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七 富士山

七 富士山

 済生学舎に入学して半年が過ぎた。

 青空が澄み渡り、桜の葉が生い茂っていた。梅の実が大きくなっていて、ふわりと甘い香りを放つ。

 美緒は学校で一番優秀な生徒として有名になっていた。

 林太郎の成績は真ん中あたりで、武雄はどんな試験でも必ず十番以内には入っていた。一番心配なのは良子だった。成績が振るわず、いつも下から数えたほうが早かった。

 元々頑張り屋な良子である。

 どうして成績が悪いのか、美緒は不思議だった。

「何か悩んでいるのかしら」

 美緒が夜中の勉強を終え、横になろうとしたときも、良子は真っ暗な中机の前に座っていた。 

 いつも良子は消灯時間になると寝ていたのに、今日はぼんやりしている。

 良子の頬に涙の跡があった。

 見てはいけないものを見てしまったのかもしれない。

 美緒は良子からそっと視線を外した。

「良子さん、何か悩んでいるの? 私でよかったら力になるわ」

 翌朝、美緒は声をかけてみたが、良子は首を振るばかり。

 授業も聞いていないし、先生に怒られていた。

 試験で良子はとうとう最下位になってしまった。

 このままでは退学になってしまうのではないか。

 美緒は良子の気力のなさが心配だった。

 一緒に勉強していた弥生に相談すると、

「ああ、もしかしたら……」

 岡本弥生は思い至った。

 美緒と良子と弥生の女子三人はいっしょに居ることが多くなっていた。

 美緒と弥生は、来年六月ごろの医術開業試験(後期)を受けるつもりだった。済生学舎の修学期間は本来三年だが、美緒はすでに薬学校を卒業していたため、早く試験が受けられた。

「何? どういうこと?」

「直接良子さんに聞いたほうがいいわよ。女だからねえ。どんなに抗っても、まだまだ自由に生きるのは難しいのよね」

 弥生は諦めたように微笑んだ。

 廊下を歩いていく良子が見えた。

「良子さん! よかったらお茶にしない?」

 美緒は呼び止める。

「ええ。でも勉強はいいの?」

 良子は眉を八の字にした。

「休憩よ」

「そうそう、休憩。私たち、良子さんとゆっくり話したくて」

 弥生と美緒は、良子といっしょに校舎の外に出た。

 寄宿舎に行く途中にベンチが置いてあった。

毎日ずっと教室や図書室で勉強していると息が詰まることがある。天気が良い日は三人はそこでお昼を食べたり、お茶を飲んだりして気分転換をしていた。

 欅の葉が日陰を作っていた。

爽やかな風が吹いてくる。

「最近、良子さんが思い悩んでいるんじゃないかって心配していたの」

 美緒が首を傾げた。

「……」

「もしかして、お家の方から学校を辞めるように言われてるんじゃない?」

 弥生が良子の顔を見た。

 良子は俯いて何も言わなかった。

「ねえ、良子さん。どうして学校を辞めないといけないの?」

 美緒が良子の手を握った。

「結婚をしろっていうの」

「え? 結婚?」

 美緒は目を丸くした。

「誰とするの? 決められているの?」

 弥生は眉間に皺を寄せた。

「学校は辞めるしかないわ。お父様が決めたの。一族の総意なんですって。でも、結婚相手は自分で決めたいって思っていて……。私、好きな人がいるの」

「武雄さんでしょ?」

 弥生が言った。

「逢引きしていたところを見たことがあるわ」

 美緒が小さく笑った。

「やだ、ばれていたのね」

 良子は顔を赤らめた。

「武雄さんと、今はどうなっているのよ」

 弥生が心配する。

「武雄さんに結婚するために医学校を辞めないといけないと言ったら、俺と結婚しようっていってくれたの。だから、私は学校を辞めるわ」

「そうなのね。お父様の言うことを聞かないで、勉強を続けるっていうのはできないの? 結婚したって、勉強できるじゃない」

 美緒は複雑な気持ちになる。

「それも考えたけれど、私には無理よ。一族の総意だなんていわれたら、もう学費も出してくれないし、寄宿舎費も払えないもの」

 良子は肩をすくめた。

「無理なんてことないと思うわ」

 美緒は首を振った。

「私は、弥生さんや美緒さんのように強くないの。二人が来年試験を受けて、居なくなったらどうしようって思っていたくらいなの」

 良子が悲しそうに口元を下げた。

「武雄さんがいるじゃない! 一人じゃないわ」

「でも、武雄さんは女の人でないでしょ。それに私は成績も悪い。追いついていくのがやっとなのよ。医術開業試験に受かるとは思えないの。たぶん、私は医者に向いてなかったのね。結婚して学校を辞めろって言われて嫌だったけれど、ちょっとほっとしたの」

