7億の遺産
ナルボヌ家の離宮は真新しいバロックの城で、均整の取れた美しい両翼と、豪奢な中庭を巡る回廊が目にも眩しい。その鮮やかな離宮は糞の臭いがする本来の宮殿からは遠く離れており、「令嬢の宮殿」と呼ばれる豪華な本殿と、小さなチャペルとによって構成される。建築者は現当主ジョアンナ・ドゥ・ナルボヌの父故ヘンリー・ディ・ナルボヌで、彼は社交界に娘を連れていき何かと自慢したがる盲目者であった。娘の為なら何でも与え、娘の望むように生活をさせた。この愛娘はダンスや裁縫を嗜む一方で、愛書家でもあり芸術建築にも大変に関心があった。ヘンリーは何でも与えたし、それが当たり前のように思っていた。
そのツケが私に回ってくるとも知らずに……。
頭を抱えて謁見の間の玉座に座る私は、まず最初に財産整理を行った。相続人ではあるがこれを放棄する事が出来るのも貴族の一種の特権であったが、それは貴族としての役を降りる事でもあった。
曰く、「花冠のカペル王国の守護者としての役割を失う」という。貴族で無くなれば私は無職で、この時ばかりは貴族が厚生省の庇護を得られるプロアニアや、生活困窮者の最低限の生活を保障するムスコール大公国が羨ましい。
現実的な話は別としても、この散財も私への愛情の裏返しだと思うと、言いようのない責任感も込み上げてくる。
総計7億2874万5千6百ペアリス・リーブルの借金(カペル金貨にして364万3728枚!)は、一地方領主が一生涯に使い、また返しきれるような金額では到底ない。勿論、貴族に借金はつきものであり、ある程度の赤字財政は王族や大公、皇帝でさえ抱える例があるが、7億ペアリス・リーブルとなるとそれら有力諸侯も真顔になる金額であろう。
勿論、これは父の代より以前から積み立てられたものである事は疑いないが、およそこれをそんな生易しい理由で寛容に見過ごす事は出来ないし、まして父はこれを実際に毎年確認していたはずなのだから、私でも「まずい」と分かる一件を如何にして見過ごしてきたのか。
「と言うか、お父様はどうしてここまで借金を出来たの……?」
私が眉間を抑えていると、ばつの悪そうにしていた財務官フーケは、この点だけははっきりさせようと、姿勢を伸ばして大きな声で答えた。
「ジョアンナ様、恐れながら申し上げます。それは御父上のお人柄のお陰に他なりません。現に、支払いを待ってくれるという手紙は取引先から頂いております。どうか、それはご理解を頂きたく」
「……分かっているわ。でもこれじゃあ、拠出金がどうのなんて言っていられないわね」
私は周囲を見回す。鮮やかなチューリップの花に、青の彩色を散りばめた陶製の花瓶、遠方から送られた最高級の杉製机、芳しい異国情緒あふれる桐の箪笥に、ふかふかの玉座、黄金の額縁に彩られた数多の名画達。青を基調にした美しい絵画には、放漫財政の跡がありありと詰め込まれている。
私は足を組みなおし、そして柔らかい絹の座布団を触る。肘掛椅子から伝わる温もりと滑らかな肌触りを堪能した後で、大きく溜息をついた。
「まずは、この『令嬢の宮殿』を売りましょう。この出来ならば買い手くらいいくらでもいるでしょう」
「……よろしいのですか? お嬢様」
そう言って若き財務官は口をつぐむ。これまでお嬢様でしかなかった私へ対する失言に、思わず硬直したのだろう。私はとても諫める気にもなれず、肘掛けに肘をついて項垂れた。
「もう、言ってられる場合じゃないでしょう……? 売るか、どうにかしなくては」
仮に内部の装飾を全て売っても、恐らく7億の前でははした金だろう。私が簡単にそれを諦めきれなくても、この余りにも重たいはした金を元手にしなくてはならない。
「……ジョアンナ様。では、貸与と言う形では如何でしょうか。恐らくこの宮殿を買い取るとなると、その者にも相応の負担となるでしょう。いかに美しい宮殿と言えど、その大金を払えるものは恐らく国内に数えるほどもおりません」
「どっちでもいいわ、とにかく全部処分して頂戴」
煌びやかなこの宮殿の後に待っているのは、古臭い苔と茨の生した本来の宮殿である。改装工事しても居心地の悪いあの冷たい椅子を思い出しながら、私は最後の柔らかな座布団の感触を堪能した。
「あとは母の宝石と天蓋付きベッド、父の収集品、私の私物もすべて処分しなさい。宝石は勿論、紙切れ一枚残さないで。二着だけ豪華なドレスを残して、後は使用人服にでも変えて頂戴」
「……承知いたしました」
苦しそうなフーケの表情に思わず青筋が浮かぶ。泣きたいのこっちのほうだ。
「それで、どれくらいになるかしら……?」
「概ね12万2000から12万3000ペアリス・リーブルですかね」
フーケは即座に答える。流石に財務官として仕えているだけあり、宮殿の価値は把握済みと言う事だろう。私は深い溜息と共に、目の前の損失を飲み込んだ。