淑女フアナは月にも微笑む1
人生初の炒り豆は非常にぼそぼそとしていてまずかった。柔らかな小麦パンにも増して水分を奪う悪辣な保存食は、城の備蓄の中で最も安価で古い食料で、私はそれを炒ったものを十粒口に放り込み、しっかりと噛みしめてお腹を満たした。
「それじゃあ、行ってくるわ」
「本当に大丈夫ですか?あまりご無理なさらず……」
「引く手数多の料理人にも暇を与えたんですもの。この緊急事態に、拠出金を捻出する為なら何でもするわ」
私は残ったドレスのうち、穏やかな青いドレスを着こむ。削れるところは徹底的に削る。先ずは出来る事からしなければならないのだ。
「では、空腹時にはこちらを……」
フーケは麻袋を手渡してきた。私は出費が嵩むと叱ろうとしたが、その中身を見て硬直した。
小麦のパン。フーケへの食事として提供したものだ。私は彼を見る。彼ははにかみがちに笑って見せた。
「いやぁ。ジョアンナ様に忍耐されては、忠臣である私としても示しが付かないな、と」
「……ありがとう。明日の朝食にするわ」
私は麻袋をしっかりと結ぶ。上に立つ者として、フーケの心遣いを無駄にするわけにはいかなかった。
「では、行ってらっしゃいませ」
「えぇ」
私は麻袋を胸ポケットにしまうと、陶磁の部屋へと向かう。私の部屋からは、大回廊を一周して、最も遠い所にある部屋だった。
蝋燭を灯さない廊下は、足を取られれば直ぐに闇に飲み込まれそうなほど、廊下には闇が繰り広げられていた。私は様変わりした宮殿で、慎重に足元を確かめながら進む。蝋燭一本さえまともに利用できないという暮らし、これまでの暮らしが如何に恵まれていたかが分かる。荘園の経営をフーケに一任しているだけでも、何不自由なく暮らす事が出来たこれまでと、不自由な暮らしを強要されるこれから……。私は先の見えない廊下の中で、足裏の感覚だけを頼りに、陶磁の部屋の前で立ち止まった。
陶磁の間は、令嬢の宮殿の中で、最も輝きの満ちた部屋である。滑らかな塗料を塗られた陶磁の上に、繊細な上絵を付けた焼き物の多くは高級品であり、異国情緒あふれる絵画が描かれている。この場所を今楽しんでいるのは、今回の競売参加者の中で唯一の女性であるブリュージュ伯爵夫人フアナである彼女はこの宮殿をカペル王国にある別荘にしようと考えているようだ。
しかし、それだけでブリュージュ伯爵が宮殿の競売を認めるとは考えづらい。そこには少なくとも政治的な意味があるはずである。
フアナを振り向かせるには、基本的にはメリットよりも実体の美しさを強調した方がいいであろう。その背後にあるブリュージュは、かつてカペル王国とエストーラとの間で婚姻政策を巡って対立が生じた地域である。それだけに、フアナとこの宮殿が担う役割は、半ばブリュージュの在カペル外交官のようなものとなろう。その点で、カペル王国側にとってどの程度政治的影響が生じるかを考えるべきではあろう。
逆に言えば、カペル王国への貢献度を高め、王から出資に関する支援を貰える可能性もある。勿論逆の可能性もあるが。
そうした諸々の思惑を込めて考える時、フアナにこの城を譲るという選択肢はないではない。これはフーケの助言だが、彼女が城を購入した場合は、逐一使節等を派遣し、エストーラ側の状況を聞き出す斥候の役を受けるのがよい。カペル王国とエストーラにとっての古い因縁の地であるブリュージュに関わっているのだから、情報料だけでもそれなりの報酬が見込めるという。
ただし、逆もまた然りで、ブリュージュ側、即ちエストーラ側にカペルの情報を与える「スパイ」になる事も有効であると言える。どちらに転ぶにせよ、彼女が購入した場合は「情報」というビジネスチャンスが転がり込んでくる。
その上で、彼女の私へ対する第一印象は非常に重要だ。私は改めて大きく深呼吸をし、陶磁の間をノックする。優雅でおっとりとした「はぁい」と言う声が響き、フアナが顔を覗かせる。彼女は私の顔を見ると、満面の笑みを浮かべて私を歓迎した。
「まぁ、ジョアンナ様! ご訪問頂けるとは、何と嬉しい事でしょう!」
「フアナ様、本当にありがとうございます。是非、お話を伺いたいと思いまして」
私がそう言うと、フアナは扉を大きく開けてくれた。私は丁寧に頭を下げ、そして陶磁の間に入った。陶磁の間にある滑らかな皿が月光と蝋燭の明かりを受けて光を受けている。そして、私達は陶磁の間にある宝石椅子に向い合せで座った。
「私も丁度お尋ねしたいことがあったんですのよ」
「あ、ありがとうございます。ところで、令嬢の宮殿は如何でしょう、お楽しみいただいていれば有り難いのですが」
「えぇ、とっても満足よ。12万リーブルまではお支払いしても良いかと思っていますわ」
「有難うございます。陶磁の間をお選びいただいた際には、やはりフアナ様は芸術に造詣が深いとお目見えします。そのお眼鏡にかなうならば、至上の喜びで御座います」
12万リーブルという言葉にやや引っかかる部分がある。北の大国ムスコール大公国で利用される金リーブルと、わが国カペル王国の硬貨ペアリス・リーブルでは、かなりその価値が異なってくる。ここはあえて彼女の思惑の有無にお茶を濁す事とした。
「それでね、私気になるのですけれども……。ここに在る芸術品はどの程度私達のものになるのでしょうか……?」
「あぁ、それは、基本的には全て皆様に買い取って頂くという形になっております。一応付属品等を含めると、12万リーブル程度が相場と言う事になりますね」
「まぁ、嬉しい! その言葉を聞いて安心しましたわ! ジョアンナ様は頼りになるわねぇ……」
「……そんな、フアナ様こそ、お美しく、堂々としていらっしゃる。私はその方が頼りになると思います」
私は少し俯き、自信なさげに言う。フアナはその仕草にうまく‐‐
「まぁ、まぁ!ありがとうございます。でも、私も夫に良い返事が出せると良いのだけれど」
「必ず、勝ち取って下さい。私も素敵な隣人が出来ればうれしいので、応援していますよ」
私は彼女に顔を近づける。互いに柔和な笑みを浮かべつつ、かりそめの友情を交し合う。フアナの美しい白い頬が、赤々と照る蝋燭の火に当てられて浮かび上がる。それまでの彼女が浮かべていた、柔和な笑みが嘘のように、背筋が凍るほどの細い目の中には、自己の純粋な欲望と、それとは異なる野心に似た思惑の光が灯っていた。
「それでは、明日を楽しみにしていますわ。おやすみなさい」
「えぇ、おやすみなさい」
私はフアナに頭を下げ、宝石椅子から立つ。ギラギラと輝くルビーの明かりが私の背中から消えると同時に、フアナは椅子の向きを変え、そこに鏡でもあるかのように、静かに陶磁を眺め始めた。背中には、視線とは異なる緊張感を感じる。私は部屋を出てすぐに深呼吸をした。




