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四 済生学舎

四 済生学舎

朝から美緒はそわそわしていた。

「カランコロン」

呼び鈴がなった。

美緒は一目散にドアへ走った。

サダヲも調剤室から出てきた。

「電報です」

紙を受け取ると、美緒は目を閉じた。

数回深呼吸をして、呼吸を整えた。

恐る恐る文面を見る。

直視できない。

これで運命が決まると思うと、見ることができなかった。

大きく息を吸い、もう一度目を閉じる。

受かっても受からなくても、結果を受け止めないといけない。

覚悟が決まらず、何度も深呼吸を繰り返していると、

「美緒、どうだった? 見たのか?」

 痺れを切らしたサダヲが尋ねた。

「まだ……」

「どれ、貸してみろ。俺がみてやる」

「嫌よ。私がみるの」

 美緒は気合をいれて、文字をみた。

「受かってた。叔父さん、受かったよ。やった!」

 美緒はへなへなと床に座り込んだ。

「おめでとう! 美緒はがんばれよ」

「あとはお父さんに言わないと」

 美緒の顔に緊張が走る。

「ああ、そうだな。報告してやれ」

 サダヲは大きく頷いた。

 この日の午後、美緒は牛朝村に帰ることにした。

 お父さんは反対するだろうか。

東京の医学校に行くなんて言ったら、絶対に怒るに違いない。

 でも、絶対に医者になりたい。

 美緒は遠くを見た。

 相変わらず丘から見る海は青く、広かった。

村を見下ろしていると、林太郎が歩いているのが見えた。

「そろそろ美緒ちゃんが来るだろうと思って迎えに来たんだ。美緒ちゃん、どうだった?」

 東京の済生学舎という医学校の門の前で美緒が受験票を探していた時、バッタリと林太郎に会っていた。

「どうしてここに?」

「俺も医学の勉強がしたくってさ」

 林太郎は恥ずかしそうに笑った。

 済生学舎とは、東京の湯島にある医学私塾である。前期と後期に別れ、顕微鏡検査や細菌学実習、屍体的外科手術などの実習が三カ月組まれていた。

三カ年で卒業であるが、実際には、医術開業試験に合格したら卒業であって、何年かかっても卒業できないものもいた。

 美緒は、まさか林太郎も医者になろうとしているなんて考えもしなかったので驚いた。

「林太郎は? どうだった?」

「受かっていたよ」

「よかった、私も受かっていたわ」

 美緒はホッとした。

「おめでとう」

 二人は喜び合った。

「これから正蔵さんのところに行くんだろう?」

「そうなんだけど……。許してくれるかな」

 美緒は不安のため息をつく。

「まあまあ、俺も一緒に行ってあげるからさ」

 林太郎は美緒の背中を押した。

「ただいま……」

 美緒は表の入り口から入る。

「こんにちは。林太郎です」

「あら、林太郎さん、よう来なさったね。み、美緒さんが…! ええっ! 旦那様! 美緒さんが戻って来なさったとばい!」

 使用人がバタバタとかけていく。

「お父さん、私、東京で医学の勉強をする。済生学舎という医学校に受かったの。医者になりたいの」

「はあ? 医者ね? あんた、薬剤師になったばっかいじゃなかと!」

 正蔵は血の気が頭に上ったようで立ち上がった。

「美緒……おまえちゅう奴は……また跳ねよったな……。今度は医者になったつか。」

 金之助はよろよろと座っていた姿勢を崩す。

「薬剤師はどうすっとや! なんばしよっとか、この馬鹿たれが!」

 正蔵が怒鳴った。

「薬だけでは、病人を救えなかった。だから医学の勉強しに行くのよ! 何が悪いのよ!」

 美緒は言い返す。

「おまえは女ん子やろが。おとなしかしとけ! 幸せになられんばい。」

「いやよ。私は医者になるの!」

 正蔵と美緒が睨みあった。

 折れる気は全くない。

 美緒は口を一文字に引き結ぶ。

「おじさん、実は俺も美緒ちゃんと同じ医学校に受かったんです。俺が美緒ちゃんの面倒をみますから、美緒ちゃんを医学校に行かせてやってください」

 林太郎は頼み込む。

「林太郎君……、美緒とは破談になったとたい。林太郎君は、もう美緒から自由になってよかとばい」

 正蔵は哀れな目で林太郎をみる。

「俺は美緒ちゃんと同じ方向をみていられるなら幸せなんです。薬剤師になった美緒ちゃんをみて、俺は医者になろうって思ったんです。美緒ちゃんと同じ夢が見たかった。だから大丈夫です。俺のことより美緒ちゃんの気持ちを大事にしてあげてください。女子で医学校に行けるチャンスは滅多にない」

「そら、そうばってん…なんでこいつは、世間から跳ねよってばっかしなんかね……。」

 正蔵は深く息を吐いた。

「美緒ちゃんは優秀ですからね。狭いところに閉じ込めておくのは無理でしょう」

 林太郎は笑みを浮かべた。

「そらそうたい……ばってん、女ん子は結婚して子どもば産むとが幸せっち思われとるとばい。美緒は社会から外れてしまうかもしれんばい」

 金之助は眉を八の字にする。

「私の幸せは私が決めるわ。この前、薬剤師になって患者さんが亡くなったの。たすけてあげたかったのに、薬剤師ではダメだった。私がやりたいことができないの。私は医者にならないといけない。お母さんだって、私が医者になっていれば、生きていたかもしれない。もう後悔をしたくないの。お父さん、お願いします」

 美緒は頭を下げた。

「俺からもお願いします」

 林太郎は額を畳につけた。


明治二十九年(一八九六年)、美緒は二十三歳の時に済生学舎に入学した。

済生学舎は、はじめは女子生徒を受け入れていなかった。明治十七年(一八八四年)近代日本で三番目に女医になった高橋瑞子が三日三晩済生学舎の校門の前に立ち続け、校長の長谷川泰に懇願し、十日目にして入学を許可されたのがきっかけで、女子に門戸を開いたのである。

しかし、明治三十三年に女子生徒を拒絶するようになる。

美緒はなんとか済生学舎に滑り込んだ形であった。

なお、近代日本で初めての女性医師は、明治十七年医術開業試験に合格した荻野吟子である。少しずつ、女性医師が増えようとしていた。

林太郎は学校近くに下宿することにしたが、美緒は済生学舎の寄宿舎に入ることにした。通いの生徒は、朝も早い。大森辺りから通っている生徒は夜半二時に起きて登校しなくてはならなかった。

