二 毒消し丸
二 毒消し丸
海は今朝と同じく穏やかだった。
風に乗ってトンビが下に急降下するが、瞬間、ふわりと浮き上がってきた。
「どうしよう」
とりあえず結婚式を逃げ出したものの、お金もない。
結婚はしないという決断はできたが、これからのことは何も考えていなかった。
美緒は腕を組んで丘の上に立った。
海風が頬を撫でていく。
逃げる場所といったら、やっぱり東京だろうか。
東京か。いつか行ってみたいが、今はお金がない。
地平線に入道雲が見えた。
蝉が鳴いている。
このまま、ここでじっとしていても、お父さんや林太郎に捕まるだけだ。
網の手入れをしている村人が美緒の姿を見ていた。
逃げなきゃ。
近くで逃げられる場所と言えば……、叔父さんのところしかない。
美緒は熊本に行くことにした。
熊本には濱田松花堂という薬局を営んでいる叔父がいた。きょうの結婚式にも来ていたはずだから、夕方には熊本に帰ってくるだろう。
美緒は汗を拭きながら、歩き始めた。
熊本に行くのは久しぶりだ。
いろいろ店を見て歩きたいが、この白い着物は目立つ。
出歩くのは得策ではないだろう。
仕方がなく濱田松花堂の前で待つことにした。
濱田松花堂の長い板塀には濱田毒消し丸と大きく宣伝されていた。濱田毒消し丸とは、この辺りでは腹痛でも頭痛でも下痢でもなんにでも聞くと言われている、有名な漢方丸薬である。
昔は漢方薬しか扱っていなかったが、叔父さんの代から西洋薬も扱うようになったと聞いている。
美緒はじっと立っているのもしんどくなってきた。足が痺れてきたが、まだ叔父は帰ってこない。
「叔父さんがなかなか帰ってこないのは、私のせいだよね」
美緒はつぶやく。
暗くなった空に星が瞬き始めた。
「やっぱりいたか」
サダヲは美緒の姿をみてため息をついた。
「叔父さん! お帰りなさい」
美緒はバツが悪そうに笑った。
「このばかたれが……」
濱田松花堂の主、濱田サダヲが帰宅した。
サダヲは漢方医であった師匠の濱田に弟子入りし、濱田松花堂を継いでいた。
濱田はサダヲを漢方医ではなく、西洋薬を扱う薬剤師にすることにした。新政府は、昔から親しまれていた漢方薬をよしとしていなかったからだ。濱田松花堂を存続させるには、西洋薬を扱うことができる資格を持つ者が必要だと考え、ちょうど弟子入りしたサダヲを東京の学校にいれることにした。
薬剤師となったサダヲは、熊本初の薬剤師として、濱田松花堂を西洋薬も扱う薬局にした。
近くに大きな病院もあることから、患者が処方書をもってひっきりなしに訪れていた。また、地元の人から毒消し丸は圧倒的に支持されていたので、濱田松花堂は結構儲かっていて、忙しかった。
「だって、私、結婚したら人生が終わっちゃうって思ったんだもの」
美緒はきゅっと口を一文字に結ぶ。
「何も終わらないだろうが。北村家は裕福だし、女として愛されて、幸せになれただろうに。恵まれているのがわからないのか、このばかたれが……」
サダヲはもう一度罵って、頭を掻いた。
「ごめんなさい。だって、いやだったの」
美緒はサダヲを見上げた。大きな目に涙を浮かべている。
「林太郎がか?」
「ううん、林太郎はいいの。でも、結婚は今じゃないの」
「はああああ。何を贅沢いっとるが」
サダヲは大きくため息をつく。
「結婚したらずっとあそこにいないといけないんでしょ?」
「まあな。女子やけん、そらしゃーなかたいね」
「私、もっと外の世界が知りたいの。知識で自分を埋めて、何かできないかなって思っていて……」
美緒はきゅっと口を一文字に結ぶ。
「あああ、わかった。わかったから。とりあえずお前はここにいろ。勝手にどこかへ行かれては困る。世の中、女だとみると悪いことをする奴もいるんだ。いいか、黙ってうちをでていくなよ」
「わかったわ」
美緒は頷いた。
出て行こうにも、先立つものがないものね。
そっと肩をすくめた。
林太郎、ごめんなさい。お父さん、本当にごめんなさい。北村のおばさん、幸太、本当に本当にごめんなさい。
美緒は布団にもぐって体を丸めた。
みんなを騙すつもりも傷つけるつもりもなかった。
ただ自分を騙すことができなかった。
何度も謝罪しながら眠りに落ちていった。
結婚式から逃亡して数日。
美緒は薬局のカウンターの中でぼんやりと外を見ていた。
「調剤するから、美緒はそこに立っていろ。お客が来たら呼べよ?」
サダヲは店番を申し付けた。
松花堂の西洋風の建物は町の中でとてもよく目立つ。
サダヲが薬剤師になったときに、西洋薬を取り扱うためにそれらしく建て直したものだ。
ステンドグラスになっている天窓がシンボルだ。
牛朝村を脱出したが、胸が晴れないのはなぜだろう。
美緒は考えていた。
サダヲは一階の奥にある調合室で、漢方薬を調整している。
ゴオリゴオリ。くすりおろしとも呼ばれる薬研で漢方薬の元になる草木などを細粉にする。
舟型の底の窪みの草木を両手で車輪を前後に往復させると、乾いた、苦いような清々しい、芳香がした。
サダヲは粉末が均一の粒子になるよう根気よく押し砕いていく。
一定のリズムを聞いているうちに、美緒は思考の沼に落ちていった。
林太郎が悪いわけじゃない。
まだ自分を知識で満たしたかった。
でもどうして女はだめだといわれるのか。
女に生まれたのが悪いのか。
私より頭のいい男子はいなかったのに?
