六 兄たち
六 兄たち
定期試験も小試験も、すべての試験で美緒は学年で一番になった。林太郎と良子はなんとか及第点だが、武雄は十番以内に入っていて、なかなか優秀だった。
「美緒ちゃんはすごいなあ」
林太郎は美緒の活躍を褒める。
「林太郎だってがんばってるじゃない。私は叔父さんに化学や薬学は手ほどきを受けているし、雑誌や本で勉強していたから当然よ」
「でも、弥生さんの学年の試験でも、一番だろう?」
「弥生さんと同点の時もあるわよ」
美緒は苦笑した。
「そういえば、兄さんと食事をすることになったんだよ。一緒に来ないか?」
「せっかくだもの、林太郎と幸太さんと二人で、食べればいいじゃない」
「兄さんも美緒ちゃんに会いたいって言っていたよ? たまにはいいじゃないか」
林太郎が懇願した。
「幸太さんがご迷惑でないなら……、ご一緒しようかな」
美緒は頷いた。
勉強に熱心な美緒が、行こうと思ったのには訳があった。
先日、お父さんから手紙が来た。
いつもながら、お小遣いといって少しお金を送ってくれていた。
お小遣いは嬉しかったが、叔父さんからも一通手紙が来ていた。
叔父さん曰く、萬屋が倒産の危機だという。
お父さんは「おまえの学費は心配ないから、心して勉強しなさい。医者になるのを楽しみにしている」と書いてあった。
うちにお金がないなら、私がなんとかしないといけない。
薬剤師の資格はあるから、いざとなったら働くこともできる。家庭教師をしてもいい。勉強する時間が大幅に減ってしまうが、済生学舎を辞めることになるよりはマシだ。
幸太さんなら、萬屋の現状や熊本のことを知っているかもしれない。
寄宿舎の管理人に、「婚約者の家族に会いに行くので遅くなる」と届け出をだして、林太郎と一緒に銀座に向かった。
「銀座って大きな町なのね」
東京にいるのに遊びもせず、教科書と辞書を睨めっこしている美緒は、初めての遠出である。
「美緒ちゃん、あそこに呉服屋があるよ」
「諭吉兄さんが勤めているところだわ。大きいお店ねえ」
美緒は感心した。
「顔を見に行くかい?」
林太郎が聞く。
「そうね。兄さんはたぶん仕事をしているだろうから、ちょっとだけ……」
美緒は店先から覗くと、諭吉が難しい顔をして仕事をしていた。
「諭吉!」
林太郎が小さい声で呼びかける。
名前を呼ばれたことに気が付いて、諭吉は顔を上げた。
「美緒! 林太郎! よく来たな」
「お兄ちゃん、東京の呉服屋さんって大きいのね。びっくりしちゃったわ」
「ますます大きくなるぞ。美緒によく似合うと思う矢絣の着物があるんだよ。これこれ、ちょっとあててごらん。これにショールと洋傘を合わせるんだよ」
諭吉は店の商品の説明を始める。
「よく似合うよ。鏡で確かめてみて?」
林太郎も勧める。
「あら、とても優雅に見えるわ」
美緒はくるりと回る。
美緒は男子生徒たちに女だと意識されたりしないよう、衛生的で経済的である束髪にして、化粧っ気のない姿で過ごしていた。
「中振りの単衣に緞子の帯もいいだろう?」
「でも、こういうのは着ることはないわ。今は勉強しないと」
「未婚なんだし、華やかにしてもいいだろうに」
諭吉は残念がった。
「ねえ、兄さん。萬屋が危ないって聞いたんだけど知ってる?」
「ああ、油事業で失敗したようだ。でも熊本電灯という会社が開業して、熊本にも電気が来る計画がある。金之助兄さんが出資したようだから、もうしばらく様子を見たほうがいいと思うよ。ダメなら、みんなで東京に来て働けばいいじゃないか」
諭吉は楽天家だ。
「手紙には、学費はあるって書いてあったの、大丈夫なのかしら」
「ダメなら俺が美緒のことを援助するよ。心配ないから勉強しなさい」
諭吉は胸を叩いた。
頼もしい兄の言葉だった。
「きょうはこれから幸太さんと夕飯を食べるの」
「いいね。北村商事の話はよく商い仲間から聞くよ。儲かっているみたいだな。よろしく伝えておいておくれ」
諭吉は林太郎の肩を叩く。
「幸太さんってやり手なのね。東京で噂になっているね。すごいわ」
「林太郎だって、美緒と一緒にがんばっているよな」
諭吉が、落ち込みそうになっている林太郎を励ました。
「もちろんよ。林太郎は努力家だもの。学校でもいつも私の助けをしてくれるの」
「ほお、さすがだな」
諭吉は頷く。
「林太郎が居なかったら、私、医学校で落ち着いて勉強ができなかったと思うもの。大変なのよ」
美緒は説明する。
「美緒は敵が多いそうだからな。林太郎、美緒の面倒をみてくれてありがとう」
諭吉は林太郎に感謝した。
外に出ると、夕日で空が赤くなっていた。
「兄さんとこの辺で待ち合わせしているんだけど」
林太郎があたりを見回す。
向こうから痩せた、顔色の悪い男性がふらふらしながら歩いてきた。
「兄さん!」
林太郎が手を挙げた。
え? 幸太? あれが幸太?
