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九 留学

九 留学

 伝染病研究所で助手をし、夜は私立の女子医学校の講師をしながら、美緒は最新の医学を学ぼうとドイツ語を習得した。

「美緒ちゃん、少し手伝ってくれない?」

 弥生に頼まれて、時折病院でも診察を始めた。一度、郷里に帰った弥生であったが、多くの症例を診てからでないと、病院を開くのが怖いと親を説得して、済生学舎とゆかりのある病院で現在は働いていた。

弥生が病院にいるとわかり、今では女性が大勢診てもらいにやってくるという。

「胸や子宮を男性医師に診てもらうのに躊躇いがある人が多かったの」

 弥生がカルテを整理していた。

「わかるわ」

「そうよね。でも、私一人じゃ手に余って……」

「できるだけ多くの女性患者を診てあげたいわよね。お手伝いするわ」

 美緒は微笑んだ。

女医に診てもらいたいとわざわざ遠くから弥生のいる病院にやってくるという。

弥生が学会などで偶に休むと苦情が来るというので、病院も困っていた。

私も医者だけれど、男性医師に自分の胸や子宮を診てもらうというのは、やはり躊躇う。もちろん医者だから、診てもらうとわかってはいるのだけれど。

女性の患者の多くは、病気を治すために仕方がないと言い聞かせて、恥ずかしい気持ちと情けない気持ちと、どうしようもない悔しさを感じながら、受診しているに違いない。

女医に診てほしい。

そういう気持ちを尊重してあげたかった。

それにもっと多くの症例をみて、病気を的確に診断できるようになりたいとも美緒は考えていた。

だから、医学校で講師し症例を見聞きしたり、いろいろな病院で診察を手伝うことにした。

 ある日、女性が弥生のいる病院にやってきた。偶然にも、弥生も美緒も一緒に働いている時だった。

「きょうはどうしましたか?」

「胸にしこりがあるのが気になって……。特に痛いわけじゃないんですけど」

首を触るとリンパ腺が腫れている。

もしかして……。

美緒は眉間に皺が寄った。

「胸を触らせてくださいね」

 美緒が触ると、岩のようなものがあった。

 やはりこれは……。

「もう一人の女医さんがいるので、念のため診てもらいましょう」

 弥生も首と胸を触った。

二人の見立ては乳癌だった。ただ、この病院では乳癌の手術はやっていないし、美緒と弥生は乳がんの手術の経験はなかった。

弥生と美緒は、東京帝国大学の近藤教授に手術を依頼した。

「衛生管理と助手を頼めるかい?」

 近藤は快諾した。

乳がんの手術を見たことがない弥生と美緒は、近藤に手術をみさせてもらうことにした。

 美緒は、手術の前に乳癌の勉強をしたかった。しかし、日本語で書かれている本に詳細なやり方は書かれていなかった。

どうしたらいいのだろう。

 もしかすると、最新の手術方法だから洋書になら書いてあるだろう。

 なんとか美緒は英語で書かれた医学書を入手した。

美緒と弥生は、一緒に翻訳しながらフォン・フォルクマン手術の知識を頭に入れた。

 癌とその周辺を取り除く手術だとはわかっていたが、近藤教授はどのように手術するのだろうか。

 不慣れで勉強不足な自分が足を引っ張ることだけは避けたかった。

 手術当日になった。

 美緒は手術の器具を丁寧に消毒し、器具の確認をする。

 手術室は緊張に包まれていた。

「これからハルステッド手術を行う。これは乳癌を根治する手術になる」

 近藤は説明を始めた。

「ハルステッド手術……ですか? フォン・フォルクマン手術ではないのですか?」

 美緒が尋ねる。

「フォン・フォルクマン手術は乳房の切除する手術だ。腋窩リンパ節の切除は必要に応じててとなり、大胸筋・小胸筋は温存されることが多い。ハルステッド手術は、がんの再発を防ぐため大胸筋、小胸筋、腋窩リンパ節をすべて切除する。根治を目指すなら、ハルステッド手術のほうがよい」

