十 美緒の後継者
十 美緒の後継者
一週間も牛朝村にいると、独逸からの航海の疲れもだいぶ取れ、何もしないでいることが居心地が悪い。
美緒は村のあちらこちらを散歩して回り、サダヲの薬局を覗いたりしていた。
サダヲの薬局はすでに人に任せていて、サダヲは経営者としてのんびり構えているらしい。
美緒の出番はまったくなさそうだった。
調剤室はしっかりと整えられ、清潔に保たれていた。
西洋薬が多く並んでいる。
美緒に気が付いた薬剤師がぺこりと頭を下げた。
処方書をもってくる客も多くいた。
薬が出来上がるのを待合室で待っている。
洋薬が受け入れられているのを感じた。
薬局にいても邪魔になるので、美緒は付き合いのあった病院がどうなったか、見に行くことにした。
「ここも電灯がつくようになったのね」
自分がここで薬学を勉強していた時は、ここまで電気は普及していなかった。
美緒は街の様変わりを感じ取った。
熊本電灯は、安田財閥と第九銀行が経営しているというが、日露戦争の影響で不況だという。
でも、これからは電気の時代になるだろう。
独逸のマールブルク大学でも電気が普及していたし、独逸の一般家庭でも徐々に電気が通っているところだった。
横浜でも電気は普及していた。
そのうち熊本でも夜も煌々とした明かりが灯るようになる。
「あら、ここは……」
県立熊本病院と書いてある。
見上げると、立派な建物の病院であった。患者が家族に付き添われ、ゆっくりと入っていく。人の波は途切れることはなく、訪れていた。
ああ、ここも変わったのだ。
西洋医学が生活に根付いていた。
漢方薬にも西洋医学にも良いところがある。でも、これからしばらくは西洋医学の時代になるのだろう。
美緒は熊本も変わったのだと実感した。
探索も終わり、家に帰ると見知らぬ男性が待っていた。
「美緒、客人が来とるぞ? よか話なら、がまだしなっせ!」
「しっかり稼がなんばい」
金之助と諭吉に励まされ、座敷にいく。
「石田美緒先生、私立熊本医学専門学校の生徒たちに病理や細胞学を教えてくれませんか?」
男性が頭を下げた。私立熊本医学専門学校の校長先生だという。
「え? ちょっと、頭を上げてください」
美緒は焦る。
仕事の話のようだ。
石田先生と言われ、びっくりした。
「独逸留学からお帰りになったと聞きました。医学博士も御取りになったとか。学生たちにもさぞ刺激になるでしょう」
「はあ」
美緒は困惑する。
「美緒、困っている人のために医者になったんだろう?」
「学校の先生なんて、立派じゃないか。やればいい」
いつの間にか金之助と諭吉がそばにいて、喜んでいる。
「明日からぜひ。よろしくお願いします」
男性は学校の校長らしい。嬉しそうな顔で帰っていった。
「もう、兄さんたちは勝手に返事をして……」
美緒は呆れる。
「ここでだらだらしとっても、もったいなかばい。あんたは元気にしとるけん」
「たいぎゃ丈夫な体に生まれて、よかばい!」
兄二人は根っからの商売人だ。
「はいはい。働きますよ」
美緒は苦笑いした。
「あの……」
庭先に子どもがいた。
叔父さんの手伝いをしていた、紬という子だ。
「ああ、この子は、跳ねっ娘ばい。あんたによう似とるたい!」
金之助が笑った。
「そうだ、美緒、紬の世話ばしてやらんたい!」
諭吉が笑いながら手招きする。
「えええ!」
美緒は展開に驚いた。
「美緒先生、身の回りのお世話でも何でもします。その代わりおそばで勉強させてください。紬と申します。よろしくお願いします。」
女の子は頭を下げた。
美緒は自分のやってきたことが跳ね返ってきているようにも感じた。紬は、昔の自分と同じように勉強することが好きで、もっと広い世界で学びたいらしい。
懐かしいと思った。
「明日から熊本に行くけど準備できる?」
「はい! 用意してきます」
紬は駆けだした。
これから家の人と話し合ったり、準備したり忙しいだろう。
美緒は肩をすくめた。
「もうあの子の親は、美緒と一緒に行くつもりで腹ばくくっとらすけん、大丈夫たい!」
金之助が美緒の肩に手を置いた。
叔父さんといい、兄さんたちといい、紬の面倒をみさせるつもりで話が勝手に進んでいたのか。
「ごほごほっ」
美緒はお茶が器官に入りそうになった。
次の日。美緒は紬といっしょに熊本市へ向かった。途中、丘の上に寄って海を眺める。結婚を辞めたあの日も空と海は青く、遠くまで広がっていた。
紬も神妙な顔をして海を眺めている。
この子もいつか東京や外国へ行って勉強したいっていうのだろうか。
そのころはどんな世の中になっているのだろう。
新聞でよく戦争の記事を見るようになっていた。
紬がたくさん勉強できますように。今度は私が援助してあげないと。
美緒は今まで受けた厚意を少しずつ返していく時期がきたと感じていた。
「さ、先生、そろそろ行きましょう」
紬は嬉しそうに美緒をみた。
美緒はその後、熊本医学校で教えながら、熊本県立病院で診療を手伝うことになった。
明治四十五年(一九一二年)十七歳になった紬は、東京女子医学専門学校の門戸を叩いた。美緒は、紬を全面的に支援し、紬は医者になることができた。
紬はもう少し研究したいと伝染病研究所の助手になった。
「美緒ちゃん、元気そうね!」
弥生が突然熊本にやってきた。
「年を取ったけどね」
美緒が言うと、弥生は笑った。
「ねえ、満州へ行かない?」
突然弥生から誘われて、びっくりした。
「陸軍の知り合いがね、ぜひ満州の病院に行って手伝ってほしいって言われているの。でも、私一人で行っても、できることって限られるでしょ。だから、美緒ちゃんがいたら、百人力かなって思って」
「満州で何をするの?」
美緒が聞いた。
「衛生管理や治療を頼まれたの。美緒ちゃんは日本に帰ってきて、熊本の病院で働いているって聞いて飛んできたのよ」
弥生らしい唐突な申し出だ。
「英語もできて、独逸語もできる。しかも女性医師。満州にも女性はいるわ。世界を広げるのが好きな美緒さんにぴったりの職場かもしれないわよ。みんなへ恩返しはもう済んだでしょ?」
「紬のことも、萬屋のことも調べたのね?」
美緒は苦笑いをする。
「まあね。誘って断られたらいやだもの」
弥生は肩を縮めた。
さすが弥生である。
「満州、行ったことがないわ」
「私も行ったことがないわ。美緒さんが一緒に行ってくれるなんて心強いわ」
弥生は美緒の肩を叩く。
「まだ、行くって言っていないわよ」
美緒が怒って見せた。
「行くでしょ? 面白そうだもの」
「もう、弥生さんったら。行くわよ。満州に行ってみましょう。私たちの手伝いを必要としているなら、働くしかないわ」
この青い空はずっと遠くまで続いている。
満州か。どんなところだろう。
美緒は再び海を渡る決意をした。
了




