⑨
夜のネオンの下で、「特別」と囁かれたあの日から、触れるという行為は、特別じゃなくなった。だから手を振り払わなかった。怖いのに。
もう、何も感じない自分のほうが、もっと怖かった。
「嫌だった?」
彼が、少し不安そうに聞く。その声は、きっと本音だった。
「別に」
便利な言葉。怒ってもいないし、嬉しくもない。本当は少し怖かった。でも、それを言ったら何かが始まりそうだった。始まるのがとてつもなく怖い。
信じるほうが負けると知っているから。
時刻は22:50、横浜駅の改札前。彼は手を離した。
「ごめん、酔ってた」
軽く笑う。その一瞬、目が揺れた。遊び慣れている男の目ではなく、明らかに確認している目だった。私の反応を、怖がっている。この人は今、探っている。私の温度を。
帰りの電車で、手の感触が残っていた。嫌じゃなかった。でも、嬉しくもなかった。それが一番、空虚だった。私はもう、何も感じないのかもしれない。夜を知ってしまった女の子は、普通の優しさでは揺れない。
あのときの「嫌だった?」の声だけが、妙にリアルに耳に残っている。技術じゃない優しさは、
ぎこちなくて、それが少しだけ怖い。本気で向き合われるほうが、遊ばれるよりずっと怖い。
運命とか、奇跡とか、偶然とか、そういう安っぽいロマンは、のちに大きな傷になる。
「最後にさ、本名だけ、聞いてもいい?」
本名。そういえば、まだ名前も知らなかった。知った瞬間、アプリの中で出会った彼が別人になってしまう気がして怖い。
「また今度。」
私はそう言った。また会う約束を無意識に交わしてしまった。改札を足早に抜けると遠くの方から声が聞こえた。
「藤宮。藤宮湊!」
——藤宮湊
聞こえていないふりをして逃げるように電車に飛び乗った。
電車の窓に映る自分は、驚くほど無表情だった。
——ブーッ。
スマホが震える。
【今日はありがとう。めっちゃ楽しかった】
一瞬、胸が冷える。
軽い。
ありきたりな男の語彙。やっぱり、こういうテンションで距離を詰めてくる。
続けて、もう一通。
【気をつけて帰ってね】
……え?
画面をスクロールする。ハートも絵文字もない。下心の匂いがする言葉もない。素直な優しさなのか。育ちがいいのか。いや、当たり前の礼儀なのはわかっている。
【こちらこそ】
——なんか冷たい。却下。
【うん。そっちも気を付けて】
——無難すぎる。却下。
返信をする前に、またスマホが震える。
【さっきの、急にごめん。勢いじゃなくて、本気で好きになりたい】
指が止まる。
“勢いじゃなくて”
勢いだったことにするほうが、楽なのに、どうして彼は、逃げ道を自分で消すのだろう。彼は、私の答えを待っている。胸の奥が、かすかにざわつく。
これも計算なのだろうか。試しているのだろうか。女は、早い段階で手を出してくる男に、好印象を持たない。大事にされていないと錯覚するのだ。私は、そこの感覚も麻痺していた。触れられることには何の抵抗も感じない。なのに、なぜか指先が冷える。
初めて私は相手を、確認している。距離を詰めるためじゃなく、傷つけていないかを慎重に探っている。
——信じるほうが負け。
彼の手に触れたあの一瞬、本当は、ほんの少しだけ期待していた。
【嫌じゃなかったよ】
送ってから、少し後悔する。これじゃあ、扉を開けているみたいだ。すぐに返信が来る。
【よかった。俺、ちょっと緊張してた】
——緊張?
笑ってしまう。いかにも遊んでいそうな顔をしていたのに。嘘だと思いたいのに。その不格好さが憎めなかった。もしこれが本当に遊びなら、もっと滑らかに、もっと余裕を見せるのだろうか。
電車が揺れる。
もしかしたら、この人は——
遊ぶ側じゃなくて、ちゃんと、好きになる側の人間なのかもしれない。スマホを胸に押し当てる。ほんの少しだけ、心臓がうるさい。ああ、まだ死んでいない。まだ、普通の恋をしていい。
普通の女の子である私を、ちゃんと怖がっている男には、少しだけ揺れる。
「……試してみようかな」
小さく呟く。信じる、じゃない。
試してみる。
彼を試すだけではない。自分も試すのだ。それくらいなら、まだ負けじゃない。