 近藤は丁寧に説明した。

この目ですべてを焼き付け、完璧に記憶しようと決めた。

 迷いなくメスで皮膚を切る。

 患部を見つけ、素早く丁寧に取り除いた。

 手際よく近藤は手術をしたが、それでも四時間を超えていた。

「お疲れ様。俺も診察するつもりだが、君たち二人にこのまま術後管理も頼んでよいだろうか?」

「はい」

 美緒と弥生は二つ返事で答えた。

「近藤教授の手の動き、みた? 素晴らしかったわ」

「すごかったね。さっきの手術はハルステッド手術っていうのね。最先端の医学を勉強するのって本当に大事なのね。ノートに書いておかないと」

 美緒は興奮していた。

 治療方法も進歩しているのだ。

患者さんを一番効果のある方法で治療してあげたい。

 それには、やはり海を越えて勉強するしかないのだろう。 

 もっと研究して、実績を作るしかない。

 美緒は寝る間も惜しんで努力し、明治三十五年(一九〇二年)帝国独逸学会特別会員になることができた。

 これでようやく独逸に留学できる条件を満たした。

 美緒は胸をなでおろした。

「石田さんは独逸に留学を希望していると聞くが、資金のあてはあるのかい?」

 上司に聞かれ、留学費用がないことに気が付いた。

 当時の独逸では女子を受け入れる大学は少なかった。だから、どうしてもマールブルク大学に入るしかなかった。

 勉強したいのに、お金で躓いてしまった。

 すでに熊本薬学校や、済生学舎の学費も出してもらっている。これ以上、父に金の無心をするのは気が引けた。

 だが、自分の稼いだお金は、日々の生活でほとんど消え、貯蓄はほとんどない。

 どうしようもなくなった美緒は、仕方なく父に手紙を書いた。

『拝啓 御尊家に於かれましてはますます御健勝の御事と存じ奉り候。 常日頃より過分の御高配、深謝の念に堪え奉り候。

さて、我身、久しく学究に励み奉り候ところ、最先端を究めるには如何ともし難く、是非とも独逸にて更なる医学修学の機会を得たく 其の爲、留學費用として銀千圓餘りを御工面賜り度く存じ奉り候。心よりお願い申し上げる次第に候

渡航の用意に要する往復船舩賃、大学に於て宿泊費並授業料等を勘案し概算仕り候処、上記の金額を要する旨見込み奉り候

何卒出来得る限リにてお心添へ賜りたく、金銭を御送附賜り度くお願い申し上げ奉り候』

 出来る限りと書いたが、千圓はないと心細い。

千圓という私費留学費用は大変な金額である。

無理かもしれない。

 美緒は落胆のため息をついた。だが、諦めきれなかった。

 どこかで借りることはできないだろうか。

でも、誰に? 

貸してくれそうな人物は思い当たらなかった。

 鬱々とした気持ちで、毎日下宿先の部屋と研究所を往復していると、ある日、下宿先に金之助兄さんと諭吉兄さんが現れた。

「やあ、美緒」

「元気だったかい?」

 兄たちの顔はこわばっていた。

 留学の、金の話に来たのだろう。

 美緒は怒られるのを覚悟した。

「美緒は医者になったのだから、熊本に帰ってくればいいのに」

 金之助が渋い顔をする。

「私はもっと勉強して多くの人を助けたいの。今の私では、救える人が少ないわ」

「他の医者はそれでも日本にいるよ。どうして美緒が留学しないといけないの? 美緒じゃなくてもいいんじゃない?」

 諭吉が説得する。

「ダメよ。医学は毎日進歩しているの。私はいつかお母さんのような人を救うの。それに男性の医者にはかかりたくないっていう女性も多いの。私はみんなのためにも勉強しなくてはいけないの」

 美緒の熱量に金之助と諭吉は呆れた。

「絶対に美緒は折れないだろうって父さんが言っていたよ。勉強することが好きだからな」

 金之助は苦笑する。

「やっぱり父さんの言う通りだったな」

 諭吉は笑った。

「いいか、大事に使うんだぞ? これはな、みんながお金を出し合ったんだ。わかっているよな? 無駄にするなよ」

 金之助が封筒に入れた金を美緒に渡した。

「わかっているわよ。大金だもの。本当にありがとう。絶対独逸の最新医学を学んで帰ってくるわ」

 美緒は破顔した。

 これで独逸に行ける! 海を渡って世界の最先端の医学を勉強できる!