十月。イチョウの葉が色づき、爽やかに晴れている朝、美緒は初めての授業に臨んだ。済生学舎の授業は朝五時から立て続けに夜間まで続いた。

「絶対医者になるんだ」

クラスには誰もまだ登校していなかった。美緒は、一番前の机に荷物を置いた。先生の言葉を一つ残らず覚えてやると心に決めていた。

「美緒ちゃん! 隣のクラスだったのね」

 色白で穏やかそうな顔つきの、女子が前のドアから覗いていた。

 洒落た銘仙の着物を着た、村井良子が手を振っている。

「授業の場所はとれた?」

 良子と美緒は入学式に友人になった。

美緒は良子の優し気な雰囲気が好ましく感じた。これから女性医師になる仲間だから、大切にしたいと考えていた。

「もちろん一番前の席をとってきたわ」

 良子は微笑んだ。

 廊下に出て話をしていると、登校してきた男子生徒たちが教室に入り始めた。

 遠慮のない、好奇心と侮蔑の視線を向けられた。

女子だからって馬鹿にしているようだった。

口笛を吹いてきた者もいる。

 美緒と良子は無視することにした。

「今日から授業、頑張ろうね」

 良子と別れて、美緒は教室の中に戻ると、朝とっておいた、一番前の席が埋まっていた。あそこには私の風呂敷がおいてあったはずだ。

 私の荷物はどこに行ったのか。

 教卓の前を探すと、男子生徒たちがニヤニヤしていた。

 あいつら……。許せない。

「キンコンカンコーン」

 鐘が鳴り響く。

 どうしよう。風呂敷がないと、勉強ができない。

美緒は教室の中を探し始めた。

「女子のくせになんでこんなところにいるんだ?」

「黙って家にいろ。貰い手がないのか? 俺がもらってやろうか」

 男子生徒たちが冷やかす。

 美緒は睨みつけた。

「顔は可愛いのに生意気だ」

「一発殴ればいうことを聞くだろうよ」

 勉強をしに来たのではない、こいつらはただの男なのだ。私の邪魔をしようとしているんだ。

女の体なのだから、気を付けなければならない。

いやらしい掛け声に、熱のこもった男の視線にぞっとした。

 熊本薬学校の時も男子生徒のからかいは酷かったが、医学校はそれ以上である。

 絶対負けない。医者になるんだから。

 美緒は鋭い目つきで男子生徒たちを見据えた。

「どうした? 石田。何をしているんだ」

 担任の森内俊之が現れた。

「風呂敷がなくなったんです。一番最初に教室に来て、一番前の席に荷物を置いていたのに」

「みんな、石田の風呂敷を探してやれ。誰なんだ、そういうことをしたのは」

 教室が騒がしくなった。

 美緒は申し訳ない気持ちと恥ずかしさで顔が赤くなる。

「この、女物の風呂敷ですか?」

 男子生徒の一人、田所正が風呂敷をつまみ上げた。

「女物だ」

 教室内がざわついて、嘲笑でいっぱいになる。

「屑箱の中に入っていましたよ」

 田所は意地悪な顔をする。

「誰がやったんだ? お前らは、そんなに暇なのか? まずは石田より優秀になることが先だろう。石田は入学試験の成績は一番だぞ」

 森内先生が怒りをあらわにした。

「先生、俺が後ろの席に行きます」

 駒形武雄が手を挙げた。

「駒形、すまないな。石田は女子だが、同じ医学を志すものだ。とりあえず、石田の席は教卓の前に固定する。お前ら、わかったか?」

 森内先生が有無も言わさず決めた。

「そんな、俺だって前がいいのに、女子はいいなあ」

「女子は一番後ろでいいだろう。どうせ勉強しなくなる」

「そうだそうだ」

 生徒たちが騒ぐ。

「お前らがそういう態度だからだ」

 森内先生は出席簿で教卓を叩くと、静まり返った。

 とりあえず、美緒は教室での席が決まったのでホッとした。良子のいるクラスでも、先生が怒鳴っている声がした。

 良子も同じ目に遭っているのかもしれない。

 気を引き締めないと、ここでは男子生徒に足を引っ張られる。

 美緒は胸に刻んだ。


 休み時間、林太郎が美緒のクラスにやってきた。

「何だ、石田の知り合いか」

「婚約者だが?」

 林太郎は突っかかってきた田所を睨みつけた。

「婚約者? 二人で仲良く手をつないできたのか。ここは学校だぞ」

 田所がニヤニヤ笑った。

「は?」

 美緒は憤った。

「私たちはそんな破廉恥なことはしてません。林太郎に謝ってください。林太郎はすごく優しくて思いやりのあるいい奴なんです」

「女に庇われて、情けないな」

 田所が大きい声で林太郎を馬鹿にした。

「美緒ちゃん、俺のことをそんな風に思ってくれていたんだね。嬉しいな。美緒ちゃんはお前らより優秀で、本当にすごいんだからな。まずは美緒ちゃんよりいい成績をとってみろよ。いくら美緒ちゃんが可愛いからって、ちょっかいを出そうとしても無駄だよ」