それとも私が悪いの?
何もしていないのに。
このままじゃ、自分自身を嫌いになりそうだった。
この状況を抜け出すには何をどうしたらいいのかわからなかった。
美緒は胸が苦しくなった。
「カランコロン」
ガラス戸が開いてドアベルが鳴る。
「ごめんください。毒消し丸くださいな。あら、若い番頭さんね」
「親戚なんです。叔父さん、お客さんよ」
「働くなんてえらいわ」
中年女性は美緒を頭のてっぺんからつま先までゆっくり見た。
この言葉も「女なのに」という偏見が隠されている。
美緒は辟易した。
「もうすぐ叔父さんが来ますから、少々お待ちください」
「あなた、こんなに可愛らしいのに、結婚しないの? もしかして結婚できないのかしら。おばさんが結婚相手を見つけて差し上げましょうか。わけがあるならおっしゃってね。あなたなら、何か事情があってもすぐにお相手が見つかるわ」
「いえ、私は結婚には興味がなくて」
美緒は慌てた。
「今はそうかもしれないけれど、あとで後悔するから。大人の言うことは聞いておくことですよ。若いのは一瞬なんですからね」
中年女性は眉根を寄せる。
早く叔父さん、来てくれないかな。
美緒は奥の調剤室をみた。
「ああ、いらっしゃい」
サダヲは手を洗って、カウンターに顔を出した。
美緒はほっとした。
愛想笑いを浮かべ、調剤室へ逃げ込んだ。
「毒消し丸はやっぱり効くのよね」
「嬉しいですねえ」
「西洋薬は高いし、なんだか怖いわ」
中年女性は世間話を始めた。
調剤室の片隅で美緒は膝を立てて座る。
たくさんの薬瓶が棚に雑に並んでいる。
以前いった病院に似ていた。
こんなに乱雑に置いてあっても叔父さんはわかるのだろう。
何が何に効くのか、全く分からなかった。
もし薬名を覚えたら、叔父さんの役に立つに違いない。
それに、薬を知ることは面白そうだ。
やっぱり私は結婚はしたくない。結婚しなくてよかった。
私の能力を生かした仕事があるに違いない。
美緒は自分の決断は間違ってないと確信した。
「カランコロン」
ドアベルがまた鳴った。
「いらっしゃい」
叔父さんの声がする。
叔父の言う通り、本当にこの薬屋は繁盛しているようだ。
そっとサダヲの様子を盗み見る。
「処方書です。お願いします」
西洋薬を求める客が来た。
サダヲは向かいの棚から薬を出す。
「それって西洋薬?」
調剤室に戻ってきたサダヲに尋ねた。
「こっちは西洋の薬。あっちは漢方薬だ。でも、美緒は薬剤師ではないから、処方しちゃだめだよ。お前の仕事はお店の整理整頓と掃除」
サダヲは処方書をテーブルにおいて、薬を探す。
硫酸マグネシア、希塩酸……という文字が読むことができるが、何に役に立つのか、どんなものなのか全く見当がつかない。
私って役立たずだな。
美緒の胸はチクリと痛む。
「お待たせしました。具合はよくなってきたかい?」
サダヲは急いで調剤室からいくつか薬を持ってカウンターへ戻っていった。
資格がないから、私は薬を渡せないのか。
ということは、資格があれば、私でも薬剤師になれるってことだろうか。
美緒は口を一文字にした。
客が来るたびにサダヲは往復し、調剤の棚はさらに乱雑になっていく。
ようやく客足がなくなったのを見計らい、二人は遅い昼食を食べることにした。
「叔父さん、棚の整理整頓できてないわ。人を増やしたらどう?」
ガラス戸に休憩中と札を出した。
サダヲは「ああ疲れた」と腰を下ろした。
「専門的な知識がいるから、簡単に人を雇えないんだよ。間違って薬を渡してごらん、死んでしまうよ」
サダヲは肩をすくめた。
「ちょっと整理してもいい?」
「いや、触らないでおくれ。危険なものもあるし、分からなくなってしまうから」
「このままのほうがもっとわからなくなるわ」
美緒が眉間に皺を寄せると、サダヲも考え込む。
「たしかにそうなんだが。じゃあ、ラベルのあるものだけ、触ってもいい。丁寧に落とさないようにな。貴重な薬もあるから」
「ラベルがないものがほとんどじゃない」
