花冠の王1
最後に向かうのは、恐れ多くもカペル王国の国王にしてペアリス公爵、アーカテニア王国はキャッシュレー伯爵にしてシャングル伯爵、アンリ王、即ちアンリ・ディ・カペルである。彼はこの宮殿の最も玄関から遠い両親の寝室に宿泊している。彼はこの宮殿にある父の残した資料の幾つかを期待していたのかもしれないし、あるいはこの場所を別荘とするとか、出張時の宿泊所にするとか言った実務の為に購入するのかもしれない。対立教皇をほしいままに支配するカペル王にとっては、一応海から教皇庁へ赴く際に利用できそうな場所であることは確かである。彼の思惑は複雑で判断しかねるが、少なくとも、この城を手に入れる事によって、何らかの政治的な意味があると考えた方がよいだろう。カペル王家は何代重ねてもこのような、政治的な優位性を忘れない王族なのだ。
そうであれば、その警備も当然非常に厳格である。それは彼自身の身を守る為でもあり、彼という情報の塊から漏洩を守る堤防でもある。部屋の前には近衛兵が二人おり、近衛兵曰く中には王のほか四名の近衛兵と二名の使用人が宿泊しているという。使用人と言えども、私のような田舎貴族とは比べようもない大貴族である。私はこれまでにも増して背筋を伸ばし、近衛兵が口角を持ち上げるほどの大きな深呼吸をしてから部屋をノックした。
アンリ王の代わりに声を上げたのは兵士らしい。彼は「ジョアンナ・ドゥ・ナルボヌで御座います」と言う私の声を聞き、チェーンをかけたまま扉を開いた。ぎろりとした視線が私を見下ろしている。
彼は背後に向けて「ご本人です」と言うと、一拍おいて王の命令に応え、そして初めてチェーンを外した。
室内に入ると、燻蒸したハーブの残り香と共に、紅茶の豊かな香りが鼻を掠める。まるで私が入る事を拒むような異空間の空気に、思わず身を竦ませた。
「用事があるのではないのか?」
アンリ王の言葉に我に返り、跪いて応じる。
「は、失礼いたしました。お寛ぎ中僭越ながら、内見のご感想などを窺いたく存じまして、参上仕りました。ご気分はいかがでしょうか」
私は開けた部屋の前で跪いていたので、一拍おいてアンリ王他二人の使用人は「近くに寄れ」と短く言う。私が慌てて彼らの前により跪くと、甘いにおい漂う中にアンリ王が咥えたパイプの苦いにおいが混ざり合っていた。
アンリ王は一服の後、使用人の持つ灰皿に灰を落とすと、咳払いをして私のつむじを見下ろす。舐めるようにそれを見つめた彼は、パイプを置き、すくりと立ち上がる。途端に、甘い匂いは全てパイプに吸い込まれていき、無臭の中にアンリ王の落とした灰の臭いだけが漂い始めた。
奇妙な緊張感と共に、アンリ王が首を鳴らす。同時にひとりでに窓が開き、暴風がレースのカーテンを乱暴に持ち上げた。
これが、資源大国にして魔術大国であるカペルの王、アンリ王の挨拶なのか。聖遺物と肥沃な土壌、その全てをほしいままに支配するカペル王家の、威圧的な、支配的な挨拶なのか。私とて魔術の心得がないではないが、この一連の行動だけで、カペル王家の魔法が数多の危難を切り抜けるに値するものだと納得してしまう。生活空間を一変させるだけの魔法を簡単な動作でこなしてしまうという、それを見せられただけで身が竦んでしまう。
「時に、ジョアンナ嬢。私にとってこの城がどの程度のものかは理解しているか?」
言葉を詰まらせる。それは、彼にとってこの城はつまらない城だ、と言う意味なのか、それとも、謁見の間までの廊下を見た時の通り、「素晴らしい」と言う意味なのか。いずれにしても、答えるべき言葉は一つだった。
「陛下が支配するに相応しい方領と思っております」
「結構。謁見の間は実にいい。フーケと言う男は実に才能豊かだと評判だったからね」
アンリ王は肘掛けに体重を乗せて腰を持ち上げ、卵白を落とした髭を摩りながら私に近づく。無防備なはずの彼の背中には、二つの鋭い視線がある。彼は目を弧にして笑い、私の顎をくい、と持ち上げた。
「ジョアンナ嬢。この場所はカペル王国の宝だ。競売の折には君の忠義を期待している」
唾を飲み込む音が大きく響く。びゅう、と風が吹く中に、アイリスの花弁が飛び上がった。
「陛下、獅子と花と、いずれかも許しませんか?」
「獅子も花も良いが、背後に鷲があるならば警戒すると良い」
彼は目を細めた。フアナの侵入を許すな、という趣旨の脅しである。私は息を呑み、そして、意を決して顔を持ち上げた。
「では、アンリ王。貴方のご威光の幾らかを、私達にお分けください。私はどうしても抗えない力に飲まれそうなのです」
「結構。ジョアンナ嬢、君の忖度を期待するとしよう」
彼が本当にこの城を望んでいないことが明らかになった。それだけで、背筋が凍り付く気がした。フアナが最後に見せた笑みが脳裏をよぎる。アンリは再び席に着き、首を再度鳴らし、パイプに息を吹き込んだ。逆向きに風が吹き、窓が閉まるとともに、甘い香りが押し出される。私は跪いたままで彼の足元を見る。革製の光沢のある靴の先は尖り、マントの縁をアーミンが彩る。汚れ一つない服に視線を上げると、アンリ王の静かな笑みが逆光を受けていた。
「実に良い城を作ったね、君の父は。やはり私はこの場所が欲しい」
目に輝きのない笑みとは、どうしてこれほど恐ろしいのだろう。




