始まる
「武、今どこ⁉︎」
「ん、母さんか、どうしたんだ、そんなに慌てて?」
「若菜ちゃんが交通事故に遭って暮橋病院に運ばれて意識不明の重体だって! 何でも帰り道に———」
ブチッ
母親の続いたであろう長い話を全て聞き終わる前に通話終了ボタンを乱暴に押すとどうじに俺は走り始める。
学校からの帰り道、人だかりができていることには気づいていた。
だがその時はスマホの画面に気を取られていた。
何よりそんな野次馬根性丸出しの連中のことなどどうでもいいと思っていた。
病院への道のりを必死に走っている内に、まるで事故にあったのが自分であるかののように寒気が全身を登ってくる。
その寒気が俺の体をチロリと舐めるだけで
細胞が、神経が、血液が凍っていく。
感覚はなくなっているのに、汗だけが全身の毛穴という毛穴から噴き出してくる。
だがその汗の原因が走っているせいなのか、それとも別の理由によるものなのか、それはもう自分自身でもわからなくなっていた。
いつも何気なく目にしてきた信号や人垣がいつもの何百倍も邪魔に思えてくる、人にぶつかる度に舌打ちや罵声を浴びたが構わず走り続ける。
「なんであいつが———」
そんな言葉が頭の中をまるでムカデのように這い回っていた。
「ハア、ハア、ハァ」
やっとの思いで病院に到着したが、病室の番号を聞き忘れたことに気づき、震える手でスマホを取り出し、母に電話をかけ、部屋の番号を聞きだすと病室に向かった。
そしてようやくたどり着いた病室のドアはただのプラスチックの板とは思えないほどの威圧感を放っている。
その様子はさながらおとぎ話に出てくる地獄の門のようであった。
その分厚いドアを力のはいらない手で横にスライドさせていく……
ギーギッギシッ
病院のドアにそぐわない音を立てて開いたそのドアの先には予想していた。いや、予想したくなかった光景が広がっていた。
まず彼女の顔が目に映る。
綺麗なロングの黒髪は窓から差す太陽の光を浴びていつものように輝いている。だが、その中心にある若菜の顔からは日頃の明るさが少しも感じられない。
若菜はたとえ寝ていても周りを笑顔にできるような表情の豊かさを持っている奴だ、しかし今の彼女には一切の表情や感情が見られない。
そう、これではまるで……
(死んでいるようではないか)
首を振ってそんな想像を頭から振り払った俺の目へ次に飛び込んで来たのは若菜に繋がれた長く太いチューブと物々しい大きな機械だった。そいつらは今回の事故の重大さをひしひしと伝えてくる。
そこからの記憶はあまり覚えていない。
かろうじて覚えているのは暴れようとする俺を羽交い締めにして止めようとしていた看護師と警備員がいたということぐらい。
そして散々暴れた後、少し落ち着いて…いや、正確には疲れ果てて聞いた話によると、明日の真夜中あたりが山場らしい。
次の日俺は学校を休んだ。
もちろん若菜を近くで見守るためだ。
そしてその日は一日中声をかけ続けた。
太陽が地平線に沈んでゆき、空の色が赤紫色になった頃、若菜の容体が急変する。
部屋を慌ただしく出入りする医者や看護師、部外者ということで外に追い出された俺はその様子を部屋の外で見ていることしか出来ない。
(ちくしょう……)
壁にこぶしをたたきつける。
悲しさや悔しさより自分に対する怒りが真っ先に込み上げてきた。
(俺が一緒に行ってやれば良かった。俺が一緒に帰るように言えば良かった。俺が一緒に帰り道でどっかに寄るよう言えば良かった。)
俺が—— 俺が—— 俺が——
意味のない反省ばかりが浮かんでは消えていく。それでも思考は止まってはくれない。
(俺が1つでも行動していれば、そうすればあいつが事故にあうことにはならなかったはずなんだ。何で朝あいつの声を聞かなかったんだ)
(ちくしょう……)
その後若菜はキャスターに乗せられどこか別の部屋へと連れて行かれてしまった。
そしてまた緊張感の張りつめた、緩やかな時間がやってくる。
そこからどのくらいの時が経っただろうか、奥の暗い廊下から足音が聞こえてくる。
暗闇から姿を現したのは若菜の担当医だった。
現れた医者に若菜の母親は走り寄って行くと2人だけで何かを話し始めた。
少しの間話をしていたが、若菜の母親は魂が抜け落ちたように突然ひざを不自然なほど直角に折り曲げ床に打ちつけると茫然自失の表情で何もない空間を見上げた。
その様子を心苦しそうに見ていた担当医だったが、しばらくするとそのままこちらへ向かってきた。
「若菜は手術後、どのくらいで退院できるんですか?」
俺は先手を取ってこう聞く。
こう聞くしかない。
他の可能性など考えたくも、聞きたくも無かったから———
だがその質問に答えることなく静かに首を横に振り、先ほど来た道を引き返す。
「おい、どうなったんだよ⁉︎」
「…………」
またしても返事は返ってこない。
そんな医者を俺は慌てて追いかける。
俺は走っていて、むこうは歩いている。
それでも二人の距離はなかなか縮まらない。
どうしても追いつけない。
だが、しばらく走っていると前を歩いていた医者が急に立ち止まった。
そして走ってきた俺に向かって病室のドアを開ける。
それに従って恐る恐る中を覗いていく、そこで俺の目に映ったのは—————
チュンチュン……
気付くと朝になっていた。
外からは鳥達のさえずりが聞こえてくる。
(夢か……若菜は⁉︎)
未だに夢と現実の狭間にあった俺の意識はここにきてようやく覚醒する。
ガタン!!
すぐに立ち上がろうとするがよろめいて床に倒れてしまう。
「痛ってーーっ」
どうやら長い時間無理な態勢で、しかもソファーで寝ていたせいで俺の足はかなりしびれているようだった。
その事を理解して、それでもなお前へ進めと脳は足に信号を送り続ける。
おそらくさっき見た悪夢が無意識のうちに俺の身体を動かそうとしているのだろう。
細い針で滅多刺しにされているような鋭い痛みを伴いながら、しびれた足を無理やり動かして歩いていく。
病室へと歩いていく途中で運良く出会った看護師を捕まえて、肩を揺すりながら問いただす。
「若菜は⁉︎、若菜の手術はどうなったんですか⁉︎」
看護師はすごい形相でいきなり話しかけてきた青年にビックリしたようだったが、俺の顔を認識すると笑顔をみせて言った。
「桐原君、若菜さんの手術は成功したわ、もう大丈夫よ」
その瞬間、俺は全身の力が抜けるのを感じた。
看護師さんの言葉が心に染み込んでいくのにつれて、張りつめていた緊張がとろりとろりと溶けていく。
そしてついに俺はペタリとその場に座り込んでしまった。
(良かった、本当に良かった)
表情筋が緩み切ってしまい、凹凸のほとんどなくなった俺の顔上を大粒の涙がすっと流れていった。