一 林太郎との結婚
一 林太郎との結婚
海は穏やかだ。陽の光が水面に当たっている。
魚が跳ねて波間に消えた。
石田美緒は牛朝村の丘から海を眺めた。
今日も海は青いし、空はどこまでも遠くまで広がっていた。
この辺りは、鰯とわかめ、ひじき、あおさなど海藻がよく獲れる。それに、半無煙炭・無煙炭のキラ炭と呼ばれる炭が取れた。魚草炭鉱などがある自然が豊かなところだ。
天草郡の牛朝村には、二大銀主と呼ばれる、富豪の家があった。
石田家と、北村家である。
石田家は万屋である。第六代当主、石田正蔵が仕切っていた。外壁に「萬」の文字が描かれており、大きな門がある。屋敷の裏に、白く大きな蔵があった。先祖代々貿易や新田開発などで富を築いたものだ。
正蔵の妻であるやえは可愛らしい感じがする女性だった。子どもは三人で、一番上の金之助は家の商いを手伝っている。二番目の諭吉は東京のデパートの、呉服と太物を扱う店で修行していた。三番目の美緒である。三人はやえの見た目を引き継ぎ、目が大きく、整った顔立ちをしていた。
特に美緒は小柄ながら活発で愛らしかった。だが、美緒の物心がついた時から、やえは産後の肥立ちが悪く、ずっと体調を崩していた。調子がいい時は、布団から起きていたが、一進一退の状態だった。
一方、北村家の旦那は、数年前に肺の病で亡くなり、妻の敏江と長男の幸太が北村商事を営んでいた。北村家は紡績工場を大阪や東京に持ち、幸太が綿織物を外国に売ろうと考えていた。
北村家は、最近、豪奢な西洋風の建物に屋敷を建て替えたばかりだ。
互いの子どもたちは、歳が近かったので、よく遊んでいた。特に、次男の北村林太郎は昔から二つ下の美緒の面倒をよくみていた。
「俺は美緒ちゃんが好き」
林太郎は一目、美緒を見た時から好きであった。美緒の兄たちは小さい美緒の面倒をみるのを嫌がって、置いてきぼりにするが、林太郎は辛抱強く美緒の機嫌をとりながら、いつも手を引いていた。
美緒が古藤小学校に入学した時は、林太郎が朝から一緒に行くために家の前で待っていた。
古藤小学校は最初は寺子屋であったが、明治五年の学制により公立学校となった。学制とは明治政府の三大改革の一つである。
「美緒、遅かけん、もう行くばい!」
「やだ、お兄ちゃん待ってくれんね! 置いてかんで」
美緒は半分泣きそうな顔になる。兄たちに比べ、小さい美緒はどうしてもゆっくりしか動作ができない。
金之助と諭吉はさっさと支度して、走り出した。
心細くなった美緒は悲しくなった。
「美緒、俺と一緒にいこう」
林太郎が戸の陰から顔を出す。
「林太郎! 待っとってくれとったとね?」
美緒は嬉しそうに笑う。
「そら当たり前たい!」
林太郎は美緒の荷物を持ってやる。
「こぎゃんじゃ、どっちが兄ちゃんかわからんばい」
周囲の人は、林太郎と美緒を温かく見守っていた。
美緒は知らないことを知ることが好きな性質だった。自分の中の空白を知識で埋めていくと満たされたような気がした。
「今日は熱のあっけん、無理せんで休まんね」
父の正蔵が学校を休むことを許可しても、美緒は授業が気になって仕方がなかった。
布団の中にいても、美緒は勉強したくてうずうずして眠れなかった。
「今頃、なんばしよるとやろ? 算術ば勉強しよるとかいな?」
正蔵が目を離したすきに、美緒はそっと家を抜け出した。
