五 林太郎
五 林太郎
俺が六歳の時、父が亡くなった。交通事故に巻き込まれたのだ。
「子どももまだ小さいのに。どうしたらいいんだろう」
母さんは何度も大きなため息をついていた。
北村商事という会社もやっていた。従業員も大勢いた。路頭に迷わせるわけにはいかなかった。
母さんは会社を継ぐか、決断が迫られていた。
兄の幸太は十二歳だった。
まだ兄さんも子どもである。
「母さん、俺が父さんの代わりに働くよ」
でも、気丈にも兄さんは泣かなかった。
「馬鹿だねえ。それならさっさと上の学校を卒業してからだよ。親が子どもに心配されちゃおしまいだね。父さんの会社は私が何とかしておく。大きくなったら幸太がやればいい」
母さんは涙をふきながら、笑った。
もともと母さんは父さんの手伝いをしていたから、抵抗はそれほどなかったのだろう。
「会社が落ち着くまで、母さんは東京で仕事をしてくるよ。幸太と林太郎は家で勉強していなさい。正蔵さんにも話をしておいたから、寂しかったら石田さんのところにいきなさい」
母さんは洋服を着て、洋風の化粧をして出かけた。
熊本の人なのに、途端に都会の人に見えた。
「いってらっしゃい」
母さんに抱き着くと、嗅いだことのない甘い化粧の匂いがした。
それからしばらくの間、俺と兄さんは石田家に預けられた。
「林太郎?」
美緒はにこりと笑った。
大きな目に赤い頬をした女の子だ。俺の父が死んだのに、何も気が付いていないようだった。それはそれで、同情されるよりずっとよかった。
「遊ぼ?」
美緒は林太郎の手を握った。
幼い美緒は死を理解していない。
美緒の兄の金之助と諭吉は幸太に憧れているらしく、幸太を追いかけまわしていた。幸太もまんざらではないらしい。
美緒のお母さんもまだその時は生きていて、俺と兄さんを温かく迎えてくれた。
美緒は金之助と諭吉の遊びについていけないため、いつも仲間外れだったらしい。
可愛いから美緒と一緒にいたら、「林太郎、大好き」と後追いしてくれた。
美緒はよく俺の手を引いて、散歩に行こうとした。
小さくて、遠くまでは歩けないので、帰りはよくおぶってあげた。
美緒は温かくて石鹸の匂いがした。
父が死んだことは実感できなかった。
これからどうなってしまうのか、ただ不安だった。
おまけに母も熊本にいない。でも、美緒はその存在だけで俺の寂しさを癒してくれた。
美緒は俺の恩人だった。もちろん、可愛くて負けず嫌いで、一生懸命なところも大好きだった。
たぶん、初恋だ。
小学校に入学した。昼間は学校があるので、美緒に会わない日が続いた。
「林太郎? 遊ぼ」
美緒がうちにやってきた。
「今、宿題ばしよるけん、待っとってくれん?」
教科書を読んでいたら、美緒も真似して読み始めた。
びっくりした。
「この字は『あ』、こっちは『い』だよ」
平仮名や漢字を教えると、美緒は喜んだ。
俺は、空手や運動することは好きだったが、勉学は苦手だった。
でも、美緒は楽しいらしい。
学校から帰ると、美緒は勉強を教えてくれと言ってきた。兄貴ぶって一生懸命教えると、美緒は真剣に質問してくる。
あっという間に俺の一年生の教科書を覚えてしまった。
美緒にいつまでも尊敬してもらいたかったから、俺は焦った。
おかげで、兄さんと同じくらい、よい成績がとれるようになった。
「「なんで美緒は走るとが遅かと? 金之助兄ちゃんにも諭吉兄ちゃんにも勝てんたい!」」
ある日、美緒は悔しそうに涙を浮かべて訴えてきた。
「美緒ちゃんは、まだ五つたい? 金之助と諭吉は八歳と七歳ばい。それに、あいつらは男の子たい。美緒ちゃんは女の子やろ?」
どうして張り合おうとするのか不思議だった。
歳は違うし、性別も違う。
小学校にいる女子と、美緒は全然違う。
「女の子は走られんと?」
美緒は腹が立ったらしい。不満げだ。
「走られんわけじゃなかばってん、体が男の子とは違うとたい」
「「どぎゃん違うと? なんで違うと?」
美緒ちゃんはむうっと口を一文字に引き結ぶ。
可愛いかった。
「ちっちゃか頃は、そぎゃん変わらんばってん、大きくなったら、お母さんやお父さんみたいに体が変わってくるとたい」
「今は?」