 林太郎は田所に啖呵を切った。

「林太郎……」

 美緒は言われなくても一番の成績を取るつもりだったが、本当に学年で一番の成績を取らざる得なくなった。

私の本当の理解者は林太郎だ。ぜったい林太郎の期待に応えないといけない。

 美緒は苦笑する。

「美緒ちゃん、危ないから寄宿舎まで毎日送るからね。男子生徒たちには気を付けて」

「もう過保護すぎるよ。徒歩五分もかからないって」

 美緒は首を横に振った。

 林太郎と押し問答をしていると、上級生の女子生徒が通りかかった。

 堂々と歩いているが、誰一人「女子だ」と揶揄うものはいない。おそらく、成績が優秀で誰にも文句を言わせないのだろう。

 頼もしい女性だ。

「あら、危ないから送ってもらいなさいよ。婚約者なんでしょ。私は二年生の岡本弥生よ。新しく入った子たちの様子を見に来たの。あなた、早速、男子生徒ともめてるわね」

 弥生は微笑んだ。

「石田美緒と申します。よろしくお願いします」

「北村林太郎です」

 美緒と林太郎は挨拶をした。

「この学校もね、女子生徒に絡む男子生徒は多いの。特に美緒ちゃんみたいに可愛らしいとひどいはずよ。私もね、一年生の授業中、小さくちぎった消しゴムや紙切れをなげられたりしたのよ。困ったものよね。少しずつ女性医師が増えてきているけれど、まだまだなの。二年生にもなると、成績が優秀なほうが優勢よ。誰も私に逆らわないわ。実力でねじ伏せないといけないの。美緒ちゃんもがんばってね」

 弥生は肩をすくめた。

「はい!」

 美緒は即座に返した。

「隣のクラスにもう一人女子生徒がいるでしょ?」

「良子さんですね。友人なったんです」

「大変だろうけれど、林太郎さん、あの子も一緒に送迎してもらえないかしら?」

「もちろんです」

 林太郎は胸を張った。

 


寝る間を惜しんで美緒は寄宿舎で勉強した。夜九時には消灯になってしまうため、晴れた夜は寄宿舎の玄関の門灯で立ちながら勉強し、雨の日は物入れにランプを持ち込んでこっそり勉強した。