体が熱く、節々が痛いが、ゆっくり歩くことはできる。
「どうしても学校に行きたかとよ!」
美緒は休み休み歩いていった。
「美緒ちゃん!」
「美緒ちゃん!」
使用人が屋敷中、美緒を探しても見つからない。
「おい、美緒がいっちょん見んごとなったばい。どこに行ったとか心当たりあっとかね?」
学校にいる、金之助と諭吉に校長先生が尋ねてきた。
「えっ? 美緒は何ばしよっとね!」
金之助は眉間に皺を寄せた。
「寝ときゃよかとに。サボれるけんね」
諭吉はため息をつく。
「あっ、もしかしたら、みんなに見つからんごつ裏道ば通っとるとかもしれんね。ちょっと探しに行ってもよかばい?」
林太郎は手を挙げた。
「たぶん、美緒ちゃんだったら、誰にも見つからんごつ学校に行こうて思うはずたい」
辺りを見回しながら、林の中を探す。
この道は、通学路としてほとんど使われない。美緒は見つからないためにこっちの道を使うに違いない。
しばらくすると、よろよろと歩いている美緒を見つけた。
「美緒ちゃん、帰ろうばい? みんな心配しとるとよ」
「ぜったいにいやたい。学校に行きたかと!」
不満げな顔だ。口を一文字に閉じている。胸を張って、小さい体を大きく見せようと頑張る姿はいじらしかった。
こういう時は何を言っても、美緒はやり遂げる。
不動の意思の持ち主だ。
「しゃーなかね。帰りも教室まで迎えに行くけん、おとなしか待っときなっせ。それができるなら、連れて行ってやるばい」
林太郎は呆れた。
「ううう、わかったばい」
熱っぽい瞳で唸る顔も愛らしい。
「担任の先生にも言うとって、具合が急に悪うなったら、無理やりでも連れて帰ったがよかばい」
林太郎は軽く肩を落とした。
「ほら、背中に乗らんね」
「林太郎、ありがとたい」
「ははは。さすがの美緒も熱のあるときゃ元気なかね。学校まで寝とってよかけん」
林太郎は美緒をおぶって尋常小学校に送っていった。
校長先生から美緒が見つかったと連絡があり、正蔵とやえは胸をなでおろした。
「よかった。学校に行ったと? 美緒は大した女子たい」
心配した林太郎の母、敏江も一緒に探してくれていた。
「林太郎くんには、ほんにいつも迷惑ばかけて申し訳なか。こがん子で、勝手に学校に行ってしもうたとたい。ごほごほっ」」
やえは申し訳なさそうにする。
「大丈夫ね? やえさん、はよ休まんね」
敏江は背中をさすった。
「ただいま」
林太郎と美緒の声がした。
正蔵とやえが奥から出てきた。
「林太郎くん、ほんにありがとたい。美緒がどっかで野垂れ死にしとらんかって、心配しとったとばい。ごほごほっ」
やえは頭を下げる。
「美緒は、一生懸命なとこがいっちょんの取り柄たい。おばさん、大丈夫ね?」
林太郎は心配した。
「林太郎くん……」
やえは、林太郎の優しさに感謝した。
「お母さん、元気にならんかなあ」
秋から冬に変わるころ、やえは体調を崩し、寝込むことが多くなった。
一緒に遊びたかったし、散歩もしたかった。
「ごめんねえ。おっかさんは動かれんとたい」
やえは美緒の頭をそっと撫でた。
どうしたら、母の病気を治せるのだろうか。
もっとたくさん勉強すれば、母を救う方法がわかるんじゃないか。
美緒はとにかく暇さえあれば、勉強した。家にある本を片っ端から読み、小学校の図書室の本もすべて読みつくした。成績はいつも一番だった。
