八 医術開業試験
八 医術開業試験
梅の花が開き、だんだん寒さも弱くなってきたが、朝晩はまだ冷え込む。美緒と弥生は布団をかぶりながら勉強して、冬を越した。よく手を洗い、風邪には気を付けていた。一度寝込むと勉強の進度が滞るからだ。
桜吹雪が舞い、若葉が濃い色になった明治三十一年(一八九八年)六月。美緒と弥生は後期の医術開業試験に合格した。翌年医術開業免許を獲得し、医師免許を取得した。しかし、武雄と林太郎は医術開業試験に合格できなかった。
「また後期に受けるか、来年受けることにするよ」
武雄は悔しそうな顔をする。
「俺も頑張る」
林太郎は頷いた。
「お腹の子のためにも頑張らないとな」
武雄は良子のお腹を撫でた。
「ええ! おめでたなの?」
「よかったわね」
美緒と弥生は良子を祝福する。
見ると、良子のお腹は少し膨らんでいた。
「早く合格してもらって、お父さんに取り上げてもらわないとね」
弥生がからかった。
「次に合格できなかったら、美緒さんと弥生さんにお願いしないと」
良子は舌を出した。
「うわ、参ったな」
武雄は苦笑いする。
「今度は受かってみせるよ。美緒ちゃん」
「ああ、俺も今度こそ受かるから」
林太郎と武雄が決意した。
「二人とも頑張ってよ? 私は郷里に帰るから遠くで祈っておくわ」
弥生は笑みを浮かべる。
「弥生さんはご実家に戻られるのね」
良子は寂しそうな顔をした。
「ええ、医者になったら戻る約束だったの。父ったら、もう病院を建てるとか張り切っているわ。嫌になる」
弥生は肩をすくめた。
「美緒さんはどうするの?」
「伝染病研究所の助手の仕事が見つかったの」
「すごいじゃない。北里先生や帝王切開手術をした浜田博士がいるところでしょ」
弥生が美緒を褒める。
「美緒さんは研究者になるの?」
「まだわからないわ。でも、もっと色々なことを勉強したいの。だから、英語とドイツ語の勉強もしないと。やりたいことがいっぱいよ」
美緒はキラキラと目を輝かせながら夢を語る。
「頑張れよ」
武雄は林太郎に肩を叩く。
「ああ」
林太郎は、一瞬悲しそうな顔をした。
「大丈夫、林太郎さんなら合格するわ」
「そうよ、あと二年かかろうが三年かかろうが、林太郎さんなら必ず医者になれるから」
良子と弥生が励ます。
「ありがとう。でも、実はさ、兄が具合が悪くって」
林太郎が苦しそうに打ちあけた。
「え? 幸太が? やっぱり……。この前会った時、具合が悪そうだったものね」
美緒が心配する。
「無理やり病院に行かせたんだけど、仕事があるって言って、全然休まなくってね。だんだん悪化してしまったんだ。参ったよ」
「辛いわね。猶更、林太郎が医者にならないとね」
美緒が励ます。
「そう思うんだけどね……」
林太郎は口ごもった。
次の医術開業試験にも武雄と林太郎は落ちた。
三度目の試験のため、今度こそはと二人は毎日死に物狂いで勉強した。
「試験はうまくいったと思う。武雄君も同じように言っていたから、たぶん合格していると思うよ」
林太郎は美緒に報告した。
美緒は、林太郎と武雄と一緒に合格発表を見に行くことにした。
「居ても立っても居られないから、早く来ちゃった」
美緒は、林太郎と武雄の支度が終わるのを下宿先の玄関で待っていた。
「北村さんですか? いてくれてよかった、電報ですよ」
林太郎は呼び止められ、電報局の職員から手渡された。
「何だろう。武雄君、先に行っていいよ」
「わかった。あっちで待っているよ」
そわそわしている武雄に手を振った。
「電報? 何だろう? 早く見たほうがいいよ」
美緒は開けるよう林太郎を促した。
「ええ? 美緒ちゃん、どうしよう。どうしてこんなことに……」
林太郎は頭を抱えた。
そこには『アニ、キトク』とあった。
「林太郎、幸太のところへ急がないと」
美緒に大きな声で言われ、我に返った。
林太郎は幸太の住む屋敷へ駆けだした。
日本橋にある屋敷には、すでに幸太の母、敏江もいた。
林太郎の試験のために、幸太は敏江に自分の病状を言わないよう口止めしていた。
「お前は医術開業試験に早く合格しろ。俺のことは大丈夫だから」
兄はそういって、林太郎を送り出していた。
数週間前のことである。
「具合が悪いってどうして教えてくれなかったんだよ。どうして兄さんは俺に看病を頼まなかったんだよ」
林太郎は幸太の枕元で怒る。
「お前は自分のことよりも人のことを優先するだろう? せっかく医学校に入ったのに、この一年、俺の看病で勉強ができていなかったんじゃないか。俺は林太郎には自由に生きてほしかったんだ」
「兄さん。俺は、俺は……。兄さんを犠牲にしてまで医者になろうとは思わない」
「そういうところだよ。心配だったのは。馬鹿だなあ」
幸太は呆れたように息を吐いた。
「だって、兄さんの方が大事だ」
「いいか、この会社は母さんが副社長だ。気にしなくていい。何とかなる。お前は自分のことを考えて、ちゃんと幸せになれ」
「兄さん……」
林太郎は幸太の布団にしがみつく。
「母さん、あとは頼むね。親不孝にも、先に死んでごめんなさい」
「幸太……」
「兄さん」
敏江と林太郎は嗚咽した。
葬式には美緒も顔を出した。
「林太郎、大丈夫?」
林太郎の顔つきが以前と変わっていることに気が付いた。
「きょうは来てくれてありがとう。ゆっくり話せなくてごめん」
「ううん。幸太兄さんは残念だったわね」
幸太は肺結核だった。
やっぱりずっと具合が悪いのを我慢していたのだ。
「美緒ちゃん、俺さ、北村商事を継ぐよ」
「え?」
美緒は眉根を寄せた。
「今まで好き勝手にやらせてもらえたんだ。兄さんは、最後まで俺に自由に生きろって言ってくれたけれど、母さん一人じゃ無理だ」
「医術開業試験は? 医者にはならないの?」
「武雄君から聞いただろう? 俺は落ちていた。武雄君は受かったみたいだな」
「でも、きっと次の医術開業試験は受かるわよ」
「もういいんだ。美緒ちゃん。もう終わりにすべき時なんだ」
林太郎は口を一文字に引き結ぶ。
美緒は何も言えなかった。
「美緒ちゃんは、一生懸命頑張るんだよ。ずっと俺は応援しているから。困ったことがあったら何でも言ってね」
「……林太郎」
美緒はそれ以上何も言えなかった。
「新社長、問い合わせが来ています」
「林太郎さん、これはどうしますか?」
会社の社員が林太郎を呼んでいた。
「ごめん。美緒ちゃん、俺はもう行かないと。元気でね」
林太郎は美緒を振り向かなかった。
会社のほうへ真っ直ぐに進んでいく。
美緒はいつの間にか涙が頬を流れているのに気が付いた。
もう永遠に戻らない、何かが失われたのが分かった。
胸の内が締めつけられるようで、切なさが募った。