どうせ寝ないので、布団はいつも半分に折っていた。眠りこけると畳に転げ落ち、目が覚めるようになっている。

薬剤師の資格をもつ美緒でさえ、さらに覚えることが多い。林太郎や良子は医学の知識を勉強するのは初めてだ。骨を折っているに違いない。


ある日、林太郎が最後の授業の実験の片付けをしないといけなかった。

「少し待っていてくれれば送れるけれど」

 林太郎が申し出る。

「大丈夫よ、歩いて五分のところよ」

 美緒と良子は先に帰ることにした。

弥生から、学校内でも一人で決して行動しないようにと言われているので、便所にも必ず二人組で行くようにしていた。

弥生曰く、一人でいると何をされるかわからないというのだ。

曇天の空がひろがっていた。

美緒と良子は一応警戒しながら歩いていた。

 寄宿舎が見えてきたので、二人の気持ちが少し緩む。しかし、いきなり見知らぬ男子生徒二人組が飛び出した。

一人が良子の手と髪をつかみ、逃げられないように拘束した。

「やめて! 痛いわ!」

「女なのに生意気だ」

 良子は勢いよく建物の壁に打ち付けられた。

鼻血がでて、顔が真っ赤になった。

「あんたたち、何するのよ! ひどいわ」

 美緒が叫ぶ。

「俺らが遊んでやるって言っているんだよ」

 美緒が体当たりして攻撃しようとするが、もう一人の男子生徒に避けられてしまった。

「助けて」

 良子は泣き出した。

「顔は可愛いけれど生意気な一年女子って、お前のことだな。軽くて小さいな」

 男の一人が体の小さい美緒を抱えた。

「やめろ。お前ら、本当に男なのか。恥ずかしいと思わないのか」

 同じクラスの駒形武雄が立っていた。

「何だと! 邪魔だ」

 男たちは武雄と睨みあう。

「先生! こっちです」

「男子が女子生徒を襲っています!」

 先生を呼ぶ声がした。林太郎の声だった。

「この野郎!」

 林太郎が美緒の前に立っている男子生徒を殴る。

 私の体は非力で弱い。どうして女なんだろう。

 美緒は震える自分の体を抱きしめた。

「もうあいつらはいなくなったよ。美緒ちゃん、ごめんよ、俺が遅かったから」

「ううん、林太郎を待っていればよかった。怖かった」

 美緒は安堵の涙をこぼした。

「間に合ってよかった」

 林太郎は美緒を抱きしめた。

「ありがとう。美緒ちゃんと良子さんを守ってくれて、助かったよ」

 林太郎は礼を言う。

「いや、クラスメイトだからね。林太郎君の送迎が難しい時は、俺が代わりにやるよ。危険な目にあわせないようにする。痛くないかい?」

 武雄がそっと手拭いで良子の血をぬぐう。

勉強では、絶対あいつらに負けない。

私たちを侮辱する奴らは許せない。

美緒はさらに闘志を燃やした。

一連の騒動で、大多数の男子生徒たちは、美緒と良子をいないものとして無視するようになった。


「実験を始める。四人ずつグループを作れ」

 先生が指示した。

 美緒と良子は残る二人のメンバーを探すが、避けられていた。

幸い、この実験は一年生合同だ。

「美緒ちゃん。俺も入れてくれる?」

いつもならそっと見守っている林太郎が見かねて声をかける。

「良子ちゃん、俺もいいかな?」

武雄も美緒たちに声をかけた。