 目の前が開けた気がした。

「それから、美緒。わかっていると思うが、これが最後の援助だ」

 金之助の声が低くなる。

「萬屋もさ、うまくいっていないんだよ」

 諭吉がぽろりとこぼした。

「諭吉!」

 金之助が慌てた。

「兄さん、ちゃんと言っておかないと、またあてにされても困るから」

「美緒、とにかくもう金はないから」

 金之助は申し訳なさそうに、でもきっぱりと言った。

「わかったわ。本当にありがとう」

 美緒は深々と頭を下げた。

 マールブルク大学から入学の許可が下り、美緒は、明治三十五年(一九〇三年)恩師である北里柴三郎からの紹介状を手に、一月に横浜港からたった1人でドイツに旅立った。

お父さん、金之助兄さん、諭吉兄さん。お金を工面してくれて本当にありがとう。

頑張って学んできます。

船は時折大きく揺れた。

甲板に出ると、時折波しぶきが飛んでくる。

こんなのは穏やかな方である。

海が荒れると、船は大きく揺れた。あの時は何もできずに船室にいたが、気分が悪くなって眩暈がした。

無事生きていてよかった。嵐を抜けたときに思った。

私の人生もそういうものなのだろう。

いつも晴天ではなかった。

家族に恵まれ、友人に恵まれていたが、女であることを理由に、幾度となく制されてきた。

怖い思いもした。

でも弱者だからわかることもあった。

独逸はどんなところなのだろう。

日本よりも女は家にいるべしという思想が強いのだろうか。女子に大学の門戸を開いているところは少なかった。

それでも、私は学びたい。

独逸が男性優位だろうが、そんなのは関係ない。ただ、最先端の勉強をさせてもらうだけだ。学べる限り、学び尽くす。

私は私だ。

期待と不安が入り混じる中、何を言われても折れないようにしようと思った。

私は結婚もせず、外の世界で勉強したかった。

薬剤師になり、医者になった。

今、さらに学ぶために海を越えている。

じっと大海原を見つめていたが、まだまだ陸地は見えてこなかった。

黒っぽい蒸気を空に吹きあげつつ、船はドイツを目指していた。


ようやく独逸の港に着いた。税官の吏人らしき人達が一つ一つ荷物を開けて調べている。なかなか順番にならないため、港は大混雑していた。

石畳の道、馬車の多さ、日本人とは違う服を着た人たち。

日本とは違う空気や匂いがした。

独逸語以外にも、日本語ではない言語が聞こえた。

色々な人が独逸に来ているんだ。

見るもの、聞くこと全てが日本と違う。

知らない情報が溢れ、自分自身が頼りなく不安になる。

重い荷物を抱え、美緒はなんとか宿に身を寄せることができた。

ひとまず部屋に入り、安全を確保すると、ベッドに突っ伏していつの間にか寝ていた。

 早い時間から寝たおかげで、翌朝、スッキリ目覚めた。

 早速マールブルク大学に入学の手続きをした。

美緒は病理学を勉強したかったのだが、マールブルク大学の教授に、全科を受講しないといけないと言われたのだ。

病理学の、最先端の授業が受けたかったと話すが、教授は首を振り、理解してもらえなかった。

 日本の、医学校と教えていることが違うかもしれない。

 病理学に関する基礎も違う可能性がある。

 美緒は教授に言われたとおり、全ての科を受講して、必死になって勉強した。睡眠時間を三時間に削り、予習と復習に充てた。

「ベルリン大学のウィル研究室に夏の間の短期間だが手伝いに行かないか」

 大学の友人に誘われた。

「ベルリン大学! 行ってみたいわ」

 美緒は快諾した。

 マールブルク大学も夏休みに入った。

美緒はベルリン大学を訪れた。

「こんにちは」

 美緒が研究室の扉をたたく。

「おお、君は臨時の助手かい? はいっていいぞ」

ウィルの声がした。

先生は中肉中背で、独逸人としては小柄な方だった。穏やかな顔つきで、優しい目をしていた。

研究室の机には、本が何冊も重ねられていた。テーブルには頭蓋骨や骨片がところ狭しと置いてあった。

「君は留学生かな?」

「はい、日本から来ました。いまはマールブルク大学の学生です」

「たくさん学びなさい。得た知識は、人のために役立てなさい」

 ウィルは美緒を歓迎した。

 当時ベルリン大学では女子生徒を受け入れていなかった。

「私は母を病気で亡くしました。親しい友人の兄も肺の病で亡くしました。医者が居なくて亡くなった人もいます。私は、病理の研究が大事だと思っています」

「Omnis cellula e cellula(すべての細胞は細胞から生じる)」

 ウィルは笑みを浮かべた。

「細胞病理説ですね」

「病気の原因を細胞レベルで解明しようとする説だ」

 ウィルは熱心に勉強する美緒に好感を抱き、可愛がってくれた。

 美緒は短い間だが、ウィルのもとで、細胞病理学を師事する機会を得た。


 独逸の留学はとにかく金がかかった。

コーヒーを毎朝飲むと、昼食は八十ペニヒか一マルク、夕食は一マルク。美緒はビールは嗜むことはなかったが、時折日本食が恋しくなり、ホテルの日本食を食べに行った。 

朝食付きの宿代は大体二十二マルクで、新聞代やランプの油代などもかかる。そのため一ヶ月大体一〇九マルク、五十二銭くらいかかった。これは当時の日本でいうなら、家族で数か月暮らせるレベルの金額である。