しかし、やえは、美緒が小学五年生のときに自宅で血を吐いて亡くなった。
体が弱っていたところに肺の病を発症したのだ。
「よか人やったとになぁ」
「きっと極楽に行けたと思うばい」
村の人は口々に言った。
美緒は唇を噛みしめ、母に抱きついた。
「お母さんは、べつによか人やなかでもよかった喉が重苦しくて呼吸ができないと。 ただ、生きとってほしかったとたい」優しくて、温かなお母さんがどんどん冷たくなっていく。
「なんで、うちが治す方法ば見つけるまで、生きとってくれんやったと? おっかさんに合う、よか薬はなかったとや?」
村には診療所はなかった。
「熊本市に出て、大きか病院に行きゃよかったっちゃなか? 東京の病院なら、治せたかもしれんばい。なんで、この村から出らんやったと? 」
漢方薬だけじゃのうて、西洋薬も試してみりゃよかったっちゃなかろか。
そしたら、今も生きとらすかもしれんとに…。
お母さん、もっともっと勉強して、うちが治してやれたらよかったとになぁ。
美緒の中に、後悔が澱のように沈んでいった。
ある日、学校帰ると、玄関から入ってすぐにある大きな時計が動かなくなっていた。
「壊れとるつかね?」
この蓋を開ければ、理由がわかるだろう。
美緒は無理やり中を覗こうとした。
子どもの力では蓋が開かない。
ねじ回しをてこのように使って、むりやり開けようとした。
「ああ、痛い!」
手が滑って尖ったところに腕がかすった。
深く傷ついたようで、ハンカチで押さえたが血が止まらない。
「あら、お嬢さん。なんかあったつか?」
使用人が畳の上にころがったねじ回しと、腕に巻いたハンカチ、それから時計を順番に見た。
「キャー、お嬢様が」
使用人があわてて美緒を抱えた。
「血の出とるだけたい」
冷静に美緒が言う。
「美緒がどぎゃんしたつね!? なんで血だらけになっとると! 病院に行かなんばい!」
正蔵は慌てた。
正蔵は馬車に美緒を乗せた。
熊本市にある熊本衛戌病院で診察を受けた。
大きい病院に来るのは生まれて初めてだった。
美緒は面白そうに観察し始めた。
変わった形のガラス瓶がたくさん並んでいる。
普通の空気ではない、鼻の奥がツンとするような、薬の匂いがした。叔父さんの薬局とは違う匂いだ。
ピンセットとハサミが変わった形の銀のお盆の上に並んでいる。小さく丸めた綿が瓶の中に入れられていた。
「大丈夫です。後も残らないでしょう」
医者は血が出ているのに、顔色を変えずに処置をした。
先生は凄いなあ。
美緒は感心する。
「帰りに薬をもらって帰ってください」
受付の奥には薬の瓶がたくさん並んでいるのが見えた。
お医者さんっていうのは薬もいっぱい持っているんだなあ。何がどの薬か、わかるんだろうか。
お母さんも薬を飲んでいたっけ。
「おい、なんば見よっとか! ガキはあっち行っとけ!」
後からきた中年の男が美緒に眉をひそめた。酔っぱらっているのか、顔が赤い。
「きょうはどうしましたか」
受付の女性が聞く。
「ちょっと腰の痛かとよ。先生に診てもらいたかっけん」
「そうでしたか」
女性はメモを書いた。
「あんたは受付やろが。医者じゃなかとに、なんで聞くとや? 聞いたっちゃ、なんもできんやろが。あんた、女やけんたい」
男が嘲笑った。
「おじさん、なんで女やったら医者になれんと?」
なんで女やったら医者になれんと決めつける?
