話を聞かせてくれない?」
「僕はピーター。アリシア、つかぬ事を訊くけれど、きみはこの家に住んでいる人?」
「ええ、そうよ。生まれてから十四年間、ずっとこの家に住んでいるわ」
「そう、なんだ……」
ピーターはなぜだか残念そうな顔をする。
「ねえ、その鍵は何? あなたの家の鍵にしては随分と多すぎるようだけど。というか、この鍵を使って来たって言っていたけれど、それはどういうこと?」
「それは国と国を渡るための鍵なんだ。扉の鍵穴に差し込んで回すと、他の国の扉に繋がるのさ。僕の故郷からこの家までもそうやって繋がったんだよ」
「魔法みたいね!」
アリシアはいっそう目を輝かせる。
「そうだね、きっと魔法なんだと思う。だから、その、早く返してくれないか」
「ねえ、ちょっと使ってみてもいい? 魔法の鍵って初めて見たの」
「ダメに決まってるだろう!」
アリシアは再びピーターの口を塞ぐ。
「大声出すんじゃないわよバカ!」
ピーターは懲りずにジタバタする。
「これは扉どうしを繋げるものではあるけれど、どこに繋がるかわからないんだ。僕の故郷にだって帰れる保証もない。だから興味本位で試すのはやめるんだ」
「つまんないわね」
ジャラジャラと鍵束を振って宝石の煌めきを眺めていたアリシアが鍵を返す気がなさそうだと判断したピーターはアリシアの体をよじ登って鍵に手を伸ばす。しかし肉球もないウサギの脚では上手く登ることもできない。
「返してったら」
ウサギらしくアリシアの膝の上でピョンピョン跳ねるピーター。アリシアはピーター手に鍵束が渡らないように高く腕を上げている。
「目的地に直接渡れるわけじゃないっていうなら、アンタはどうやって帰るのよ?」
「いろんな国を渡って、いつか辿り着くのを待つしかないだろう」
「つまりいろんな国を旅するってこと?」
「結果的にはそうなる」
「それ、面白そうね。アタシも連れて行ってよ」
「……それ本気で言ってる? 一生帰れなくなるかもしれないのに?」
ピーターは鍵に手を伸ばすのをやめてアリシアの顔を見る。
「それはピーターだって同じことじゃない」
「それは、まあ、そうなんだけど。でも他の人に使わせるわけにはいかないよ。僕だけ置いて行かれたら困るし」
「アタシはアンタを置いていかないって約束するわよ」
「口約束じゃないか」
「それはそうね。でも、連れて行ってくれるならこの鍵を返してあげてもいいわ」
「それはできないって言っているだろう」
「アタシだって連れて行ってくれないなら返さないって言っているわ」
どちらも譲らないため堂々巡りする。ピーターはブーブーと口から不満そうな音を立てると、アリシアの膝から降りて脚をダンダンと踏み鳴らす。
「いいから返してよ!」
ピーターは渾身の力を込めて大きく跳び上がる。鍵に届こうかというそのとき、アリシアは咄嗟に立ち上がってピーターに鍵が渡るのを阻止する。
「いい加減にしてくれ。僕だって帰れないと困るんだ」
「アタシだって連れて行ってもらえないと困るわ」
「どう困るっていうんだ!」
「マーガレット叔母さんに見つかったら、また勉強机に縛り付けられちゃうわ。そうしたらきっと、今後も勉強ばかりさせられちゃう。そんなつまらない人生、アタシは御免なのよ」
「そんなことで二度と帰れなくなってもいいって言うのかい?」
「アタシにとってはすごく大切なことだわ。ねえ、お願いよ。旅の途中でこの家に戻ってくることがあったら、それでおしまいになったって構わないから」
ピーターは首を横に振る。
「僕はそんな理由で同行を許可なんてできない。さあ、大人しく鍵を返して!」
ピーターはまたもや渾身の力で跳躍する。アリシアも負けじと腕を高く上げて鍵を奪い返されないように応戦する。
「だからっ、アタシも連れて行ってって、言ってるでしょうっ」
アリシアは庭を駆け出す。
「待って!」
ピーターもアリシアを追って駆け出した。
アリシアは裏庭を抜けて部屋の窓から家の中に入り、ランドリールームに入る。ピーターもそれを追いかけてピョンピョンと部屋に入ってくる。アリシアがシーツの山に身を隠していると、ピーターはフンフンと鼻を使ってアリシアを探す。
「そこだ!」