「今は、そぎゃん変わっとらんと思うばい」
「じゃあ、美緒が練習したら、一番になれると?」
「そうたい。いっぱい練習したら、一番になれると思うばってん、美緒ちゃんはまだ五つたい?」
「練習するもん! ぜったい勝つもん!」
あまり事実を言っても、美緒ちゃんは泣いてしまうだろう。「うんうん」と俺は聞いていることにした。
最近、俺のところに美緒ちゃんが来なくなった。
「美緒ちゃん、どぎゃんしとると?」
美緒ちゃんのお父さんに聞いてみた。
「美緒、最近昼寝ばっかしよるとよ。疲れとるみたいだけん、こっちは楽でよかばってんね」
美緒ちゃんのお父さんは苦笑する。
美緒ちゃんは好奇心が旺盛のため、寝る間を惜しんで本を読んだり、散歩をしたりしている。
まさか……。
「あ、林太郎だ」
美緒ちゃんが起きてきた。
「食うて寝て、美緒はよかのぅ」
「ちっさかけんね。俺らは小学校行って勉強してきとるとばい」
金之助と諭吉は美緒ちゃんば馬鹿にした。
「美緒は兄ちゃんたちより頭よかし、兄ちゃんたちより足も速かけん、負けんもん!」」
美緒ちゃんは二人にケンカを仕掛けた。
「美緒ちゃん……」
さすがにまずいと思った。
八歳と七歳に五歳がかなうはずがない。
「馬鹿たれが。お前に負けるわけなかたい!」
諭吉が美緒を小突いた。
美緒は口を一文字に引き結んだ。
「じゃあ、勝負たい。浜の一本松まで競争ばい。美緒はちっさかけん、俺たちは百数えてから出発するけん。林太郎は審判ば頼むばい」
金之助が呆れたように笑った。
「ようーいどん」
掛け声をかけると、美緒ちゃんは一目散に駆けだした。
以前よりずっと早い。
やっぱり特訓していたようだ。
金之助がどんどん近づいてくる。
美緒ちゃんは大丈夫だろうか。
突然、美緒ちゃんが消えていた。
金之助は一本松のある浜まで全速力で駆けていく。
一本松まであと十メートルのところの脇道から、美緒ちゃんがひょいと顔を出した。
「美緒ちゃん!」
俺の心臓が跳ね上がった。
さすが美緒ちゃんである。違う道から来たのだ。
金之助は美緒ちゃんを捕まえようとしたが、美緒ちゃんはちょっとの差で一本松に一着でタッチした。
「おまえ、卑怯な手を使ったばい」
金之助が怒る。
「卑怯やなかよ! 美緒は頭ば使うただけたい!」
美緒は笑った。
確かにこの道を行くと決めてはいない。
美緒ちゃんは自分の頭を使ってできるだけ早く行く道を考えたのだ。
五歳なのに大した女子だ。
俺は感心した。
美緒ちゃんが小学生になった。俺の教科書ですでに勉強しているから、すぐに一番になって、村一番の神童と言われていた。
俺は鼻が高かった。
賢くて可愛い美緒ちゃんが、いつも俺と一緒にいる。
誰にも盗られたくなかった。
男子が近づいてきたら、そばに寄せ付けないように威嚇した。
美緒ちゃんを守るために、柔術も空手も習った。
美緒ちゃんに馬鹿にされないよう、一生懸命勉強もした。
俺が努力をするので、母さんはものすごく喜んだ。
「将来、美緒ちゃんと夫婦になりたかとたい」
母さんに打ち明けた。
「ああ、美緒ちゃんはたいした女子たい。いつもぴょんぴょん跳ねとるけんね。林太郎も、ついていけるようにもっと頑張らんと、置いてかれるばい」
母さんは苦笑した。
学校を卒業して、美緒ちゃんと結婚できるように、北村商事の手伝いを始めた。美緒ちゃんが十六歳になった時、石田家の正蔵おじさんに挨拶に行った。
「林太郎君になら、美緒ば任せらるっばい。ありがとね、林太郎君」
おじさんは気持ちよく承知してくれた。
「ほんとに美緒が嫁でよかとね? 頭はよかばってん、欲張りすぎるばい」
金之助が眉間にしわば寄せた。
「あいつは気性が激しかけんね。俺なら嫁にはせんばい」
諭吉が呆れとった。
「結婚するのはよいと思うけど、美緒は村でじっとしとくような子じゃないとおもうよ?」
幸太まで俺に忠告してきた。
「美緒ちゃんしかおらんたい。美緒ちゃんと結婚したかとたい」
俺は懇願した。
祝言の準備はすすめられた。美緒ちゃんは毎日丘に登って海を見ていた。
祝言が近くなると美緒ちゃんの顔色はどんどん悪くなっていった。
普通、嬉しくて綺麗になるものではないのか?