美緒は腹が立った。
口を一文字に閉じている。
「うるさいガキやな。女は勉強なんかできんとたい、なあ?」
受付の女性に同意を求めたが、女性は答えなかった。
「うちは勉強好いとるとよ。なんで男だけが勉強せんといかんと? うちの方が頭よかもん」
「ばかやなぁ。女は家におるもんたい。男の言うことば聞いときゃよかとたい。ガキやけん、そぎゃんこともまだわからんとや」
男は美緒の頭を撫でようとした。
嫌だ。
美緒は触られないようにさっと横に飛びのいた。
男は体勢を崩して、壁にぶつかった。
どうしてどの男も、みんな、女に学問は不要というのかわからなかった。
どこに行ったら、好きなだけ勉強ができるんだろう。
外の世界に出たい。
外に行ったら、きっと知らないことがいっぱいある。
美緒は、八年間の尋常科、高等科を修了した。
十七歳になると、正蔵が美緒を呼んだ。
「林太郎のこと、どぎゃん思っとるとや?」
正蔵は、美緒を見つめた。
「えっ? 林太郎? いきなりなんば言い出すとね?」
林太郎は今でも私のよい友人だ。熊本市や博多に行ったとき、本を買ってきてくれる。
話も合うし、一緒にいるのが自然。
好きか、嫌いかと聞かれたら、好きに決まっている。
「だから、一緒になるっちゅうことたい。林太郎は、ずーっと美緒のことば好いとるやろ? 好かれて結婚するなら、そりゃよかことたい。林太郎なら、美緒のことば分かってくれるはずたい」
正蔵は優しく微笑んだ。
「……」
美緒は何と答えたらいいのか考えている。
美緒の向学心は旺盛で、男性よりも頭が回る。そんな美緒を受け入れてくれる男性は、林太郎以外この村にはいなかった。
それはわかっていた。
いつか結婚するかと思っていたが、まさか十七歳で結婚するとは思っていなかった。たしかに、小学校の同級生は結婚し始めている。早い子はすでに赤ん坊もいた。
そういう歳なんだ。
困ったなあ。なんて言えばいいのか。
正蔵は美緒の反応を心配そうに伺っていた。
たしかに結婚するなら、林太郎しかいない。
でも、もっとここではないところに行ってみたかった。
思う存分、勉強がしたかった。
お母さんがいたらなあ。相談できたのに。
「よう考えとかんばい!」
正蔵は美緒の肩に手を置いた。
息苦しさを覚え、美緒は海が一望できる、小高い丘に来た。
お母さんの病気を治してあげられるくらい、知識を身につけたかった。もっと勉強がしたかった。
牛朝村から私は出られないのだろうか。
海の向こうにも国があるという。
どうして私はこの村の外に行けないんだろう。
頭上で鳶が鳴いた。
翼に風を受け、気持ちよさそうに堂々と飛んでいる。
自由になりたい。息ができなくなりそうだ。
女は黙って家にいろ。勉強しても無駄だ。
早く結婚して、子どもを産め。
牛朝村にいろ。
この土地を支え、礎になれという重圧が嫌だった。
この土地は、無言で私を縛ろうとする。
それが幸せだっていうけれど本当なんだろうか?
どうして他の皆は、笑って過ごせるのか?
もっと知らないことがいっぱいあるのに。
目をつぶってここで我慢するの? 私は諦めないといけないの?
どこかに私がいてもいい場所があるのかな。
美緒は海と空の境界線を見つめた。
たぶん、牛朝村じゃない。熊本でも、九州でもだめだ。
この重圧から逃げられない。
もっと遠くがいい。
やっぱり東京だろうか。
お金は? どうしたらいいんだろう。
正蔵に言えば、なんでも買ってもらえたから、自分の小遣いはほとんどない。
お金が欲しいと言ったら、どうしてと聞かれるだろう。ここから逃げる計画を早くからすべきだった。
美緒は後悔した。
「話は進めとくけんね」
正蔵が口角を上げた。
口答えは許さないという顔だった。
とうとう結婚がきまってしまったのだ。
別に林太郎が嫌いではない。この村の中では一番好きだ。
勉強したいと言えばさせてくれるだろう。本も買ってもらえる。でも、もっと縛られずに生きていると実感したかった。
あっという間に結婚式当日になった。
