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第27話

 まほろと描くさいごの漫画は、完成間近といった段階まで来ていた。取材旅行で撮った写真のおかげで、地球が丸いことも表現できた。そして、まほろの作業は、ぬいぐるみの姿でしたとは思えない仕上がりだった。

 原稿は、きっと今日のうちに完成する。完成したら何かお祝いをしたいと、数日前から考えていた。ふたりだけで、また漫画を描けたという奇跡を分かちあいたかった。


 高校のとき、まほろがサプライズでケーキを作ってくれたことを思い出した。あれは佳作の受賞記念だったけど、この漫画はどこにも投稿する気はない。これは、この約三ヶ月間、わたしはまほろと……まほろがわたしと生きていたという証だ。わたしだけのものにしておきたい。


 だから、完成記念。それに、まほろはこの部屋に天使のように舞い降りた日、わたしに生活力をつけさせると誓ってもいた。その成果を見せるときだ。

 三ヶ月前のわたしなら、ケーキなんか作ろうと思わなかっただろう。だけど、スーパーに通うようになって気づいたことがあった。


 それは、お菓子作りができなくてもケーキは作れる、ということだ。

 クッキーも、生チョコも、ホットケーキさえ作ったことがない。だけど、スーパーにはケーキの「パーツ」が売っているのだ。


 焼いて、スライスまでしてあるスポンジケーキ。マヨネーズみたいな容器につめてあり、あとは絞り出すだけになっているホイップクリーム。

 飾りつけには、いろんな種類をのせられるように、カットフルーツの盛りあわせを選ぶ。どうせ子ども用の小さな包丁では、メロンひと玉、パイナップルを葉っぱつきのまま買ったって、持て余すに決まっているのだ。下処理をしてあるカットフルーツは家事初心者のわたしに最適だと思われた。


 わたしはまほろにひとりで買いものに行くと言って出かけてきた。まほろに「はじめてのおつかいですか」とからかわれたが、詮索されなかったのは助かった。ケーキを作ることは、秘密にしたかった。サプライズ返しではないけど、わたしだってまほろを喜ばせたかった。


 でも、この小さなアパートの一室で、サプライズなどほとんど不可能だ。思えば、まほろとのふたりの生活は、隠し事ができないような暮らしだった。まほろに隠さなきゃいけないことなんて今までなかったから、今日はじめて苦悩している。


 玄関を開けると、わたしはすぐさま買ってきたものを袋ごと冷蔵庫に突っこんだ。まほろにおつかいの成果を見られては困るからだ。トーンの切れ端だけで、漫画を描いていると見破った慧眼の持ち主だ。スポンジケーキやホイップクリームを見られたら百パーセント、カットフルーツだとしても勘のよさが発動されてしまったらばれるだろう。


 わたしは帰り道、頭の中で繰り返し練習したセリフを、もう一度そらんじた。よし、大丈夫。

 部屋の戸を開けると、まほろはぬいぐるみを脱ぎ捨て、ぼんやりと描き上がったページを眺めていた。陽光を透かした横顔があまりにもはかなく、遠雷を聞いたときのように胸が冷たくなった。


「まほろ……?」


 不安に押しつぶされそうになりながら、呼びかける。まほろはゆっくりと顔を上げ、ふわっと笑った。


「あ、先輩。おかえりなさい」


 まほろの返事が聞けたことに安心して、へたりこみそうになる。ひざに手をついて何とかこらえ、用意していた言葉を口にする。


「あのさ……今日はひとりで料理してみたいから、終わるまで台所に来ないでほしいんだけど……」

「何ですかそれ。はじめてのおつかいの次は、鶴の恩返しですか?」

「まあ、そんな感じ……?」


 まほろは「ふうん」とくちびるをとがらせてつぶやき、わたしを頭のてっぺんからつま先まで、視線で撫で回した。びくりと身体が震える。ケーキだとばれてはいないだろうけど、何かしら企んでいるとは思われていそうだ。

 まほろはさいごにわたしの目を見ると、ことんと首をかしげてほほえんだ。


「わかりました。じゃあ、原稿の最終確認しておきますね」

「うん。よろしく」


 わたしは戸を閉めながら後ずさり、自分の気合いをたしかめるように握りこぶしを見つめてみた。この手が……ケーキなんか、買って食べたことしかない手が、これからケーキを作るのだ。


「動画で一応勉強はしたけど……」


 料理すら、まともにできるようになったのは最近なのだ。さらに専門性の高まるお菓子作りなど夢のまた夢。ホイップクリームをスポンジに塗る“ナッペ”という作業をするためのヘラすらない有り様だ。買っても持て余すことは火を見るより明らかなので、今回はあるもので済ませることにしている。

 ヘラの代わりに使うのは、ようやく手に馴染んできた、子ども用の包丁。刃渡りがなく、刃先もあまり尖っていないから、以外に使い勝手がいい。丸い面にクリームを塗り、カットフルーツをまんべんなく散らし、スポンジを重ねていく。


 三段重ねになったところで、いよいよ問題の行程へと突入する。これをクリームでコーティングしていくのだ。動画で見た、ケーキを回転させるろくろみたいな道具もないから、自力で回しながら塗ってみるが上手くいかない。どうしても、クリームの層が厚くなったり、逆に薄すぎてスポンジが透けて見えたりしてしまう。


「やっぱりでこぼこのやつにするしかないか」


 失敗したときのための策も練ってある。ヘラを指だとしたら、指の腹の部分でケーキの表面を叩いて、クリームをわざと乱す方法だ。ざっくりと塗った漆喰のような風合いになって、無理に平らにしようとするより格好がつく。