俺との結婚は嫌だったのか?
少し不安が胸に去来したが、打ち消した。
美緒ちゃんと結婚できるような男は、この村にはいなかった。
俺と結婚するしかないはずだった。
結婚当日。
美緒ちゃんと結婚できるかと思ったけれど、やっぱり駄目だった。
ショックで泣きたくなった。
「ほら見てみろ、美緒は跳ねっかえりたい。林太郎、もっとおとなしか女子はぎょうさんおるばい」
「林太郎なら、もっとおしとやかな女子と結婚できるとたい」
金之助と諭吉が慰めてくれた。
でも、俺は美緒ちゃんがよかった。
「結婚するなら林太郎だと思うけど、今じゃない。私は外で勉強したい。ごめん」
美緒ちゃんは家を飛び出した。
そっか。結婚するなら俺なのか。
じゃあ、美緒ちゃんの気が済むまで待っていればいいのか。
美緒ちゃんのそばで、俺が美緒ちゃんを見守っていないといけない。
美緒ちゃんの背中を見つめながら、俺の目標が決まった。
みんなの言う通り、美緒ちゃんは外の世界に行きたがった。
村から逃げるとしても、美緒ちゃんが行ける場所は熊本にいるサダヲさんのところだけだ。
正蔵おじさんも、金之助も、諭吉も誰一人焦っていなかった。
「サダヲのところに行ったけん。心配なら様子をみてきたらよかばい。林太郎君のことは好いとると言っているが、覚悟が足りんかったようだ。本当にすまない」
おじさんは俺の肩を叩いた。
「「ちょっと様子ば見てくるけん」
数日後、俺は熊本の松花堂を訪れた。毒消し丸という看板がでていた。
美緒ちゃんは受付で本を読んでいた。難しそうな本だった。
「よ、林太郎君」
サダヲおじさんが声をかけてきた。
「美緒ちゃん、元気しとると?」
顔色は良さそうだ。
ホッとした。
「林太郎君はいじらしいねえ。美緒のことを怒ってもいいのに」
「怒らんばい。美緒ちゃんは賢か女子たい」」
「賢過ぎて、ここじゃ足りないんだろう。それも不幸だよ」
サダヲおじさんは苦笑いする。
「美緒ちゃん、なんの本ば読んどると?」
「ああ、あれは薬学だよ」
「へえええ」
俺はピンときた。
きっと美緒ちゃんのことだから薬剤師になりたいというだろう。最近、化粧品も薬局で売っているというし、西洋薬も話題だ。
どうにかして美緒ちゃんと同じ方向を目指せないだろうか。
三日三晩寝ないで考えた。
俺も薬剤師になろうか。でも、美緒ちゃんは優秀だからすぐに試験に合格するだろう。薬剤師になって働いて、もっと勉強するに違いない。
ということは……。美緒ちゃんは最終的にもしかすると、医者になるかもしれん。
気が付いてしまった。
医者か……。
医者になるにはどうしたらいいのか。
勉強するしかない。
今から勉強すれば、美緒ちゃんが医者になりたいと言い出して、医学校に入るころには間に合うだろう。
女性に門戸を開いているのは済生学舎しかない。
俺も済生学舎を目指して合格すれば、美緒ちゃんと同級生だ。もっと一緒に過ごせるだろう。
もし俺も医者になれれば、美緒ちゃんと夫婦で医者だ。
村に病院を建ててもいい。
よし、俺も医者になろう。急いで勉強しないと間に合わなくなる。
「そぎゃん美緒のことが好いとっとね?」
金之助と諭吉はあきれとった。
「昔っから、美緒のことしか見えていないものなあ。がんばれよ」
幸太は俺の肩に手を置いた。
済生学舎の試験の日。やっぱり美緒ちゃんがいた。時々サダヲおじさんから様子はきいていたのだ。
門の前で、立ち止まっていた。
きっと受験票を探しているのだろう。
美緒ちゃんのことを見つめている男子たちがいた。
済生学舎は男ばかりだ。女子は嫌がらせされたり、危ない目にあったりするという話を聞いていた。
「絶対受からんと、美緒ちゃんが危なかたい」
俺は気合を入れた。
正蔵おじさんも、金之助も、諭吉も、東京の、男ばかりの学校だから心配していた。もちろんうちの母さんもだ。
美緒ちゃんは俺の視線に気が付いた。
俺の姿を見て、ものすごくびっくりしていたけれど、次の瞬間、ぱあっと笑った。
花が咲いたような笑顔だった。
俺は美緒ちゃんを絶対に守ると決めた。
俺のすべてを懸けてでも、美緒ちゃんの夢がかなえられるようにしてあげる。




