バスの中でゆらゆらと
母さんに頼まれて買い物に行くことになった。
僕が中学校から帰ってきたら、今日の晩飯の材料がないからと、母さんが僕にお金を渡して「買い物に行け」と命令したのだ。
行きたくなかったが肝っ玉の母さんに逆らえるはずもなく、その命令に従うことにした。
面倒くさがりの僕は、隣町まで歩く気力がなく、バスを利用しようと考えた。
バス停で待っていると目的地へのバスがやってきた。
そのバスに乗ると、乗客は僕ひとりで、他人とスペースを共有するのが嫌いな僕は不幸中の幸いと二人席の窓側に座る。
一人席もあったが、なるべく広いスペースを占拠したいという気持ちが僕を二人席へ導かせた。
玄関に入れることすらできなかったため、学ランと学帽から私服に着替えることもできず、部屋から好きな本を手に取ることができなかった。
だから、この窓からの景色を鑑賞することだけが、僕の暇つぶしになっていた。
綺麗な街並みや神秘的な自然があるわけではなく、一階建ての家が立ち並び、ところどころ先の戦争で焼け焦げた森林が目に入った。
この町は港町であるため、様々な軍需品を作る工場が多く作られた。
つまり、米国にとっては潰さなければいけない場所の一つだったのだ。
病むことのない鉛の雨が、この町を火の海に変えたのだ。
そのころ僕は十二歳で、友達と一緒に防空壕に避難していた。
もうあれから三年経つが、復興の兆しはまったくない。
僕の心の傷はもう治ったというのに……。
いや、まだこうやって思い出すということは、完治してないのかもしれない。
2kmほどある橋の上をバスは渡る。僕は利根川と太平洋がつながっているところをボーッと眺める。
数多の船が並んでいて、それらが川の波にゆらゆらと揺られている。
その上にはカモメたちが空を回りながら飛んでいた。
すると、一人の女学生が乗ってきた。
三つ編みが二つ、頭に携えており、眉を隠す前髪が可愛らしく感じた。
どの席に座るんだろう?
なるべく近くで愛くるしいその顔を眺めていたい。
彼女の同行を見ていると、少しずつ僕のほうへ近付いてくる。
そして、彼女は僕のいる二人席の隣の一人席に座った。
ああ、これはまずい。
横一列に並んでいると、わざわざ彼女の席に顔を向けなければいけない。
ちらちらと見ていることがばれてしまう。それで印象を悪くされても困る。
僕は窓に肘をついて景色を見ていたが、まったくそれらが頭の中に入ってこなかった。
一回だけ、一回だけと決めて彼女を見ようとする。
彼女は大きな瞳が輝いていて、小さい鼻と薄い唇が人形のようだった。
……ん? なんで彼女はこっちを向いているんだ?
視線と視線が合う。そのとき僕は時間という概念をすっかりと忘れていた。それはあちらも同じようだ。
彼女は我に返ったのか「はっ」と声を漏らし、縦にした手で口を押さえ、下を向いた。
白い頬が桜色へと変わっていく。
僕もまた窓に顔を向ける。しかし、あの姿は目に焼きついて頭から離れることはなかった。
その光景を必死に消そうと、彼女以外の別のことに思考にベクトルを方向転換する。
学校のこと、家族のこと、友達のこと……。
ダメだ。あれを完全にかき消すことができない!
あとはなんだ……?
えーっと、えーっと……買い物。
買い物?
僕の体が座った姿勢のまま跳ね上がる。
そうだ! 僕は買い物をしに行く途中だった。
次に止まるバス停が目的地への最寄りじゃないか!
しかも、バスがそこに着いているじゃないか!
「すみません! 降ります!」
バスの運転手に声をかけ、急いで降りようとする。
緊張で震えた手で代金を払い、なんとかバス停を通りすぎることは死守した。
それにしても可愛い子だったなぁ。
また会えないかな……。
儚い希望を抱きながら、市場に向かおうとする。
そのとき気づいた。
もうひとり降車した乗客がいることに……。
「あの……これ……落としましたよ」
その娘の手には僕の学帽があった。
咄嗟に自分の頭に触れる。そこにはざらざらとした五厘坊主があった。
「すみません! わざわざ降ろしてしまって」
「大丈夫です。私もここで降りる予定だったので」
「そうですか……」
僕は彼女から学帽を受け取り、被る。
この好機を逃したら日本男児じゃない!
そう思った僕は言った。
「良かったら、家まで送りますよ」
「いや、そんな……」
「せめてもの恩返しです」
僕がそう一押しすると、彼女は恥ずかしそうにコクンと頷いた。
▷▷▷▷
あれ?
目を覚ますと僕はバスに乗っていた。僕以外乗客のいないバスに。
手のひらを見ると、それはしわだらけで、頭を触ると坊主ではなく禿げ頭に
なっていた。
そうか……夢か。
「お客さん、お目覚めですか?」
車掌が僕に尋ねてくる。
「はい、起きてますよ」
「そろそろ出発してもよろしいですか?」
「大丈……いや」
そう言いかけたが考え直して撤回する。
「ちょっと待ってもらってもいいですか? 妻が来るので」
「待つのはちょっと……」
「お願いします。一緒に行こうってあっちで約束しちゃったんで……」
「そうですか……。分かりました。どれくらい遅れそうですか?」
「数年いや数十年かかるかも知れませんね」
僕はそう言ってまた瞼を閉じた。
瞼の裏に映っていたのは俯いた桜色の頬の彼女だった。