勝負4
アビスは私の知らない都市ではない。社交会でも何度か訪れているし、身内の不幸を知る者も少なくないから、顔を上げれば私だとばれてしまうかもしれない。
と言うのは自惚れでないと信じたいが、恐らく、多くの人々は私の顔を見ても何も思わないだろう。何故なら、私の顔が晒されるのは市場よりも劇場であり、居酒屋よりも城の宴会場だからである。
一国家の首都ほどの規模を持つブリュージュと比べれば多少見劣りするこの町も、ナルボヌと比べるのは申し訳ないほどの人の往来がある。近郊の広大な耕作地と、堅牢な城壁で囲まれた煉瓦の街並みと、緩やかな傾斜のある中央道路には、今日もいそいそと蹄を鳴らす馬の行列が続いている。
「相変わらず汚い都市ね……」
泥臭いナルボヌの領主が何を言うか、と思われそうで自分で笑ってしまったが、やはり解放されたナルボヌと比べて雑多な臭いがこもるアビスの悪臭は嫌気がさす。始めて訪れた人は吐き気を催すかもしれない。
「しかし、ここまでうまくいくとは……」
ギヨームは私の全身をまじまじと見つめて呟いた。借金まみれとはいえ、貴族がこの格好で闊歩するとは思われないだろうから当然かもしれないが、実際にうまくいってしまうと、確かに面食らう所がある。
と言うのも、少しでも利益を出す為に、私の財布の中に仕込んだ証券を見つけられてはいけないからだ。いわば密輸だ。
「まぁ、ジョアンナ様の変装も妙に板についていますしねぇ。それに、あんまり人の往来が多いんで、見えている部分だけ掬い上げても余りある金が入るんでしょうなぁ」
行商人がしみじみと言った。勿論、もっと大規模な都市で、もっと取り締まりの厳しい都市もある。密輸をある程度黙認した事で、更に人が増えて税収が増えたのかもしれないし、巡礼者に紛れた商人にいちいち見分けが付けられないという、この都市ならではの事情もあるのかもしれない。もしかしたら、一番大きいのは、ギヨームの顔を立てた、と言ったところなのかもしれない。
「これから市場に向かいますが、お二人もご一緒ですか?」
「えぇ、向かって頂戴」
私は即座に応える。彼は二つ返事で応じ、坂の先頭を見ながら、やや上ずった声で「遠いですね」と呟いた。
アビスの景観の中でも特に気に入っているのは、この大渋滞とその荷馬車と荷馬車の間を通り抜ける家畜や子供の類である。傾斜によって馬に多少の負荷がかかるらしく、こうした生き物が通り過ぎると馬がぶるんと首を振る事もある。その様子を眺めるのが実に面白いというか、戯曲の中に登場する馬のように感情を持っているように思えて愉快な気持ちになる。
但し、今回ばかりはこの行列に少々苛立ちを覚えていた。秋なので熱気はそれほど気にならないがやや湿度が高く鬱陶しく、加えて遅々として進まない荷車の行列は自分が出遅れたのではないかと言う焦りさえ感じる。市場開場と共にすぐさまアグルダインの売価を見届ける計画は辛抱強く行わなければならないだけに、こんなところでストレスをためるのは馬鹿馬鹿しく思われた。
ダンドロ商会の目にも眩しいピンクの壁が見えてくると、市場に馬車が雪崩れ込んでいく。行商はこちらを向き、開場の鐘と同時に良く響く声で言った。
「さぁ、降りて!」
私は飛び降り、ややダボ着いた服を着たギヨームがそれに続く。そのまま駆け出す私を追いかけるように、馬車はすさまじい音を立てながら行列を進めていく。その馬車の横を駆け抜けるのは、先遣隊の小僧と、私達。荷馬車は市場の他にもあちこちに分かれて行き、それでも延々と続く荷馬車の行列は身軽な人々によって追い越されていく。前方で浮浪者が一人轢かれてもお構いなしに続く長蛇の列が、悲鳴、鳴き声、怒号の全てを飲み込んで行き、それらを市場の大きな口が吸いこんでいく。私はその中で、ギヨームを置いてずんずんと坂を駆け上がり、アグルダインの相場が掛けられている金物の市場の列に並んだ。
(現在価格は……!)
私は背伸びをして書蝋板を見る。市場の管理人が溝式算盤を滑らせ、数分おきにガベルを鳴らすたびに、逐一書蝋板に文字が記されていく。カペル王国らしく、この書蝋板の文字もアバカスを弾く男の魔法に連動しているらしく、一瞬石を動かすのを間違えるたびに、突然金額が変化したりもする。ガベルの音に応じてこれが書き換わるため、目を凝らした程度ではとても対応できない。
(゛わ゛か゛ら゛ん!!)
私の嘆きなど気にも留めず、金額は非常に微細に変化していく。時には、68ペアリス・リーブルに1金リーブルを100分の2等分した価格を足したもの、と言った表記まで飛び出してくる。訳が分からない金の動きに目を凝らしているうちに、朝の市場はあっさりと終わってしまった。
朝の市場における10ギールのアグルダインの終値は、「68ペアリス・リーブルに1金リーブルを100分の7等分した価格を足したもの」であったらしい。ギヨームと合流できたのは、丁度朝の市場が終わった直後であった。