男子生徒たちからは冷ややかな視線が飛んできていたが、美緒と武雄は成績が優秀なため、文句をいう奴はいなかった。

それから四人は一緒に過ごすことが多くなった。

毎週小試験があるため、生徒たちは必死になって勉強しなければならなかった。

美緒と良子、林太郎と武雄は一緒に図書室で勉強することにした。

ふとみると、上級生の岡本弥生が一人で勉強していた。

「すごいわね。弥生さんって学年トップなんでしょ。尊敬しちゃうわ」

 良子がうっとりとする。

「私たちも頑張りましょうね」

 美緒が言う。

「ふふふ。本当よね」

 良子が笑った。

 美緒はお目当ての薬学辞典と化学の本を探していると、弥生が同じ本に手を伸ばしていた。

「弥生さん、お先に使ってください。私はちょっと確認出来たらいいので」

「あら、そう? ありがとう。そうだ、美緒さんはすでに薬剤師の資格があるのよね?」

「はい」

 資格を持っているということで、美緒は薬学の授業は免除されていた。その分、上級生のクラスの授業を受けることを許されていた。

「わからないことがあるんだけど、ここを教えてもらえるかしら?」

「もちろんです。私でよかったら」

 四人のいるテーブルに弥生を招いた。すると、他にも数人の男子が一緒に座った。弥生のクラスの男子生徒らしい。

 弥生の仲の良い友人たちということだった。

 七人で大きなテーブルに座り、互いに教えあいながら学校が閉まるまで勉強することができた。


女子生徒はいつも衝突の元であった。

実験室の席は早いもの順である。女子生徒はわざと前に行けないようにされて全く見えないようにされる。

腹が立った美緒と良子は林太郎や武雄の力も借りて、前の授業が終わると否や、駆け出していちばん前の席を陣取ることにした。

「女のくせに」

「血をみて、きゃあとか悲鳴をあげるだろう。うるさいし邪魔なんだよ」

 男子生徒たちは美緒や良子の邪魔をするように押す。

「やめてください」

 美緒が声を上げた。

「危ないからやめなさい!」

 とうとう解剖学の先生が怒り始める。

「先生は女子ばかり贔屓しているからな」

「不公平だ」

 男子生徒たちが言い出した。

「そんなことはないです。背が高いものが前に来たら、背の低い生徒が見えない。ただそれだけですよ」

 先生は呆れた。

「いや、この学校の先生は女子が好きなんだ。破廉恥だな」

「何を言うんだ? それ以上、侮辱するなら停学にするぞ」

 先生は顔を紅潮させ、怒りを露わにした。

「構わないさ。俺は先生に決闘を申しむ」

 食って掛かっていたのは田所であった。

「あのね、ここは医学を学ぶところなの。男だ、贔屓だというのは間違っているわ。そんなに言うなら、私よりもよい成績をとってらっしゃいよ」

 美緒は先生のケンカを買って出た。

「ちょ、ちょっと石田さん、言い過ぎですよ」

 先生が慌てた。

「美緒ちゃん、もうやめて」

 焦った林太郎と良子が止めた。

「だいたいね、ケンカや悪口いう暇があるなら、勉強しなさいよ。あんた、成績悪いでしょ。決闘? 上等じゃないの。かかってきなさいよ。ここは学校よ。試験で勝負よ。それなら男も女もないでしょ。覚悟しなさい!」

