滲む柑橘臭
「……痛い」
彼は独り言を呟く。そうしないと耳鳴りがうるさいから。
「誰か、誰かいないのか!」
誰も応えず、声が反響する。
「……」
喋る行為を止め、再び彼は歩き出した。いつか出口に辿り着けると信じて。
歩くたび、柑橘の匂いが周囲に拡散する。足元には柑橘の実は無い。彼にも実を踏み抜く感覚など無い。
ただの落ち葉が潰れるたびに、柑橘の皮を潰したような事態になる。しかし山に迷い3日目になった彼に、そんな迷いは無い。もう既に慣れていた。
彼は登山初心者である。たった2、3回山を登れた為に調子に乗り、難度の高い山に入ってしまった。
結果トントン拍子に遭難し、今に至る。
鼻が痛くなるほどの濃い匂い。彼はみかんの木でもあるのかな、と現実逃避で思考を満たす。
現状彼は飢餓にはなっていない。この山には柑橘系の実が多く実っている。毎度酸っぱい思いをしながら食べているが、食料自体は多い。麓に出るまでは何とかなる。彼はそう思っている。既に手遅れと知らずに。
この山には曰くがある。既に潰れた村の老婆がよく語った。山には人をどこかに消してしまう森があると。当然彼は潰れた村に住んでいた老婆の話など聞くことすら出来ない。出来なかった。故に迷ってしまった。
そして潰れた村にはとある風習があった。柑橘の類は禁止。実も匂いも香水も、果てには浴槽用の柑橘バブすらも。柑橘は禁忌と呼ぶに相応しいほど、厳重にされていた。
それは何故か。昔、昔の言い伝え、山には入ってはならない。柑橘の匂いに導かれてはならない。でなければ、仲間入りをしてしまうから。
人口減少、若手の不足、高齢化、都心流出。小さな村は時代と共に簡単に無くなり、身を守る為の掟は簡単に消え、先人の知恵という努力と知識は繋ぐ者がいないが故に、過ちは繰り返される。
薄暗いとある山の森に、一本の木が増えた。