美緒は二度見した。
顔色が悪いのを通り越して、黒い。体はかなり痩せていて、苦しいみたいで肩で息をしていた。
不健康どころではない。もしかして病気なんじゃないかと心配になった。
「やあ、美緒ちゃんも。久しぶりだね」
声は張りがあって、元気そうに聞こえないこともない。
病気に見えたのは、気のせいだろうか。
「ご無沙汰しております。お元気でしたか? 体調はいかがですか?」
「ああ、風邪をこじらせたのかもしれないね。大丈夫だよ」
幸太の言葉に、林太郎と美緒は顔を見合わせた。
「病院には?」
林太郎が眉をひそめた。
「行ってない……けど」
幸太は困った顔をした。
「すぐ行きましょう!」
美緒が勧める。
「それよりも、きょうは一緒に食事をする約束だろう?」
幸太はにこりと笑った。
頬がこけているのが痛々しい。
食欲はあるんだろうか。
幸太は決して病院に行きたがらなかった。
「美緒ちゃん、俺の心配はまたにしてね。美味いものを二人にご馳走したくってね、西洋料理を予約したんだ」
「あ、ありがとうございます」
美緒は眉を八の字にした。
「林太郎も、俺のことは心配するな」
幸太は林太郎の肩を叩いた。
「あ、うん」
林太郎は眉根を寄せた。
銀座四丁目からゆっくり歩きながらあちらこちらを見る。
この辺は築地で外国人居留地が近い。済生学舎のあるところと雰囲気が全く異なり、煉瓦造りの建物が立ち並び、西洋文化が混じっているのが感じられる。
「あれ? 良子さんじゃない?」
美緒は驚いた。
「どこにいるの?」
林太郎が目を凝らした。
「やっぱりそうよ。ちょっと声をかけてくるわ」
「美緒ちゃん、そっとしておこうよ」
林太郎は美緒を止めた。
「なぜ?」
「見てわからない? 良子さんも武雄君も嬉しそうな顔をしているだろう?」
二人は仲良く並んで歩いていた。距離も近い。
良子の頬は蒸気していて、いつもより生き生きとしている。幸せそうに武雄を見上げていた。
武雄も愛おしそうに良子を見つめ、良子が人にぶつからないよう気を配っている。
「あれは逢引きかな」
幸太が笑みを浮かべた。
「二人はそういう仲だったのね。知らなかった」
美緒は茫然としている。
林太郎と幸太は苦笑した。
「築地精養軒に行ったことはあるかい? これからは世界に目を向けないといけないよ。西洋のマナーを学んで、西洋の知識を身に着けることが大事なんだ。二人は好き嫌いはある?」
「俺は何でも食べることができるよ」
「私も好き嫌いはありません。築地精養軒、楽しみです。ありがとうございます」
美緒は嬉しそうにほほ笑んだ。
築地精養軒は立派な建物だった。凝った彫り物のある扉を開けると、よく磨かれた大理石の床に、西洋絵画が壁にかけられていた。
エントランスのホールには大きな花瓶があり、生け花とは違う様式で生けられた花々が飾られている。
「北村様ですね。お待ちしておりました。ご案内します」
給仕がテーブルに案内した。
丸いテーブル一つ一つに蝋燭と花が飾られていた。天井のシャンデリアはキラキラと輝いていた。
「おすすめを頼んでいいかな?」
幸太は、まるで呪文のような言葉が書かれたメニューをみて、三人分の料理を注文した。
美緒と林太郎は、幸太がメニューを決めてくれたのでホッとした。
「ここはたまに接待で使うんだよ」
幸太が微笑んだ。
「兄さん、いま、牛朝村や萬屋はどうなっているのか、知っている?」
林太郎は美緒の気持ちを代弁して聞いた。
「石田さんのところは石油も取り扱うことにしたんだよ。菜種油の需要が減ったというものの、近頃は軍事用や食用油として需要が増えてきているみたいだね。束髪の女性も増えて、鬢付け油の需要も昔よりは減ったようだけれど、女性の髪型にも流行があるだろう? 行灯からランプに変わった時が油問屋としては試練だったと聞くよ。おじさんのところは、今はだいぶ落ち着いたんじゃないかな」
明治五年(一八七二)年、東京府は女子に対して断髪禁止令を出していたが明治十六年(一八八三年)に鹿鳴館ができ、「婦人束髪会」が結成された。美緒も日本髪ではなく、簡単に洗髪できて、自分で結うことができる束髪だ。