 無理にお金を工面してもらったんだから、学べるものは学ばないと。

 夏季休暇がおわり、マールブルク大学で再び美緒は学び始めた。

マールブルク大学では朝の七時から夜の七時まで、ほぼ休みなしに講義が続けられていた。

 宿に戻ると、手紙二通を渡された。

 父の正蔵と、兄の金之助からだった。

 なぜ二通なのか。

 美緒は首をかしげながら、正蔵の手紙を開けた。

「美緒へ

遠く異国の地にて学問に励むそなた、日々健やかに過ごされしや。 父は胸の病を患い、命の灯、いよいよ細りゆくを覚え、筆を執りたり。

そなたが独逸にて医学を修めること叶いしは、父の力にあらず。 その資金の多くは、林太郎が用立てしものなり。 林太郎は幼き頃より、そなたを深く思い、医の道を志せしも、 家業を継ぐべく、志を断ち、そなたを遠くより見守りし者なり。

されど、兄早く世を去り、家を継ぐ者なく、林太郎は他家の令嬢と縁を結ぶこととなりぬ。 その折の条件として、そなたの留学を援助することを望みたり。 父、力及ばず、林太郎の厚意によりて、そなたは今、学びの地に立つ。

林太郎は今、良き妻と子に恵まれ、穏やかなる日々を送る。 そのこと、心安く思うべし。

美緒よ、学問の道は険しく、時に孤独と犠牲を伴う。 されど、そなたには夢あり。 その夢、誰かの想いと犠牲の上に咲きしものなれど、 咲きし花は、必ずや人々の命を救う力となるべし。

父は、遠くより、そなたの志の成就を祈る。 願わくは、心乱されることなく、真理の道を歩み続けよ。

父より」

 文字が震え、乱れて読みづらい箇所もあった。

 正蔵はつらい体で、真実を伝えようと手紙を書いたのがわかった。

 美緒は心が震えた。

 お父さんがもうすぐ死んでしまう。

それにこの独逸の留学費用は、林太郎が出してくれたという。

衝撃的で、頭が混乱していた。

お父さんが、亡くなる前に手紙をくれたのか。林太郎の近況を報告してきたのは、林太郎の幸せを守るためだろう。

散々振り回してしまった林太郎がようやく心安らぐ家族を持ったのだ。

 林太郎、ありがとう。結婚、おめでとう。幸せになってね。

林太郎みたいに私を見守ってくれる男性は、この世にいない。本当に感謝している。

 大好きだった。

でも、自分の夢をあきらめきれなかった。

 もし、留学前に林太郎に結婚を申し込まれたとしても、やはり留学を選んだに違いない。林太郎は私のそばにいてくれる、大事な存在だったけれど、どうしても結ばれない運命だったのかもしれない。

 美緒は二通目の金之助の手紙を開けた。

「父、すでに永眠いたし候。

諭吉、東京より帰郷し、萬屋を助けてくれておるゆえ、家のことは憂うことはなし。

美緒よ、遠き独逸の地にて、医道を極めんとする志、父もまた深く誇りに思いて候。 願わくは、心乱すことなく、学問の道を貫き通されよ。 そは、父の遺志にして、家の願いなり。遠き空の下より、そなたの前途を祈る」

美緒は胸がつぶれそうになった。呼吸ができなくなりそうだった。

お父さんが、お父さんが死んでしまった。

涙がとめどなく溢れた。

いつも私の我が儘を最後には許してくれた。熊本薬学校にも、済生学舎にも通わせてくれた。独逸留学にも行かせてくれた。

親孝行できなかった。

間に合わなかった。

「お父さん……、ごめんね」

美緒は慟哭した。

明治三十八年(一九〇五年)日露戦争が勃発した。『フランクフルター・ツァイトゥング』紙では、日本の戦術的勝利に驚きと称賛の記事が掲載されていた。

日本人女性で初めてドクトル・メディツィーネになった宇良田唯と同様に、美緒はドイツ語で七日間にわたるすべての試問に合格し、同年二月マールブルク大学で医学博士学位「ドクトル・メディツィーネ」授与された。

 お父さん、林太郎、医学博士になれたよ。

 美緒は日本に帰ることにした。

 

