淑女フアナは月にも微笑む3
城に戻ると、まずジュスタンが替えの服を持って佇んでいた。驚くべきことに、彼もこの暮らしに迅速に順応し、衣服も機能性に特化したものを選出して渡してくれる。それを受け取る前に、彼は静かに手ぬぐいを差し出し、顔と、手足を拭うように促した。
「分かったわよ」
私は手足の泥が綺麗に拭きとれるまで入念に体を拭い、そして、手ぬぐいをジュスタンに返す。彼は恭しくそれを受け取り、すまし顔のままで丁寧に手拭いを折りたたみ始めた。
「リオネル様がお呼びです」
「ありがとう、向かうわ」
私は手紙を仕舞ったまま、リオネルの部屋へと向かう。黴臭さが幾らか増幅したように思える城の螺旋階段をのぼり、狭い廊下へと出て、リオネルの部屋を目指した。
部屋をノックすると、リオネルがご機嫌そうに「どうぞ」と反応する。殆どノックと同時に返事が返ってきたため、私はノックしたその手でそのままドアを開けた。
入った瞬間、途轍もない異臭と共に、なめくじのようなキノコの群れが目に入った。ぬるりとした質感のそれが、布を敷かれた上に乗っており、異彩を放つ個室にまた異様な色彩を添える。私は新調にキノコを跨ぎ、慎重に席に着く。リオネルは作業をひと段落させた時点で、ゆっくりと腰を上げた。
彼の作業机の上には、薬品に関する資料が山のように積まれており、乾燥したキノコの破片が散乱している。
「……何やってるの?」
「ジョアンナ様が特産品があればと申しておりましたので。森で採れるキノコで堕胎薬でもと思いましてね」
「嫌な特産品ね」
「いやぁ。この領地、ホントに何もないですねぇ」
リオネルはケロリと言いのけた。私はつい引き攣った笑みで返す。リオネルは反応を特段気に留める事もなく、席に着くと深く溜息を吐く。相変わらず奇妙な襖吹きが放置され、こちらを睨み付けていた。
「あぁ、まぁこれはどうでもいいんですよ。堕胎したい娘を実験台にする訳にもいきませんので。お呼び出ししたのはですね、フアナ様の件です」
「フアナ様からお返事があったのね?」
私は背筋を伸ばす。リオネルは顎を摩り、封を開けた手紙を取り出して机上に開いて見せた。
フアナからの返答は、相変わらず当たり障りのない挨拶から始まっていた。
親愛なるジョアンナ様へ
お返事ありがとうございます。麦穂の焦げたにおいが鼻孔をくすぐり、収穫の喜びが近づいてゆく季節となりました。ジョアンナ様の領民たちも喜びの中で希望に満ちて期待に胸弾むことと存じます。ブリュージュも、収穫祭の準備のために市場に奏楽の音色が華やかになり始めてまいりました。カーニヴァルの折には、ジョアンナ様にも是非ともお招きいたしたいと考えております。
翡翠の耳飾り、お喜び頂けて幸いです。私も此度の耳飾りを友好の証として、素直にお喜びいたしております。
また、ブリュージュへのお招きに応じて頂けたことも、大変うれしく思います。そして、これについても、近々訪れるカーニヴァルの日にお招きいたしたいと考えております。ヘンリー様の急逝につき、ご多忙のことと存じますが、良い返事をお待ちしております。
そうそう、ジョアンナ様は造幣にご興味は御座いませんか?カペルでは一貴族が造幣をするなどと言ったことは難しいことと存じますが、ブリュージュでは造幣局を運営しております。ご参加の際には、是非とも造幣局の見学もお楽しみ下さいませ。
貴方の友人にしてブリュージュ伯爵夫人 フアナ・フォン・ブリュージュ・ツ・エストーラより
「これは……」
リオネルは手を組み、親指を回しながら手紙を見下ろした。
「フアナ嬢はブリュージュ伯爵に嫁がれた、エストーラ家の分家……類縁では御座いますが、やはりこちらには関心があるご様子。アンリ陛下はカペル王国乃至アーカテニアでの何らかの事実を隠そうとしているからこそ、令嬢の宮殿を売り渡したくなかった、と言う事。そして、こちらをブリュージュへ招くという事を鑑みると……。私は思うに、ジョアンナ様が何かを伝えず、また招かずに招待だけを受け入れる事をお勧め致します。その際には私もお供いたします」
「受けるという方向性は変えないで行くのね」
「前に述べたとおり、ブリュージュ伯爵はカペルの内部事情を調査しながら、カペル王国に近づこうと……つまり、エストーラに見切りをつけていると考えております。つまり、フアナ様のお招きを受け入れて腹積もりを探る事を考えましょう。そしてあわよくば、宣伝活動でも……」
リオネルは終始嬉しそうに指を動かしている。キノコの臭いに顔をしかめ、彼の方を見ると、彼は静かに眉を持ち上げてみせた。
「怖いですか?怖いでしょうね。ブリュージュ伯爵とカペル王国の板挟みに逢うかもしれない様な危険な状況に飛び込むのは……。ですがそれも政治。仮にどちらかが敵に回ったとしても、いずれも大国同士。私達の後ろにはどちらかがいる。そう虚勢を張れるように事を進めようではありませんか」
徐々に早口になるリオネルは微かに汗ばんでいる。羊毛を纏った羊が今日まさに衣替えをしたように、リオネルの現在の厚着は少しでも動きやすくするべきだ。或いは、あの作業台に戻り、少しでもその服装に見合った作業に戻るべきだ。
彼が焦っているという事実に、私は正直驚いていた。もしかしたら彼自身、この状況に緊張しているのかもしれない。前回の話し合いのように飄々と振る舞ってくれていれば、私は気に留める事もなく、フアナととりとめのない会話を楽しんでいた事だろう。しかし、リオネルは間違いなく緊張している。
「リオネル。分かったわ。ブリュージュへ向かう時は、貴方に頼る事も多いけれど、うまくやって頂戴」
リオネルは笑顔は崩さずにわざとらしい礼をした。
「この件について、少しギヨーム様にも調査をお願いしておりましたので、良ければお尋ねください」
「そう、有難う。早速確認に向かうわ」
私は急ぎ立ち上がり、少し乾燥が始まったキノコを大股で跨いで部屋を出る。キノコの刺激臭と共に、ほのかに香る麦畑の香りも遠ざかってしまった。




