宮殿との別れ
私にとっての令嬢の宮殿最後の夜は、このようにして突然訪れた。チャペルのステンドグラスには私を模したものがあり、それが令嬢の宮殿と呼ばれる所以なのだが、その主人はこの宮殿に見切りを付け、新たに恐ろしい禁欲の世界に漕ぎ出そうとしている。
チャペルが処女を讃える時、窓から差す光はその内部にしか差すことは無く、ただ仄暗い宮殿に佇むのはその主人ではなくなってしまう。
それでも、主人を失った宮殿は変わらず荘厳に佇む事だろう。この場所は都心からも大きく離れており、英気を養うにも十分なので、きっと私以外の誰かもここを楽しんでくれるに違いない。
私は柔らかな羽毛のベッドを触りながら、チャペルを見下ろす月光を眺めた。
小さい頃にはまだ辺鄙な農場だけが広がっていたこの場所で、私は乳母と共に送られて育った。父は度々ここを訪れては、様々な砂糖菓子を、ブリオッシュや、果物をも土産として直接渡してくれた。
当時の私は知る由もなかったが、その時には既に財政は傾いていたのだろう。フーケが着任したのも確かその頃で、弱冠13歳での財務官への着任だったという。私との年齢差は五歳ほどだというのだから、ぬくぬくとこの場所で育っていた間に、どの様な過酷な賭け引きを切り抜けてきたのだろうか。
そう思えば、財務官として赤字財政を何とかやりくりしていた彼の事を感謝しなければならないのかもしれない。
「あ、蛍……」
私が幼い頃に遊んだ小さな池が、開発されないままに残っている。大きな蛍の尻が不安定に揺れ動くたびに、私は幼い頃の記憶を思い出す。
チャペルの隅にある、小さな池。当時は未だ柵と放牧地があっただけで、鶏がかぁ、と鳴くばかりだったが、今はその姿は微塵も残っていない。友人を失くした池を慰めるように、蛍は静かに周囲を巡る。さながら、放牧地と鶏の魂が、そうしているかのように。そうした古い記憶の中の風景が失われても、この場所と言う記念碑が建っている限りは、私はその価値を思う事が出来る。例えこの苔生した池が埋め立てられたとしても……。
揺れ動く蛍の光は沈み切った太陽よりも眩く思われた。弱々しく飛び回る光の粒子が、窓越しに手を振っている。全身で私を見送ってくれるように思えて、自然と、涙がこぼれた。
「また、いつかね……」
またいつか、ここに会いに行くからね。私は静かに瞼を閉じる。鈴虫の音が響き、彼方に金色の麦穂が揺れる。花粉の匂いの代わりに届くのは、池の水の冷ややかな感触と、別れを惜しむ蛍の光だった。