「よかったね。美緒ちゃん」
林太郎はにこりと笑った。
「教えてくれてありがとうございます」
美緒はホッとした。
「問題はうちだよ」
幸太が渋い顔をした。
「えええ? 北村商事の綿織物は好調じゃないの?」
林太郎は前のめりになる。
「ああ、好調だよ。だから、紡績工場を九州にも作れないかって思っていてね。政府と掛け合って、最初水力で動かそうとしていたんだが、川沿いにしっかりした建物を建てるって、かなりお金がかかるんだよ。それで、水力を諦めて、石炭にしたんだ。福岡や熊本には炭田があるだろう?」
明治政府は殖産興業の政策のため、官営紡績工場を作ったが、財政難のため、民間に払い下げられていた。そして、官営工場より遅れて、民営の紡績業が始まった。
明治十六年(一八三三年)に蒸気力の大規模な機械紡績工場として大阪紡績会社(今の東洋紡績)が開業した。
「なるほど、いい考えだね」
林太郎は賛成した。
「幸いなことに建設費は政府から借りることができた。城下の富豪たちに呼びかけて設立準備しているよ。だから、絶対この紡績工場を失敗させることはできないんだ。俺は心配で胃が痛くって仕方がないよ」
幸太は肩をすくめた。
「失礼します。二種類のスープでございます」
食事が運ばれてきた。
よい香りが漂っている。
「こちらはフォアグラとメッシュルームの冷製でございます」
「牛ひれ肉のパイ包みでございます」
給仕が皿がどんどん運んできた。
見たことのない、嗅いだことない香ばしい香りのする料理がたくさん並ぶ。
絶対美味しい予感がした。
「煮るでも、天ぷらみたいに揚げるでもないのね。不思議ね。周りの皮美味しい」
「パイ包みだからな。林檎のパイってあるだろう? あの生地を使っているんだよ」
「バターを練りこんでいる生地ですよね。へえ、すごい」
ナイフを入れると、軽やかな音をたてながら赤い肉汁が滴った。
見ているだけで、涎が口いっぱいに広がる。
鼻をくすぐる、バターの香。
美緒と林太郎は食べることに夢中になっていた。
ふと、美緒が幸太を見ると、幸太の皿は減っていなかった。
美緒は林太郎の腕をつついて、幸太をみるように無言で指示した。
「兄さん、具合が悪いんじゃない?」
林太郎がナフキンで口をぬぐった。
「そんなことはないよ。疲れがたまっているんだと思う」
小さく咳をした。
「もしかして、ずっと咳が出ているのですか?」
美緒も心配になる。
「美緒ちゃん、幸太郎、心配無用だ。俺が病気だなんて噂されてしまったら、投資がひきあげられちまうだろう? 風邪がなかなか治らないだけだから。まとまった休みが取れれば、すぐによくなるから」
幸太は強い調子で答えた。
ほかのテーブルからの視線を感じた。
「ごめん、兄さん。ここでする話じゃなかった」
林太郎が謝る。
「俺は元気だから」
幸太はフォークで肉を口に入れた。
「ごちそうさまでした。とてもたくさん美味しいものをいただきました。たっぷり栄養も蓄えられました」
美緒は笑いながら感謝を伝えた。
「よかったよかった。美緒ちゃんには、ぜひ医者になってもらいたいからね」
幸太は笑った。
「兄さん、俺は?」
「林太郎も医者になれればいいとは思っているよ」
「ひどいよ、兄さん。俺にもっと期待してくれ」
「期待はしている」
幸太は林太郎をからかった。
コーヒー風味のソルベやプティガトーまでしっかり楽しんだ美緒は、先に幸太と別れを告げた。
「美緒ちゃん、送るよ」
林太郎が席を立とうとした。
「ここでいいわよ。人力車に乗って、寄宿舎の入り口まで送ってもらうから大丈夫だよ。心配しないで。せっかくだからもう少し兄弟で話して来たら?」
美緒は幸太に挨拶してレストランを出た。
幸太は林太郎よりも背が縮んでいた。
林太郎は、帰り道にでも幸太に医者に診てもらえと説教するだろう。
きっと大丈夫だ。
北風が刺すように強く吹きつけ、美緒は身震いした。