 美緒は顔を真っ赤にした。

 正義感の強い美緒である。男子生徒たちの、授業妨害に我慢の限界だった。

 すでに薬剤師でもある美緒は誰よりも優秀で、上級生からも一目置かれるようになっていた。

 それから、努力の足りない男子生徒たちに妬まれていた。

「その決闘、俺が引き受けるよ。美緒ちゃんは見届けてね」

 林太郎が美緒を制した。

「婚約者のお出ましか」

 田所は鼻で笑った。

「表に出ろ」

 林太郎は冷静に言った。

「林太郎がケンカしたら、死んじゃうでしょ。ダメよ。試験で勝負の方が、いいとおもうのよ? ねえ、林太郎?」

 美緒が止める。

「優男が……。かっこつけやがって」

「どうせ田所が勝つさ」

 男子生徒たちが笑った。

「ああ、もう。知らないから」

 美緒は軽くため息をつく。

「美緒ちゃん、どうしよう」

 良子は美緒の袂を引いた。

「まあ大丈夫でしょ。林太郎君は」

 武雄が確認する。

「うん、林太郎はね」

 裏庭で林太郎と田所を中心にして生徒たちが囲んだ。

 解剖学の先生は他に先生を呼びに行った。

「先にかかってきていいよ」

 林太郎は口角を上げた。

「お前のことは入学した時から気に入らなかったんだよ」

 田所は拳を振り上げた。

「君さ、美緒ちゃんのことが好きなんでしょ? でも、あげないよ」

「は? はあ?」

 田所は耳まで真っ赤になった。

「気が付いてないのか。君は本当に馬鹿なんだな。美緒ちゃんは賢くて可愛いから、好きになる気持ちはわかるけど。鈍感すぎないか?」

 林太郎は長くため息をつく。

「馬鹿とはなんだ、馬鹿とは!」

 田所は何度も殴りかかるが、林太郎はするっと片手をあげて避けてしまう。

 汗ひとつかかず、涼しい顔をしている。

 素人を相手にするつもりがないらしく、美緒はホッとした。

「何をしているんだ!」

 数人の先生が集まってきた。

「解剖学の臨床です。骨の動きをみていました」

 武雄が手を挙げて答える。

「そうです。臨床です」

「授業の一環です」

 男子生徒たちが次々と答えた。

「北村林太郎って何者なんだ?」

「どうしてあんなに強いんだ?」

 男子生徒たちがそっと言い合っている。

「林太郎は空手有段者よ。たぶん、日本で一番強いわよ。だから怒らせると怖いのよ」

「そうだったの。すごいのね」

 良子は感心した。

「林太郎君は君たちを寄宿舎に送っていった後、上級生などに呼び出されて何度かケンカをしているんだよ。いつも楽勝で、俺の出番はまったくないんだけどね」

 武雄は肩をすくめた。

 相手は勉強しかしてこなかった奴である。林太郎が負けるはずがなかった。

「そういう武雄君だって、強いよ。武雄君はね、ボクシングをやっているんだ。面白い技を使うよね。教えてほしいな」

 林太郎は笑った。

「林太郎、ごめんね。頭に血が上って、ケンカの誘いに乗ってしまった……」

 美緒は眉を八の字にした。

「大したことないよ。美緒ちゃんが無事ならそれでいいんだから」

 林太郎はにこりと笑った。

「武雄君も、強いからって無理しないでね。ケガをしたらいやよ」

 良子は武雄を見上げる。

 武雄は頬を赤らめた。



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