 横浜まで船で戻り、このまま東京で働くことも考えたが、やはり一度は父と母が眠る、熊本へ墓参りに行くことにした。

 熊本駅につくと、サダヲが迎えに来てくれていた。

 白髪が目立ち、腰が曲がっている姿を見て、年を経ったんだなと実感した。

 一緒に牛朝村まで戻ると、湾には多くの大漁旗を掲げた漁船が見えた。

「美緒が戻ってくるって聞いて、皆が歓迎しているんだ」

 サダヲが説明した。

「ああ、故郷に戻ってきたね」

 美緒の頬を涙が流れた。

 いつも丘から見ていた熊本の海だ。

 結婚したくないと、家を飛び出して、何年もたっていた。

「紬ちゃん、美緒が帰ってきたって萬屋に教えてきておくれ」

 サダヲは走っていた女の子に使いを頼む。

「わかったわ。あのね、お願いがあるんだけど。美緒先生って、むしゃんよか! たまらんばい!」

 紬はチラチラと美緒を見る。

「ああ、萬屋の主人から頼んでくれるように伝えてあるよ。心配するな」

 サダヲは笑った。

 紬は全速力で駆けていく。

「あの子はどうしたの? ふふふ。足が速いわね」

 美緒は感心する。

「お前に似ている。跳ねっかえりだよ」

 サダヲは美緒を見た。

「叔父さん、手を焼いているの?」

 きっと負けず嫌いで、勉強するのが大好きに違いない。

 美緒は幼い頃の自分を投影させる。

 この村では、十分な勉強ができないのではないか。

 紬と呼ばれた少女が気になった。

「おかえり」

「おー、元気そうだな」

 金之助と諭吉が出迎えてくれた。

 美緒は奥の座敷に通された。

「よく帰ってきたね。元気そうでよかった。ああ、やっぱり美緒ちゃんは大した女子だねえ」

 敏江も笑った。

 萬屋では美緒を歓迎する宴会が二日に渡り、開かれた。

 村長、校長など村の偉い人たちが挨拶に訪れた。美緒は多くの人と挨拶をして、独逸で勉強してきた医学の話をした。

「美緒ちゃん、頑張ったね」

「林太郎!」

 林太郎が昔と変わらない穏やかで優しく微笑んでいた。

「母さんがね、どうしても美緒ちゃんが帰ってきてからじゃないと引っ越しできないっていうからさ。熊本に迎えに来たんだよ」

「引っ越し?」

 美緒は驚いた。

「母さんも年だからね。一緒に東京で暮らそうって話しているんだよ。もう知っていると思うけど、北村商事は本社をここから東京に移したんだ」

 海外進出も成功させ、いくつも子会社があるという。紡績工場を熊本で作ろうとしたが、石炭がうまく調達できず、福岡で作ることになったと聞いていた。

紡績工場の経営はうまくいっているという。

「最近は衛生用品も需要があるから扱っているんだ」

「商売繫盛で何よりね」

 せっかく帰ってきたのに、林太郎がいなくなってしまうのか。

寂しさを感じて、美緒は目を細めた。

「お父さん、この人だれ?」

 小さい男の子が林太郎の足にしがみついた。

「おお、郷太。来たのか」

 林太郎は愛おしそうに郷太を抱き上げた。

 ああ、これが林太郎の子か。

 林太郎の雰囲気を引き継いでいた。

「すいません、せっかくお話ししているところを。郷太がどうしてもお父さんと遊びたいって、外に出てしまって……」

「いや、いいんだ。もう終わるところだから」

 林太郎の隣には、大きいお腹の女性がいた。

「妻の不二子だ」

 林太郎は少し恥ずかしそうに妻を紹介した。

「石田美緒と申します。ご結婚、おめでとうございます。二人目のお子さんの誕生も楽しみですね」

「ありがとうございます」

 不二子は林太郎の半歩後ろで微笑んでいることに気がついた。

「そろそろ行こうか? 疲れただろう?」

 林太郎は不二子の背中に手を置いた。

「ねえ、お母さん、いつ赤ちゃん生まれるの? 僕、お兄ちゃんになるんでしょ。早く会いたいな」

 郷太はお母さんのおなかを撫でた。

 幸せそうな家族三人がゆっくり歩いていく。

 あの中にいるのが、私の可能性もあったのだ。

それを私は自分から捨てた。

あの時、結婚していたら……。

林太郎の隣にいたのは私だった。

 林太郎には幸せになってほしいと思いながら、複雑な思いが沸きあがる。

「美緒は跳ねっ娘だからな。ここは狭かったんだ。仕方がなかったんだ」

 敏江は慰めるように美緒の手を握った。



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