11.これが、地獄の始まりだと
11.これが、地獄の始まりだと
「すみません、ラスティシセルさん。これ、何て読むんでしょうか」
買い物から帰った夜。控え目なノックに仮の自室となっている客室のドアを開けると、ミラーリを片手に困ったように眉を下げるマリがそこにいた。
「…………?」
「ルシアさんのブレスレットのおかげで、聴くのと話すのは問題無いんですけど、文字、読めないみたいで」
「そうなのか?」
「はい。お買い物の時はミウが教えてくれてたので、気づかなくて」
品物を見ればわかるというのも一因だろう。申し訳なさそうにマリが俯く。
「先に言っておくと、文字がすぐに読める薬などは無い。自力で覚えてもらうしかないが」
「は、はい。あの、頑張って覚えるので、ご迷惑を掛けて申し訳ないのですが」
「わかった。下の階……居間に来てくれ」
「ありがとうございます!」
パッと明かりが灯るようにマリの顔が変化した。
頭を下げて一礼すると、筆記用具を取ってくると言って身を翻す。それを見てから、ラッセルも自分の筆記用具を手にすると階段を降りて玄関ホールを通り、居間の暖炉の前に設えられたローテーブルとソファに近づく。
「あら。ラスティシセル坊っちゃま。どうされたのですか?」
「マリに文字を教える。悪いが紅茶を二人分頼めるか?」
「まあまあ! うふふ。勿論でございます。勿論ですとも!」
「ユリア? 何か誤解というか、妄想をしていないか?」
「そぉんな事はございません。ええ。ございません」
(いや、明らかに何かおかしな事を考えている気しかしないのだが!?)
ニマニマしながら楽しそうに嬉々としてお茶の用意をしに行くユリアに、ラッセルは苦い視線を向けつつ、1人掛けのソファに腰を下ろす。ローテーブルを挟んで向かいには同じく1人掛けソファ、そしてローテーブルと平行に四、五人が座れる長めのソファがある。
「お待たせしました」
昼に買ったらしいノートとペン、ミラーリを手にマリがやって来た。
「掛けると良い」
ラッセルはマリに隣の長ソファを勧める。
「お邪魔します」
ラッセル寄りの端にマリがちょこんと腰掛けた。
「恐らくだが、今夜だけで覚えられるものではない」
これは物覚えが良い悪い関係なく、そもそもマリにとって未知の言語なのだ。初見で全て覚えたとしても、単語も言い回しも数時間では網羅できない。
「なので明日以降も一日数時間、こうして時間を貰おうと思うが」
良いだろうかと言い掛けて、ラッセルは口をつぐんだ。
マリがびっくりしたような顔でラッセルを見ていたからなのだが。
「どうした。嫌かも知れないが、異国の言葉や文字学習は持続させないと身につかない」
「え! 違います! 嫌じゃなくて!」
ラッセルの言葉にマリが慌てて頭をぶんぶんと横に振る。少し恥ずかしそうに俯き、ポツポツと。
「迷惑、かけてるのに、その、勉強まで。申し訳なくて」
「迷惑?」
(いや、違うだろう)
「少し認識が誤っているようだが、君は被害者だ」
「え?」
溜め息をついてラッセルは自らの眉間を解す。
「わけもわからず強制的に遠く離れた世界に飛ばされ、言語どころか種族すら違うものに囲まれ、長期の滞在を余儀なくされている」
(確かに、私も最初は頭に血が昇ってルシアに押し付けようとしたが……)
「そんな君に、必要なものを与えて保護するのは、貴族である私の義務だ」
ラッセルとしては当然の事を言っているつもりだった。
が。
「ラスティシセル坊っちゃま。やり直しです」
「ユリア?」
軽食と紅茶を載せたワゴンを押して現れたユリアは、フンスと鼻息も荒くラッセルにやり直しを要求した。
「そんな言葉でときめく女性はおりません!」
(なんの話だ!?)
「いや、ときめきも何も」
「ユリアは情けのうございます! そのような台詞では女性の心は掴めませんよ!?」
掴まなくていい。
(本当に何を言ってるんだ。確かにユリアは相当な歳だがボケるにはまだ早いだろう)
「ユリア、落ち着け」
「坊っちゃま!」
「……なんだ」
「やり直しを。さあ!」
意味がわからない。が、多分このままではバグったゲームか何かのように先に進まない事だけはわかる。
仕方なしに口を開いたラッセルだったが、この時はまだ知らなかった。
これが、地獄の始まりだと。
「ユリア……もう勘弁してくれ…………」
「いーえ! 坊っちゃまが乙女心のなんたるかを理解するまで、やめるわけには参りません!」
紅茶がすっかり冷たくなる頃、ラッセルはぐったりしていた。
「あの……もうラスティシセルさん限界……」
「マリ様」
「はい!」
ユリアのキリッとした顔と声音に、助け船を出そうとしたマリの背筋がピンと伸びる。
「ときめきますか?」
「へ?」
「この、ラスティシセル坊っちゃまの台詞に、貴女はときめきますか」
「えーと……」
マリとラッセルの視線がバッチリ合う。
(すまない……もう無理だ…………)
声を奪われた人魚姫もかくやの様子で声がでないラッセルに、マリは意を決してユリアを見つめる。
「と、ときめきます」
「…………」
「……えぇと、その、ラスティシセルさんは、お世辞とか、言わない所が、良いというか。人によっては傷つくかもですけど、でも、そういう不器用な所がある方が可愛い、みたいな」
ラッセルは自らが腰掛けるソファの肘置きにすがって沈んだ。
色々な意味でダメージだ。
(いや。彼女は良くやってくれた。無茶を承知で助けを求めたのは私だ)
ぐったりとした身を起こしながら、ラッセルがそろそろ本気で止めねばと気力を振り絞ろうとしたその時。
「なるほど。そういう見方もございますね」
酷くあっさりと。ユリアは頷いてみせた。