「美緒に逃げ回らるっと、めんどくさかけんな」
正蔵は手早く林太郎と縁談をまとめた。
林太郎の母、敏江も美緒のことを可愛がっていたので、問題がなかった。
美緒は途方に暮れた。
結婚式だというのに、覚悟が決まらなかった。
これから先、自分がどうなってしまうのか。
どうしたら、幸せになるのか全く分からなかった。林太郎と一緒にいるのはきっと楽しいだろう。
でも、知識への渇望が満たされるとは思えなかった。
かといって、結婚を取りやめることが正しいのか。林太郎のことは好きだが、林太郎を傷つけることになる。
私のたった一人の理解者なのに。裏切るようで申し訳なかった。
それに逃げるにしても、お金もない。
ここから逃げ出す算段もなかった。
「お嬢さん、花嫁衣裳に着替えんばたい」
使用人が美緒に化粧をし、白い着物を着せた。
美しい白い着物には鶴や亀など金糸や銀糸で刺繍されている。
豪華で重い。
この着物を着て、ここに沈められるのだ。
美緒は溺れそうだった。
喉が重苦しくて呼吸ができない。
「準備はできとっとかい?」
林太郎が見に来た。
「新郎さんは、おとなしか待っときなっせ。 美緒ちゃん、きれかね~。 ほんに林太郎の嫁になってくるっとね?」
敏江は美緒の美しさに息をのむ。
「母さんだけ見れて、ずるか~。俺も美緒ちゃんば見たか~!」
「もうすぐ結婚式で見らるっけん、よかやろ?」
敏江に林太郎は締め出された。
「どぎゃんもんでも、着るもんひとつで変わるもんたい」
金之助と諭吉がにやにや笑った。
「……」
軽口を叩かれても、美緒はまったく反応しなかった。
「美緒? 聞いとっと?」
金之助が美緒の肩をゆする。
美緒ははっと我に返った。
「美緒、大丈夫か」
正蔵は美緒に問う。
「美緒、まさかとんでもなかことば考えとるっちゃなかろうね……」」
「もしかすると、美緒は……」
金之助と諭吉が嫌そうな顔をした。
「そぎゃんこつ、もう言わんでよかばい!」
正蔵はギロリと金之助と諭吉をみた。
「諭吉くんは、東京のデパートで偉くなったんでしょ?」
苦笑いをしながら、敏江はわざわざ標準語で話しかけた。
「はい、実は番頭になったんです」
諭吉は美緒が結婚するために、里帰りしていた。
「よかったわねえ。デパートで綿織物って売れている?」
「女学生などに銘仙の着物が売れていますよ。おばさんのところの綿織物は、外国にも輸出しているんですか?」
諭吉が一生懸命標準語で尋ねる。
「今は少しなんだけどね。これからどんどん輸出する予定よ」
「商売繁盛ですね。うちは油のほうをどうするか考えていまして」
金之助も熊本弁を使わないように敏江と話しはじめた。
「ランプの次は電気っていうものね。油の需要はなくならないとは思うけれど、たぶん、減るわよね」
敏江はよく東京に行っているので、標準語が上手い。
「そうなんですよ。魚油も鬢付け油も減ってますからね。今は石油が増えていますが、しばらくしたら電気に変わると思うので、うまくこの波を乗り越えられるか」
金之助が敏江に愚痴った。
「西洋化で一気に変わったわよね」
敏江は頷く。
「よ、元気か? 金之助も諭吉も久しぶりだな」
林太郎の兄の幸太が現れた。
「幸太君は、たいぎゃ立派になったばい! 北村ん家も、これでひと安心たい!」
正蔵は目を細めた。
やっぱり今しかない。
誰にも察せられるわけにはいかなかった。
美緒は無の表情で静々と歩いていく。
奥座敷はすべて開けられていて、膳が用意されていた。
滅多に出さない、上等な座布団の上に美緒は座らされる。
熊本県にある漁村では、類をみないような、大きな結婚式が執り行われようとしていた。
林太郎は嬉しそうだが、花嫁の美緒は浮かない顔をしている。
「美緒ちゃん、いつもきれかばってん、今日はほんにきれかね〜」
本日の主役の一人である林太郎はうっとりとして、美緒をみた。
幼馴染で、二つ年下の、十八歳の花嫁である石田美緒は紅をさしていて、白無垢がよく似合っていた。