「あ、まあ、そうなんだが。あとで、ラベルのないものは、一緒に片付けよう。今は、荷物をもらいに出かけてくるよ」
サダヲは美緒の熱心さに苦笑した。
「カランコロン」
呼び鈴がなった。
「いらっしゃいませ」
美緒は愛想よく挨拶した。
「あの、熱さましが欲しいんですけれど」
小さい子どもを抱えた母親が息を切らして飛び込んできた。
「毒消し丸って赤ちゃんにも使えるんですか?」
「ええと、ごめんなさい。私にはわかりません。いま、薬剤師の叔父はでかけているので、ちょっとこちらでお待ちください。一刻ほどで戻りますから」
「そんな……。こんなに苦しそうなのに。今すぐなんとかしてください」
「私では、何もできないんです」
申し訳ないけれど、自分一人で薬を売ることはできないのだ。
待っていてもらうしかなかった。
若い母親はイライラしながら店の中を動いている。
「よかったら、赤ちゃんを寝かせてあげてください」
カウンターの奥にある座敷に布団を持ってきた。
早く叔父さん、帰ってきて。
助けて。
赤ちゃんの顔は真っ赤になっている。
「あの、お医者様には行かれたのですか? 熱があるなら、濡れたタオルで冷やすのはどうですか?」
美緒は恐る恐る聞く。
「病院に行ったら、この紙を持って松花堂へいけって言われて。でも、西洋薬でしょ? それなら今までの薬のほうが安心じゃないですか」
母親が眉間に深いしわを寄せた。
「赤ちゃんのためにお医者様が見立ててくださって、西洋薬の処方をされたんですから、西洋薬がいいと思いますよ。もちろん漢方薬がだめというわけじゃないですけれど」
もし私が薬剤師だったら早く楽にしてあげるのに。
勉強していたら、もっと説得力のある説明ができたはずだった。
母親がイライラしているのが分かった。
うとうとし始めた赤ちゃんが、急に泣きだした。
赤ちゃんを抱っこしてあやすが、機嫌がすごく悪い。店中に響き渡るように泣き叫び始めた。
急に痛くなったのか、それとも具合が悪くなってしまったんだろうか。
赤ちゃんがかわいそうだった。
なんとかしてあげたいけれど、何もできない、苦しい時間が過ぎていった。
「カランコロン。ただいま」
サダヲが両手に紙袋を抱えて入ってきた。
「叔父さん! 早く早く。具合の悪いお客さんがいるの」
「そりゃ悪かった。お待たせしました」
サダヲはカウンターの中に入る。
真っ赤な顔をした赤ん坊をみて、サダヲは慌てた。
「これ、処方書だって」
美緒はサダヲに渡した。
「すぐに用意する」
サダヲはあわてて瓶を探す。
あんなにごちゃごちゃしている調剤室だが、サダヲには何がどこに入っているのかわかるらしい。
さほど時間をかけずに薬を調合し、若い母親に手渡した。
「ありがとうございます」
母親はサダヲに何度も頭を下げる。
「これはどうやって飲ませるのでしょうか?」
「チンキといいます。白湯に一滴垂らして飲ませてください。薬は毒にもなるので、多くは与えないでください」
サダヲは丁寧に説明した。
若い母親は、薬をもらえて安心したらしい。険しい表情が少し和らいだ。
このままもし叔父さんが帰ってこなかったら、赤ちゃんはどうなっていただろうか。
美緒はゾッとした。
夕方の六時になると、さすがに薬局を訪れる人はなくなった。
サダヲは店を閉め、夕飯の支度を始めようとした。
「叔父さん、夕飯よりこっちが先よ」
美緒が調剤室にサダヲを呼ぶ。
「本当に片づけをする気なんだね」
サダヲは少しうんざりした。
「こういうのは逃げちゃダメなんだよ」
「やれやれ師匠より厳しいな」
サダヲはぶつぶつつぶやいた。
美緒は上皿天秤を端によけた。
「叔父さん、この薬はどんな薬? 変わった瓶ね」
美緒は黒っぽい小さな瓶を手にもつ。
「ああ、これは英国薬だね。神薬だよ。コロダインとも言うんだ。腹痛や車酔い、気付けなどに効くよ」
サダヲは説明する。
「叔父さんって外国語が読めるの? すごいわ」
「学校に行ったからね。美緒だって、勉強すればすぐに読めるようになるさ」
