この愛はただ家族のために1
次に向かうのはもっとも広い部屋である、父の出張用の書斎である。父は出張の際に、たびたび城からこの場所に向かい、幾つかの資料を持って各地へ向かう。或いは出張の帰りにこの場所に向かい、土産物の書籍をこの場所に置いていった。つまり、父の書斎には様々な重要資料が存在していたわけだが、流石に今はすべて回収して城に保管してある。
それらの書籍群を置いていた本棚が減った分だけ、広大となった場所にいるのは、カペル王家の血を引く分家が治める、外洋交易大国アーカテニア王国の子爵、ガルシア・リオーネ・アスティリアである。外洋の玄関口であるガルシア子爵の領地であるリオーネ市は、彼らの外洋進出の中心地であり、蓄財においては他の二人に劣らない。しかし、地位がやや低く、政治的な影響力は望めないと言える。
もし仮にこの場所をガルシアが手に入れた場合には、この場所は彼の政治進出の中心地となるだろう。さらに、私達にとっては外洋進出に伴う利益を得る事が出来るかもしれない。アーカテニアとの玄関口として、ここで関係を作るのは借金返済への第一歩にもなり得る。
私は一旦深呼吸をし、ノックをした。相手の返事を待つが、反応がない。再びノックをしようとして、突然扉が開いた。
ガルシア子爵は眠たそうな目を半分開きながら、ノックでこぶしを作る私の手を見た。
「……おや、ジョアンナ様」
「今日はありがとうございました、ガルシア卿。お楽しみいただいていますか?」
ガルシアは少し疲れたように笑って見せた。その表情は、私が執務室に訪れる際に父が見せる表情によく似ていた。
懐かしいにおいを嗅ぎ取った私の事を気にせず、彼は部屋を一周見回して、感慨深そうに呟いた。
「あぁ……。この広い部屋に佇んでいると、子供たちの事を考えてしまってね」
子供達。ガルシアはそう言って目を細めた。彼には政治的な他意が無く、この場所を子供たちの養育地にしようと考えているらしい。確かに広く、自由で、自然の豊かな離宮だ。子供を育てるにはちょうどいいだろう。
「私も小さい頃ここにいましたが……。この宮殿はありませんが、それでも自然に囲まれた素晴らしい場所だと考えています」
ガルシアは静かに踵を返し、書斎であった部屋の隅に屈みこんで見せる。訝しげな、と言うには余りにも優しいその視線の先を見ると、書棚の裏にあった小さな埃がほんの少しだけ残っていた。
思わず息を呑む。今日と言う日の為に、使用人には徹底して埃を払うように伝えてあったのだが、部屋の隅に残る汚れを見落としていたのだろう。子供の養育地にしようと考えているガルシアにとって、管理の行き届いていない館ほど嫌な物はないだろう。臍を噛む結果にならないように、同じように屈みこんで謝罪をしようと近づく。
「皮肉なものだね……。君の親の書斎に子供たちの遊び場をと考えているというのは……」
「申し訳ございません。使用人が見落としたようです。私も確認はしたのですが……」
「いや、構わないよ。家の使用人を寄越せばそれで解決する事だ」
そう言って立ち上がったガルシアは、静かに目を細め、窓へと歩み寄った。
外から差す月明かりは微弱で、執務室の父が常に私の庭いじりを見守れるように、真下には中庭が広がっている。一本の木を見下ろせ、謁見の間へと直接赴く事の出来る隠し階段のあるこの部屋からは、文字通り屋敷で空から切り取った月光がすっぽりと望めるわけだ。
アンリ王がこの場所を選ばなかったのは、内見の際に書斎の資料が完全になくなっている事を確認したためであろうが、ガルシアの静かな後姿を見ると、そう言った他意のない事を改めて確信する事が出来た。私は胸元に手を置き、自嘲気味に微笑んだ。
「こうして、良く見せようとしてする掃除には粗が見えるのに、貴方には粗が見られないように思われます」
「それは違うよ。この場所を買ったとして、ここを政治の舞台にしないという保証はない。それに、リオーネ市はいつだって汚い金欲の舞台だ。私から離れた養育地に、子供を置きたいと考えたのもその為だろう。しかし、アンリ王がいるとなると……。複雑なものだ」
彼は私と同じように自嘲気味に答える。鼻から漏れた笑みが切なげで、切り取った月光をほしいままにする一本の木は、静かに枝葉を揺らしている。広がっていく小さな線の細い木、それが項垂れる事はないように思われた。
「ガルシア卿、私は、お戯れに宮殿を買う人ではないという事、それだけで安心しました。どうかこれがよいご縁となる事を期待しています」
「あぁ、明日は宜しく頼むよ」
ガルシアは目を細める。漣のような木の揺らめきに乗って、子供の頃に聞いた鈴虫の幻聴が聞こえた気がした。