「林太郎には悪いんだけれど、でも……、今しかない」
美緒は浮かない表情でつぶやく。
結婚を喜んでいる顔には見えなかった。
林太郎は胸の中が真っ黒に塗りつぶされたような気持ちになった。
席に着いたが、美緒はぼんやりと俯いて黙っている。
「美緒ちゃん、どうしたの? 大丈夫かしら」
敏江が声をかける。
「美緒ちゃんの花嫁姿、綺麗ね」
両家の親戚がほめたたえた。
肝心な美緒は笑みも浮かべていなかった。
「あれでもいっちょん女たいけんね。林太郎くんと結婚できるけん、ちぃーっと緊張しとるとたい」
正藏が頭を掻く。
「美緒ちゃん? 具合が悪いの?」
敏江は顔を覗き込む。
大きな綿帽子が落ちそうになっている。
「式がはじまるばい? 美緒、しゃんとせなんばい! もう逃げられんばい!」
二十歳の美緒の兄、金之助が美緒の肩に手を置いた。
「金兄さん、いらんこつ言わんばい! 美緒は頭の重たかとが、むしゃんよかとじゃなかとや?」
諭吉は苦笑いした。
金之助と諭吉の言葉は熊本弁に代わった。
椅子に座っていた美緒はすくっと立ち上がって、隣に座っている林太郎を見た。
敏江と正蔵は眉根を寄せた。
林太郎は覚悟した。
何かやらかす前には、美緒は必ず口を一文字に閉じる。
あの表情だ。
「ごめん。林太郎。私、結婚できない」
美緒は綿帽子と白い打掛を床に置いた。
それから、結婚式のために集まっていた座敷にいる親戚たちを真っ直ぐにみる。
「私、結婚しません! 結婚できません。林太郎はまったく悪くないの。お父さん、ごめんなさい。敏江さん、幸太さん、本当にごめんなさい。今結婚したら、何かが変わってしまう気がするの」
美緒が頭を下げた。
「えええええ、美緒ちゃん、それってどぎゃんことね? どこに行くつもりね?」
林太郎は顔を青くした。
自分勝手を言って、本当に申し訳ない。
林太郎の気持ちを踏みにじってごめんなさい。
結婚するなら林太郎がいいんだけど、でも私はまだここで終わりたくない。結婚したら、この村にずっといなくてはいけない。
子どもを産んで、育てて、家庭を守る。それが幸せで、それが女の生き方だっていうけれど、私はそれを望まない。
そういう生き方が馴染む人もいる。そういう生き方が悪いと言っているわけじゃない。
今の世の中はそれが普通なんだから、たぶん私がはみ出ているのだ。
わかっている。
女のくせに生意気で、女のくせに勉強が好きなのだ。
いつか結婚したいと思う日が来たら、その時は林太郎がいい。
でも、それは今じゃない。
この村で生きたまま死にたくなかった。
もっといろんなことが知りたい。
「私は外の世界が見たい。勉強がしたいの。ごめんなさい」
座敷がざわついた。
美緒は着物をつまんで駆け抜ける。
海から大風が吹いた。
来客は「うわぁ、砂が」といいながら、着物で目を拭いたり、髪を整えたりしていた。
「ああ、この子はここで終わる子じゃなかったのね。大した女子だわ」
敏江は小さく笑った。
「やっぱりなあ。大人しく、林太郎の嫁になると思ってなかったわ。さすが美緒。跳ねっかえりだ」
林太郎の兄の幸太も笑った。
「そぎゃん……。せっかく結婚してくれるっち思っとったとに。美緒ちゃん……。」
林太郎は愕然とする。
美緒は後ろを振り向かない。
「やっぱり大した女子たい。跳ねていったばい」
「美緒だからな」
金之助と諭吉が呆れた。
「女ん子ば高等科に行かすけんたい。小学校なんか行かせんでよかったとに。頭がよかけんって、正蔵さんも美緒に甘かもんな」
親戚たちもあきらめ顔だ。
「すいません、すいません。ちょっと、美緒! 待たんかい!」
美緒の父である石田正蔵は頭を下げる。
「お父さん、ごめんなさい!」
美緒は裾をたくし上げた。
海風を受けながら美緒は迷いもなく走っていく。
「あれ、石田さんちの美緒ちゃんじゃなかと?」
「結婚式はどぎゃんなったとや?」
「あれは……逃げたっつことね?」
村人が噂する。
「美緒ちゃん……、そらあんまりたい……」
林太郎は床に座り込んだ。




