プロローグ:不思議の国のアリス00
「帰ってきちゃったわね」
扉を抜けると懐かしい光景が広がっていた。白木で建てられた家はよく慣れ親しんだもので、ふかふかな芝生はサボりの共犯者。それらはそこが、紛れもないアリシアの生まれ育った家であることを証明している。
「マーガレット伯母さん、まだ私のこと探してるかしら」
困り顔のアリシアを、白ウサギのピーターは見上げる。
「さあ、それはどうだろう? なにしろ僕たちは長いこと旅をしたんだ。どれくらいの時間が流れたのかは想像もつかないや」
それもそうよね、とアリシアは言う。
「長かったのにあっという間だったような気もするわ」
「僕も同じさ。いろいろなことがあったけど、ありすぎってくらいあったけど、本当は一秒だって進んじゃいないのかもしれないと思うよ」
「それは言い過ぎじゃない?」
「そうかも」
不意の風が木の枝を揺らす。それがこの物語のエンディングのようだとアリシアは思った。
「ねえ、ピーター。覚えている? あなたがあたしの脚で躓いて転んだときのこと」
「初めて会ったとき? 忘れるわけないじゃないか。あの失態がなければ、僕は君に捕まってないよ」
「追い回したのは悪かったと思ってるわよ。本当に。でもあの日、あなたがこの庭を訪れてくれたから、あたしは楽しい冒険ができた。これでも感謝しているのよ?」
「やめてよ。君からそんな言葉を聞くなんて思わなかったから……ほら見てよ、ものすごい鳥肌」
「毛皮でわからないわよ。それにあなたはウサギでしょ」
ふんっ、とピーターは鼻を鳴らした。
「ねえ、アリシア。これは提案だから、全然断ってくれても構わないんだけど」
「なによ、改まって」
「もう一度、最初から最後まで、この旅の思い出を語り合わないかい? ほら、ウェンディのときのように、これっきりになってしまうかもしれない、から……」
ピーターの声は震えていた。
「いいわね。あたしもこれっきりなんて御免だと思っていたところよ。でも、そうね。長旅の話だから、お茶でも用意しましょうか」
「それはいい。旅を振り返るお茶会なんて素敵じゃないか」
「でしょう? じゃあ、少しだけ待ってて」
アリシアは庭を横切って家の中へ入っていく。
「見つからないといいけど」
杞憂に終わりそうな心配を口にしてピーターは木の根の隙間に隠れる。
アリシアを待つ間にピーターは彼女の住むこの国について考えた。そういえばこの国を歩いたことは一度もない。ウェンディに会いに来ていたときだって、迎えに来ていただけですぐに他の国に連れていってしまった。
「この国のお茶は、どんな香りがするんだろう」
ピーターの故郷のお茶は芳醇な香りだが渋くて飲みにくい。こどもの口には到底合わないから誰も飲もうとしない。果汁を絞ったジュースの方が人気だ。アリシアもあのお茶は砂糖でも入れなきゃ飲めたものじゃないと言っていたから誰にとってもあまり美味しくはなかったのだろうとピーターは思う。実際、ピーターも苦手だった。
流れる雲を数えながらそんなことを考えていると、遠くから茶器のぶつかるカチャカチャとした音が聞こえた。そろそろアリシアの準備が終わったのだろう。ピーターはおもむろに音のする方を見る。
「お待たせ。今お湯を注いだばかりだからもう少しだけ待っていて」
茶ができるまでの時間を示す砂時計の砂は、まだたっぷりと残っていた。
ティーポットから立ち込める湯気が風に乗って豊かな香気が漂う。白い花を思わせるようなほんのり甘い香りと木を思わせるような香ばしさが混ざった面白い香りだとピーターは感じた。
「待っている間に、これ食べて。ブルーベリーのマフィン。たぶんあたしのおやつに用意されてたものだと思うから気にせず食べちゃって」
「本当にいいのかい?」
「ええ。マーガレット伯母さんの焼き菓子はすごく美味しいわよ」
「それは楽しみだ。いただきます」
確かにマフィンは絶品だった。ピーターは言葉も忘れて齧り付く。
「あたし、マーガレット伯母さん以上にお菓子作りが上手な人に会ったことがないの。いつかあたしもこれくらい美味しいものが作れれるようにはなりたいけれど、到底真似できそうもないわ」
アリシアは一口齧ったマフィンを眺めながら言葉を漏らす。
「この後習いに行ってみたら? どんな人か知らないけど、きっと喜ぶよ」
「それもいいかもね。行儀を勉強させるくらいなんだから、料理やお菓子作りだって教えてくれるでしょうし」
「美味しいのができたら僕にも頂戴」
「食い意地が張ってるわね。じゃあ食べに来なさいよ」
「君が上達した頃にね」
茶の蒸らし時間を測っていた砂時計の砂がすべて落ち切る。アリシアはそれに気づくと温めていたカップにゆっくりと茶を注いだ。
「それじゃあ、始めましょうか」
アリシアがカップを掲げたのに倣い、ピーターもカップを掲げる。
「素敵な旅の思い出話に、乾杯」