 良子は虚ろな笑みを浮かべた。

「試験なんて何回も受ければいいじゃない……。辞めちゃうなんて寂しいわ」

 美緒は不満げにつぶやいた。

 良子が何日も夜泣いていたのを知っている。

 夢を途中で諦めなくてはいけなかったのだ。

 安堵しているといってはいるが、やはりつらかったのだろう。

「美緒さん、気持ちはわかるわ。でも、良子さんはもう決めたのよ。せめて好きな人と結婚できてよかったと思うわ」

「私もそう思うことにしたの」

 良子は口角を上げた。

「わかったわ。良子さんの結婚を応援する」

「それを言うなら、私が弥生さんと美緒さんの受験を応援するからね。頑張ってお医者様になってね」

 三人は顔を見合わせて笑う。 

「いつ結婚するの?」

 弥生が聞いた。

「六月に学校を辞めて、一度家に戻るわ」

 良子が空を眺めた。

「じゃ、お別れ会をしましょう。富士山に登るのはどう?」

 弥生が提案する。

「賛成! 富士山だなんてすごいわ」

 美緒は目を輝かせた。

「富士山って、あの、富士山?」

 良子は驚いた。

「賛成してくれてよかった。人生に一度は富士山に登ってみたかったのよ」

 弥生は嬉しそうな顔をする。

「女の人が登ってもいいのかしら」

 良子が眉を八の字にする。

「いいに決まっているじゃない。英国公使のハリー・スミス・パークスさんと、ファニー夫人は富士山に登頂したわよ」

 弥生が胸を張った。

「でも、女はダメとか言われたら……」

 良子が俯く。

「富士山登山はスポーツよ。女子登山の何が悪いのよ」

 美緒が笑った。

富士山は他の霊山と同様、女人禁制であったが、明治五年(一八七二年)、太政官布告第九十八号「神社仏閣女人結界の場所を廃し登山参詣を随意とす」によって「女人禁制」が解かれていた。

