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エリサンの絶望

 エリサンの心は傷ついていた。

 彼はこの村にたどり着く前からすっかり打ちのめされていた。


 もっと前からだ。彼が神に仕えることを決めた時には、すでに絶望しきっていた。


(主なる神よ)


 荷物の中から女神像を取り出し、彼はそれを握り締めて祈った。すがりつくような祈りだった。

 彼は、救われたかったのである。


(こんなにも時が経ったというのに、まだ昨日のことのようだ)


 エリサンは神官になる前、医者であった。

 そのときの彼はその動機について何も考えていなかった。医者は手っ取り早く儲かるということを聞いたので、そうなろうとしただけである。

 彼の家族は、それを喜んだ。立派な志だと褒めたたえた。

 すでに結婚していた彼の姉も、是非立派な医者になってほしいと言ってくれた。そうした応援もあって、エリサンは治癒術を学ぶために故郷を出た。


 エリサンは町医者のもとに通い、師事した。この間、そこそこ真面目に勉強をしたとも思っていた。

 十分な知識と経験を得たと判断した彼はやがて独立し、医者として開業した。


 彼がやっていた治療は師事した町医者以上のものではない。日々、やってくる患者たちに薬を渡して診療代をもらっていた。それでいいと思っていた。

 しかしそれから一年ほどで彼の姉が病に倒れたと報せが入る。

 エリサンが医者であることは当然家族も知っていたから、姉を診てほしいと言われた。彼はそれに応えたが、病は彼の手には負えなかった。奇病だった。

 すでに姉は歩くことができないほど弱っていたが、エリサンにはその原因が全くわからなかったのである。

 エリサンは師事していた町医者を頼ったが、彼にも姉の病は手のつけようのないものだった。


 日々弱っていく姉に対し、彼は何もできなかった。


 そうして、姉は死んだ。エリサンがその死を看取った。

 彼は医者として、姉が死んだことを町へ報告したのだった。


 神に仕えることを選んだのは、耐えられなかったからだ。

 手段を間違えなければ姉を救えたのではないか、医師になったことで日々にかまけて勉強を続けなかったせいではないか。こうした自責の念にエリサンは押しつぶされた。


 この苦しみから逃れたい一心で教会に通った。

 修道士になり、ついには勉強しなおして、神官にまでなった。これも自分が救われるためだった。


 何もかもを捨てて、神に祈った。禁欲も、節制も、厳しい修行もエリサンには大した苦ではなかった。

 彼はこの罪悪感から救われたいと願っていたのだ。しかしどのように修行をしてみても心が晴れることはなく、一層彼は神にすがった。自分に重くのしかかる、罪悪感と自責の念を誰かに取り除いてほしかったのだ。

 神の力で自分の心を晴らしてほしかった。あるいは熱心に神に仕えることで、無我の境地にいたり、苦痛から逃れられるのではないかとも期待した。

 ただそれだけだったのだが、彼の態度は真摯なものと受け取られたらしく、年数が経つうちにエリサンは司祭にされていた。

 彼は神の教えを他人に説く立場になったのである。


 しかしどのように取り繕っても、エリサンはまだ、自分の罪から目を背けたいだけの男だった。


 怖がらずに神の教えを伝えなさい、と諭された。それがエリサンには無理だ。

 自分も救えていないのに、他人を救えるわけがない。


 そんなことは皆同じだ。

 とにかくやってみなさい。他人を救うことで、自分も救われることがある。


 エリサンを司祭に推した神官は、優しい口調でそう言った。

 やるしかないと決めたエリサンは、自分を押し殺して虚飾に染まることを選んだ。

 彼とて、医師として求められる人格、司祭にふさわしい言動というものはわかっている。その通りに動こうと。


 徹底して善人を演じる。

 エリサンはそう決めた。


 神はまだ自分を救ってはくれない。さりとて、自殺するような勇気も持ち合わせない。

 ならば、神の理想の神官を演じておいてやろう。よき医者としてふるまってやろう。そのうちに病気や老いで死ねるだろう。


 そのように考えて、彼は司祭として勤めた。

 祭祀の傍ら、また医師として活動した。そうすることがよいことだと思ったからである。


 しばらく後、彼の勤めていた教会は周辺地域の過疎から閉鎖されることが決まった。

 エリサンはもっと大きな町の教会へ勤めることもできたが、彼はそれを断った。


「私は、まだ教化の十分でない地域へ出向き、そこで人々と触れ合ってみたいと考えております」


 実質的に彼は職を辞して、あてもなく旅立った。

 そうしたのも単に、理想の神官ならこうするだろうと彼が思ったからである。


 過疎により教会が閉鎖したというのに、別の地域へ旅立つというのは矛盾している。

 だがエリサンとしてみれば、いいひとのように振舞っているだけで、行動は虚飾なのだ。理屈などどうでもよかった。


 彼はこうして歩いてきた。自分が救われるために、医師として、神官として歩いてきた。

 また心のどこかでは、ひっそりと暮らせるところを求めていたのかもしれない。


 姉の死を受け止めきれず、神の救いにすがった。

 だが神の教えも受け止めきれずに、結局虚飾に染まった。


 真実のエリサンは、そんな男だった。強くもなければ、責任感のある男でもなかった。


「主なる神よ」


 姉一人、救えなかった医師。

 心のともなわない神官。


 それでもエリサンは、救われたかった。

 女神像は彼の手の中で微笑んでいる。


 埃を払った棚の上に、それをそっと置いた。エリサンはあらためて女神像に頭を下げる。


 掃除は簡単に終わったが、この家は元々かなり痛んでいたようだ。

 土台から木造であり、壁にも天井にも、ところどころに隙間がある。ふさいでおくに越したことはない。


(神の使徒なら、女神像のある所をぼろのままにしておけまい)