においでアリシアを見つけたピーターは洗濯物の山に飛びかかる。アリシアはそれを回避してまた駆け出す。埋もれたピーターは洗濯物に絡まって出遅れた。その隙にアリシアはキッチンに向かう。
キッチンには料理の形跡があり、オーブンから漂うお菓子の香りが鼻腔を突く。ここならピーターもにおいでわかるまい、とアリシアは高を括った。体を屈めて調理台の下に隠れ、後から入ってきたピーター。しかしピーターは目聡くアリシアを見つけて追いかけてくる。
アリシアが屈んだ状態から立ち上がったときに、調理台にあった金属ボウルに腕をぶつけてしまった。
「わっ、やっちゃった」
でもそんなこと言っている暇もなくてアリシアは再び駆け出す。
リビングには母と叔母がいることだろう。そちらに近づけない以上、もう行ける先はあまり残っていない。アリシアは祖母の書棚がある部屋に向かった。
「もう逃げられないよ、アリシア」
「さあ、それはどうかしらね」
今回はピーターもすぐに追いついてきて、アリシアを行き止まりに追い詰める。
しかしアリシアは追い詰められた先の小窓を開け放ち、振り返りさまに不敵に笑ってピーターに手を振ると腰掛けた窓辺からくるりと一回転して外に出る。
二階の部屋から飛び降りるのはアリシアの体格であればあまり問題ないが、体の小さなピーターには大怪我になりかねない。ピーターはそのまま追いかけるのは諦めて、一階に降りてから再び裏庭に向かう。
「ハァ、ピーターもしつこいわね」
再び裏庭の木の裏側に身を隠したアリシアはピーターが追ってくるまでの束の間、休憩していた。
「見つけたぞ、アリシア。今度こそ逃さない」
にじり寄るピーターにアリシアも後ずさる。しかしその背は木の幹についてしまってこれ以上退くことはできない。
「アリシア! また抜け出したのね!」
どうしようかと考えていた矢先に、家の奥からマーガレット叔母さんの声が聞こえた。
さきほど立ててしまった物音で気づかれたのだろう。
「マーガレット叔母さんにバレたわ。ピーター、一時休戦よ。見つかったらマズイわ」
ふたりは裏庭の木の裏に再び身を隠す。
アリシアに抱えられて口を塞がれたピーターは、アリシアの腰ベルトの右側に鍵束がつけられているのを見つけて手を伸ばす。木を背に様子を伺っているアリシアだが、ピーターのその動きはわかったようで、すぐにピーターを鍵から遠ざける。
「アリシア!」
そうしている間にもマーガレット叔母さんの声は裏庭に近づいてくる。
「どうしようかしら。見つかったら大変だわ」
「僕に鍵を返してくれたら解決するんじゃないかな」
「そうもいかないわ。この国ではね、服を着たウサギなんていないの。まして言葉を話すウサギなんて存在していないわ。あなたも見つかったらどうなるかわからない」
食べられちゃうかも、というアリシアの言葉にピーターは身震いする。
「どうする? アタシを連れてこのまま他の国に逃げるか、ふたりで見つかるか。ふたつにひとつよ」
「それ、選択の余地ある?」
アリシアはニッと笑う。
「こういう状況になってしまったら仕方がない。逃げよう。ただし、さっきも言った通り、旅はこの家に戻るまでの間だけ。渡る国が少なかったからもう一周というのはできないからね。約束できる?」
「ええ、それでいいわ。で、どうするの? ここから出ないと扉はないけれど」
「その木の根元に小さな穴がある。そこに扉が隠れているからそこの鍵穴に鍵を差して。扉を開ければ別の国へ繋がるよ」
「わかったわ」
アリシアは草に覆われて見つけることも難しかった木の穴に入り、ピーターの言った扉を見つける。それはひどくボロボロになった、こどもがひとり通れるかどうかという小さな扉だった。
鍵を差し込みゆっくりと回す。開いた手応えに鍵を抜いて、アリシアはゆっくりと扉を開けて、ピーターとともにそれをくぐった。
扉をくぐる間際、ピーターがアリシアに不思議に思っていたことを尋ねた。
「ねえ、アリシアはどうして喋るウサギである僕の言葉を信じてくれたの?」
「さあ、どうしてかしらね。昔に聞いたおとぎ話が、本当だったらいいなと思ったのかもしれないわ」
ふたりが通ったあとの扉は静かに閉まり、また何事もなかったかのようにそこに佇むのだった。