「三人で楽しそうだね」

 武雄が良子の隣に立った。

「武雄さん、今ね、弥生さんと美緒さんに結婚の報告をしていたの」

 頬を赤らめた良子を見て、心の曇りを美緒は飲み込んだ。

 好きな男性と結婚できるだけで、良子は幸せなのだ。

「美緒ちゃん、きょうは外で休憩かい? 俺らも入れてほしいな」 

林太郎が微笑んだ。

「もちろん! 今ね、良子さんが武雄さんと結婚して、学校を辞めるから、一緒に富士山に登ろうって話していたの。林太郎も武雄さんも一緒に登らない?」

 美緒が林太郎の顔を見た。

 勉強のしすぎのせいか、なんだか林太郎は疲れているように見える。

 風邪でもひいたのかしら。

「富士山か。俺も登ったことがないよ。楽しみだな」

 林太郎も同意した。


数日前までどんよりとした雲が広がっていたが、今日は太陽が顔を見せていた。遠くで鶏が鳴いている。

「富士山登山にピッタリの日よ。用意はいい?」

 美緒は弥生と良子を見る。

 三人とも頭には編み笠、袴姿に杖を持ち、脚絆をつけている。

「登山にばっちりの服装ね」

 弥生は微笑んだ。

「脚絆をつけるなんて初めてよ」

 良子は脚絆を見つめた。

「美緒ちゃんたちはもう来ていたのかい。早いね」

 林太郎と武雄もやってきた。林太郎はインバネスを羽織っていて、武雄はインバネスを改良した二重回しを着ていた。

 汽車を何度か乗り継いで、東海道線に乗る。

 目指すは御殿場駅だ。

東海道線は明治二十二年(一八八九年)に開通し、御殿場駅が開業すると富士山の御殿場口が登山者で賑わうようになった。

 登山道の中で御殿場口は一番新しく安全に登れると言われていた。

明治二十年(一八八七年)二合目に岩室が作られ、富士山の御殿場口太郎坊まで歩くことができた。

汽車には富士山に登るための客が多く乗っていた。高等女学校の生徒などもいる。

 途中にあった店で、筵と杖を借りた。美緒と良子、弥生は周囲の登山客を見習って、筵を体に巻き付けた。

「暖かいような気がするわ」

「風避けにもなるし、いいわね」

「まさか筵のようなものを体に巻くとは思ってもみなかったわ」

 美緒と良子、弥生は互いの恰好をみて苦笑した。

 しばらく五人で歩いていくと「御殿場口太郎坊」と書かれた角柱があった。

「あ、寫眞って書いてある」

この辺りは寫眞撮影に適した場所なのだろう。楽しそうに数人が並んで撮影してもらっていた。

「みんなで寫眞を撮ってもらいましょうよ」

「いいね」

「記念撮影してもらおう」

 林太郎と武雄も賛成する。

 下を見下ろすと、遠くに民家や青々とした田んぼが見えた。森のようなものもある。空は近く、鷹が飛んでいた。極小さく見えるのは人だろう。

 地上にはあんなにも小さい人がたくさん住んでいる。

 空がすぐそこにあり、天と一体になる感覚がした。

 熊本とも、東京とも違っていた。

 ふと死んだお母さんの顔が心に浮かんだ。

涙があふれそうになる。泣きたくなかったので、さらに上を向いたら、もっと空が近くなった。

涙が一筋、頬を伝っていく。

私、医者になるために頑張るよ。

美緒は誓った。

「どうしたの?」

 良子が心配そうに声をかける。

「大丈夫。あまりにも綺麗で……」

「確かに、こんな高いところから下を眺めることってなかったわ」

 弥生も頷いた。

「いい記念になったな」

 林太郎は武雄の肩を叩く。

「ああ、俺、頑張らないと」

「そうだな」

 林太郎は微笑む。

 武雄は武雄で、結婚するから医者にならないといけないと決意を新たにしたようだった。

 帰り路、良子と武雄は途中で別れていった。

このまま良子の実家に挨拶に行くらしい。

「頑張って!」

 弥生と美緒と林太郎は、二人を激励した。

 武雄は緊張して、顔が青ざめていた。

 良子は武雄に寄り添って、手を振っている。

 汽車に乗って、窓の外を見ていると、林太郎は疲れたのだろう、寝はじまった。

 美緒と弥生は小さく笑う。

「良子さん、本当に済生学舎を辞めちゃうのね。残念だわ」

 美緒はつぶやいた。

「美緒ちゃん、医学校にはそういう人も時々いるのよ」

「そういう人って?」

「結婚相手を探しにきている人よ」

「ええ!」

 美緒は驚いた。

「やっぱり知らなかったのね。男子生徒なんかはね、吉原通いをして新聞沙汰になった人もいるのよ。本当に美緒さんは勉強しか興味がないのね」

 弥生は呆れた。

「知らなかったわ。学校にはいろんな人がいたのねえ。良子さんが武雄さんと結婚することになってよかった。お似合いよ。きっと武雄さんが医者になったら、良子さんが支えてあげるでしょうね」

「そうね。良子さんのような生き方もあるわよね」

 弥生は少し冷めた口調でつぶやいた。

 自分たちにはできない生き方だ。

 良子が死に物狂いで勉強していないのは、わかっていた。でも、一緒にやってきた仲間とは思っていた。だから、少しだけ裏切られたような気持ちがするのだろう。

弥生の気持ちが美緒にはわかった。

窓の外に富士山が見える。

高く美しい山だが、私たちでも上ることができた。

良子は医者にならないことを選んだけれど、私は私だ。

亡くなった母に誓いを立てることもできた。

美緒の心は澄んでいた。

「弥生さん、私たちは医術開業試験頑張りましょうね」

「ええ。絶対合格よ」

 美緒と弥生は頷きあった。



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