サダヲは瓶の蓋が閉まっているか確かめた。
一つずつ瓶の中身を確認し、ラベルを貼っていく。漢方薬も西洋薬も綺麗に仕分けして、ラベルが表に見えるように棚にしまった。
「こりゃ仕事がしやすくなるよ。一人じゃできなかったな。美緒がいて助かったよ。棚がこんなに綺麗になるとは!」
サダヲは美緒に感謝した。
「ねえ、叔父さん。これ読んでいい?」
美緒は片隅に積み上げてあった雑誌を指さした。『海軍軍医寄宿舎薬局方』と表題がある。
薬のことが書いてあるみたい。面白そう。
美緒はパラパラとめくる。
「熱心に見ているね」
「知らないことがいっぱい書かれていて、興味深いわ。叔父さんの棚にある薬の宣伝も載っているのよ。世の中にはいろいろな薬や病気があるのね」
明治になってからは、積極的に西洋医学が導入され、西洋薬の需要が急増した。明治六年には、第一大学区医学校(今の東京大学)に製薬学科が創設され、医学だけでなく、薬学教育も始まった。
「これは、なんて読むの?」
「阿片はアヘン、塩莫はモルヒネ、燐古はコデインのことだよ。瓶の中身をむやみやたらに振ったり、触ってはいけないよ? 毒薬もあるからね」
「わかっているわ。でも、薬の名前って聞き慣れない名前が多いのね」
美緒は大きく頷いた。
「外国から輸入された薬だよ。洋薬にも種類があって、南蛮医学(ポルトガル・スペイン医学)、蘭方医学(オランダ医学)、英米医学、ドイツ医学がある。漢方薬の棚には、昔から処方されてきた、カンゾウ(甘草)やダイオウ(大黄)、 ジャコウ(麝香)やイッカク(一角)などがあるよ。美緒は薬としては飲んだことがあるだろうけど、薬の原材料としては見たことがないだろう?」
サダヲはいくつか瓶の中身を見せてくれた。
「叔父さん、どうやって勉強したの? この雑誌?」
「雑誌も大事だが、基礎は薬学校だな。薬剤師になるのには試験があるんだ」
「へえ、試験かぁ」
美緒は腕を組んだ。
「薬に興味があるのかい?」
「もちろんよ」
「洋風調剤薬局も流行っているみたいだし、美緒が薬剤師になってもいいかもしれないな。いつまでも毒消し丸だけが看板商品っていうのもなあと思っていたところだ。粉歯磨だったら一袋三銭くらいなのに銀座の資生堂の練り歯磨きは鷹の絵の容器に入って二十五銭で売れるらしい。粉はあちらこちらに飛ぶが、練り歯磨きは扱いやすいからなあ」
「石鹸も売っているわよね。叔父さん、薬について一生懸命勉強しようと思うわ。いろいろ教えてくれてありがとう」
美緒の顔が輝いた。
薬の勉強をして、皆の役に立つ。
いいかもしれない。
「でも、その前にやることがある。けじめをつけてきなさい」
サダヲはじっと美緒を見つめた。
「わかっているわ。北村家と林太郎、あと父さんに謝らないとね」
「そうだな」
サダヲは頷いた。
「美緒はどんな薬剤師になりたい? 俺は漢方医学を学びたくて師匠に弟子入りしたんだが、師匠が薬学校にも行けというので、洋薬も学びに行った。師匠は、賢くて先見の明があったんだ。政府は漢方医学をあまりよく思っていない。洋医や洋薬を重んじている。だから、これから勉強するなら洋薬を勉強したほうがいい。もし漢方薬も勉強したかったら俺が教えてやる」
「でも、毒消し丸は今でも売れてるでしょう? 漢方医学が疎んじられるのはなぜなの?」
「毒消し丸が売れているのは、有名だからだ。だが、これからは難しくなるだろうな。漢方医は弟子入りで見よう見まねで独り立ちするようになっているが、洋医は西洋医学校がある。薬学校もできた。試験を受けて医者や薬剤師になる時代になったんだ。これから洋医や洋薬の薬剤師が増える。漢方医はどんどん減り続け、漢方薬は流行らなくなるかもしれない。漢方が悪いということではないんだがね」
サダヲは困った顔をした。
「じゃ、叔父さんは洋薬も漢方薬もわかる貴重な人だね」
美緒は尊敬の眼差しでみた。
「美緒は漢方薬も好きか?」
「もちろんよ。西洋薬だけでなく漢方薬も勉強したいわ」
前のめりで頷いた。




