地獄の門扉
「さぁこっちよ」
そう声をかけてきたのは、音も無くいつのまにかやってきていた一人の美しい女性だった。
彼女は黒地に紫の柄が入った着物と真っ黒な袴に身を包んでおり、紫色の瞳で俺に微笑みかけると、長い黒髪を揺らしながら身を翻して奥へと歩いて行った。
彼女はエンマ様の巨大机の左手に見える洞窟へと歩を進めていくが、その洞窟の内部は黒いひび割れた岩壁で出来ており、ひび割れた部分からは赤い光が蠢くように発光していた。
この時点で大体予測はつくだろうが、俺は先に地獄に行くことを決断したのだ。
先に天国へ行ったとしても、後の地獄に怯えながら生活するのであれば天国も地獄のようなものだろう。
そしてその問題の地獄を案内してくれるのが俺の目の前を歩く彼女だそうで、エンマ様は彼女を「いかり」という変わった名で呼んでいた。
エンマ様曰く彼女は地獄を統治する長であり、獄長獄長という偉い立場にあるらしい。
俺はそんないかりさんの後に続いて洞窟に入ると、若干下り気味の不気味な洞窟内をひたすら歩き続けた。
途中、迷路のように分かれ道かいくつもあったが、いかりさんは洞窟の全てを熟知したかのように迷う素振り無く歩を進めて行った。
20分は歩いただろうか、俺はやっとの思い出で洞窟を抜けると、そこには薄暗い怪しい森が広がっていた。
洞窟の延長線上には獣道のような草木で覆われた歩道が続いているが、霧が異常に濃いため視界が数メートル先までしか届かない。
しかしいかりさんはそんな酷い視界不良の中でも馴れた足取りでスタスタと歩いて行くため、俺ははぐれないように細心の注意を払いながらいかりさんの背をしばし追い続けた。
すると突如、森が開けたかと思えば濃霧越しに巨大な陰が現れた。
近付くにつれて霧が晴れてゆくと、赤塗りの木造の門扉が姿を表した。
いかりさんは門から少し離れた場所で足を止めて振り向いた。
「この中が地獄の主な居住区よ。門番に事情を話してくるからちょっと待っててね」
いかりさんはそう言って門扉の方に向かって行くと二人居る門番の一人に何やら話しかけ、門番が何度かうなずくといかりさんは俺に手招きをした。
小走りで向かうと、門番は間抜きを外すと二人がかりで門をゆっくりと押し開いていった。
門が完全に開くと、そこは様々な店が軒を連ねる江戸情緒溢れる大きな商店街だった。
通りには綺麗な着物を着た人もいれば渋染めのような服を着た人もおり、大勢の人で賑わっている。
「さてと、早速入りたい所だけど、太陽さんたらさっきから顔が強ばったままだけど大丈夫かしら?何もそんなに心配する必要は無いのよ?」
「はぁ」
「太陽さんはまだ地獄行きが決まったわけじゃないし、そんな亡者に対して地獄の亡者と同じことをさせるわけにはいかないわ。それに地獄を統括するこの私がついてる限り、危ないことは何も無いから、安心して大丈夫よ?」
「あ、あの、もう俺怖くて心臓バックバクなんですけど」
「あらぁ、随分と心配性なのね?それじゃあ、私と手を繋ぎましょうか?」
いかりさんはそう言って俺の右手を握った。
「へえっ?!」
俺は思わず身を引いて奇声を発した。
「あっ、ごめんなさい?嫌だったかしら?まぁこれで緊張も溶けたでしょう?さぁ行きましょう」
なんだか余計に緊張が増した気がするが、俺はいかりの後を追って門をくぐった。
「ここはね、いくつかある商店街のうちの一つで地獄商店街っていうの」
「へぇー、そのまんまですねぇ」
俺はいかりさんの説明を聞きながら賑やかな商店街をあるいていた。何だか見るモノ全てが新鮮であちこちに目移りしてしまう。
「ていうか、これからどこに行くんですか?」
「そうねぇ、太陽さんも急にこんな所に連れてこられて疲れたと思うし、茶屋にでも寄って少し休憩しようと思ってるんだけど」
「おー!良いですねぇ、地獄で休憩なんて言葉が聞けるとは思いませんでしたよ」
「ふふっ、面白い人ね、それじゃああそこの茶屋で一休憩いれましょうか」
いかりさんはそう言って少し先にある「だんご」と書かれたのぼりを指さした。のぼりの側には赤い布がかけられた縁台があり、赤い野点傘が立てられていた。
俺たちはそこへ向かうと、奥にいた緑色の着物姿の女性がこちらに気付いた。
「いらっしゃいいかりちゃん、あらあ?いかりちゃんが亡者さんを連れて来るなんてどういう風の吹き回しかしらぁ?」
「こんにちは茶茶さん、実は今日は色々と事情がありましてこの方と一緒なんですよ。今日もいつも通り、お茶と何かお菓子を頂けますか?」
「うふふ、いいわよぉ、その代わりまた今度話を聞かせて頂戴ね?ふふ、楽しみだわぁ」
そう言って茶茶さんは奥へと戻ると何やら準備を始めた。
いかりさんは俺を縁台に座るよう促すと、俺はやっと一息つけたところで改めてこの地獄通りを見渡した。
辺りにはうどん処、そば処、甘味処、駄菓子屋、薬屋、呉服屋など様々な店があり、生活に必要なものはこの一角だけでも十分手に入りそうだ。
にしても亡者を痛めつけるために存在するであろう地獄に、こんなに栄えた大通りがあるなんて思いもしなかった。
一体亡者達はこの地獄でどのような生活を送っているのであろうか、俺は気になって聞いてみた。
「そういやいかりさん、地獄に来た亡者ってどんな生活をしてるんですか?」
「う~ん、そうねぇ、それは罪の重さによって変わってくるんだけど、比較的軽い罪の場合は、地獄のどこかに派遣されて週休二日くらいで仕事をしているわね。少し重い罪だとーー」
――グオオオオオオオオ
「なっ、なんだ?」
いかりが言い終える前に、どこからか地響きのような音がして地面が揺れた。