 こうした古い建物の修復は、何度かしたことがある。

 しかし、何日かかかることだろう。今日は残念だが、隙間風を我慢するほかはない。


 翌日の昼頃、村人たちがやってきた。


「やあ、神官さん。すまなかったな、こんな家しかなくて。

 ずいぶんなボロで、寝心地悪かったんじゃないかい」


 彼らは、エリサンが渡した水薬に効力があったことを確かめていた。

 あの少年は薄めた水薬を飲んで眠り、少しばかり元気になっていたのだ。起き上がるほどではなかったが、青白くなっていた顔に血の気が戻っていたことから、村人たちはエリサンへの評価を変えていたのである。


「あの薬は効いていたよ。坊やも顔色がよくなっていた」


 村人はそのように報告し、エリサンは頷いてこたえた。


「薬が効いて何よりです。しかし、回復には時間がかかるはずです。

 もしあの家に行かれることがあれば、決して無理をさせないように伝えていただけますか」

「お安い御用だよ。ついでなんだが、俺は何年か前から腰が痛くってよ。

 できればちょっと診てくれねえか」


 村人の一人が握りこぶしで自分の背骨あたりを叩き、唸るような声を上げた。


「おかげで野良仕事がずいぶんきついんだ」

「わかりました。こちらへ、横になっていただけますか。上を脱いで」


 エリサンは笑いながら、自分の上着を壊れかけの寝台に置いた。


「あんたの上着の上に寝るのか? それじゃ汚れちまうぞ」

「このベッドはまだ掃除しきれていないので。どうぞ遠慮なく」


 村人は少し遠慮しながらも、エリサンの指示に従った。

 他の村人たちは仕事があるからと帰っていく。それを見送ってから、エリサンは残った一人に向き直った。


「なんだか悪いな」

「かまいません。どうぞ、うつぶせになって。

 腰ですね。どのようなときに痛みが出ますか?」


 エリサンは何とも思っていない。これが医師として、神官として正しいと思っているからだ。

 腰痛は医者をしている頃からよく相談されることだったので、慣れた調子で話を進める。

 残念ながら大抵ははっきりとした原因がわからないが、いくつかの対処法はある。エリサンはその大きな体を使って、村人の身体にふれて、筋肉や骨格の調子を探り始める。


「肩のあたりもだいぶ、悪いのではないのですか。振り上げると痛むとか、そういうことはありませんか」

「たまにあるが、そんなしょちゅうじゃないな」

「腰を回すと、ポキポキと音がしたりは」

「それはないぞ」

「では少し、筋肉をほぐします。痛む時は教えてください」


 最初はゆるく、次第に体重をかけて、エリサンは村人の身体をもみほぐしていった。


「おっ」

「痛みますか」

「いや、いい気持ちだ。さすがうめえな。本職の人はよ」


 力強いマッサージだった。

 しばらく続けると、村人は体が何やら調子を戻しているような感覚にとらわれる。

 エリサンが腰のあたりに指を押し付けると、パキパキと骨が鳴るような音がした。どういう原理でなっているのかはわからないが、疲れや痛みが消えるような気さえする。


 これがしばらく続き、仰向けになるように言われて、それからさらにしばらく続いた。

 痛いことは全くなかった。気持ちの良い圧迫感が続いただけである。


「終わりましたよ」


 と言われた時には、彼は腰のことで相談に来たことをほとんど忘れかかっていたくらいだ。そのくらいに好調だった。

 興奮した村人はこれを告げたのだが、エリサンは首を振ってこたえる。


「からだをもみほぐしたので、血のめぐりがよくなっただけですよ。

 腰が痛むのは、色々な原因があって劇的に治すのは難しいのです。

 悪化を抑える体操をいくつかお伝えしますから、眠る前のひとときに試してみて下さい」

「へー、そんなのが。しかし先生、こりゃ気持ちよかったなあ。

 毎日ってのは無理にしても、週に一回くらいはやってもらえねえか」


 彼が機嫌よさそうに言ったが、エリサンは少し返事ができなかった。

 戸惑うエリサンに気づいた村人は、あわてて付け足した。


「あっ、タダとは言わねえよ。ちゃんと料金を払うから。

 あんまり高いときついけど」

「いいえ、それはお気持ちで構いません。ただ、先生と呼ばれるのは久しくなかったので」


 エリサンは困ったようにそうこたえる。


 このマッサージは意外な評判を呼んだ。ほんの数日で、村の男のほとんどがエリサンのマッサージを望むようになる。

 そして次の数日で、女も通ってくるということになった。


「あんた顔はいかついが、いい腕してるんだねえ」


 彼らからは、たびたびそのように言われた。

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