 残しておいたフルーツとホイップクリームで飾りつけをして完成した。まほろが作ってくれたケーキはひと目見ただけじゃ手作りとはわからないくらいだったが、このケーキは一瞬で手作りだとわかる。もちろん、悪い意味で。だけど、大事なのは気持ちなんだ、と言い聞かせ、お披露目のときまで冷蔵庫にしまっておく。


 次は料理だ。今日のメニューは決まっている。トマトソースのパスタと、チーズをかけ放題できるピザ、そしてサラダ。

 まほろとお祝いで食事に行ったレストランには、また行きたいねと言いつつ、それは叶わなかった。誘うタイミングならいくらでもあった。だけど、急ぐことでもないかと思って先延ばしにしていたのだ。二度と叶わなくなってしまうなんて、想像もしていなかったから――。


 ピザはさすがに生地からなんて作れないので、冷凍ピザにシュレッドチーズをたんまりかけてトースターに入れる。その代わり、パスタソースは手作りだ。まほろに教えてもらった、トマトの冷製パスタのソースを参考に、味つけをしていく。中濃ソースの隠し味は、まほろ直伝だ。

 スプーンにしっかりとひと口分、味見をする。味見だからちょっとだけ、という考えは間違いだと、まほろに教わった。実際に食べるときと同じ量でなければ、おいしいかなんてわからない、と。


 塩加減も、酸味のバランスもばっちり。茹で上がったパスタにかけ、仕上げに粉チーズを振る。ちぎって水に浸しておいたレタスも皿に盛りつけて、料理はすべて完成した。ひとりでここまでできるようになったのが、自分でもまだ信じられなくて、ちょっと笑ってしまう。

 戸にはめられた磨りガラスは、夕焼けの色に染まりはじめていた。あの日につながっているかのような、ハチミツのような金色。その戸を開けると、八畳のフローリングにまほろの姿は溶けてしまいそうに揺らいでいた。


「まほろ、お待たせ。ごはんにしよう」


 まほろはゆっくりと顔を上げ、鼻をふんふんと動かした。ぱあっと表情が明るくなる。


「いいにおい……先輩がひとりでこんなおいしそうなにおいをさせてるなんて……あたし、感激してます」

「ちょっと、それは食べてから言ってよ」


 わたしは手早く机の上を片づけて、料理を運んだ。少し悩んだけど、盛りつけはふたり分にした。その方が、あのときのお祝いに近づくと思ったから。

 まほろも、おそらく気づいているのだろう。トマトソースのパスタ。チーズを好きなだけかけ流してくれるピザ。そして、健康のためのサラダ。まほろは胸をおさえ、料理を見つめている。


「前にさ、一回だけごはん食べに行ったでしょ? 引退式の日、佳作の受賞記念に。そのときまた行こうって言ってたのに、結局行けなかったから……」


 なぜか言い訳をしている気分だった。今までにサプライズをしたことがないから、慣れていないのだ。まほろはまだ、放心したように表情を動かさない。ただの自己満足だったのではないかと、不安が募ってくる。

 すぐに、その不安はかたちになる前に、煙のように吹き飛ばされた。

 まほろの、瞳が輝き出す瞬間を目の当たりにしたからだ。


「先輩……すごいです。コンビニごはんの振り分けをまじめに語っていたあの先輩が、こんなに料理ができるようになるなんて……」

「ちょ……そんな話、引っ張り出してこないでくれる?」


 なはは、とまほろは軽く笑い飛ばした。そして、湯気が立つピザを指さして、急かすようにからだを揺らした。


「早く食べたいですっ。ピザ、チーズがいちばん多いとこでお願いします」

「まずはサラダからじゃなかったっけ?」


 わたしはピザをひと切れ持ち上げ、チーズを伸びるだけ伸ばして切って、まほろの顔をのぞきこんだ。まほろは得意げに胸を張った。


「ふふん。あたしはもう、健康のことなんか考えなくてもいいからだになったんです。あ、先輩はもちろん、サラダからですからね」

「わかってる」


 まほろの口もとにピザを差し出す。まほろはわたしの目を見つめ、「いただきます」とささやいた。




 食器がひとり分空いて、わたしたちは揃って手をあわせた。まほろはお腹をさすりながら、幸せそうなため息をついた。


「あぁ、おいしかったぁ。先輩、ごちそうさまでした。あたし、これなら安心して天国に……」


 目を細めて天井を見上げるまほろ。そのまますうっと浮かび上がって手の届かないところへ行ってしまいそうで、わたしは慌てて両手を振った。


「ま、待って待って。まだ終わりじゃなくて……」

「えっ? これ以上何があるんですか?」

「まほろカフェ二号店……開店してもいい?」


 まほろの目が大きく見開かれ、息を飲むような間があった。口もとからじんわりと笑みが滲んでいく。


「もちろんですっ」


 わたしは食器を片づけ、マグカップにインスタントコーヒー、茶碗に紅茶を淹れた。冷蔵庫からケーキを取り出そうとして――伸ばした手をひっこめて、扉を閉めてしまった。

 苦し紛れのでこぼこナッペ、デザイン性もなく、ただのせただけの果物、中身のスポンジも買ってきただけのもの。まほろのケーキには、メッセージつきのチョコプレートまでのっていたのに……。


 冷蔵庫を開けたり、閉めたり。ケーキが見えるたびに、なぜか無力感に打ちひしがれる。様子がおかしいことに気づいたらしく、まほろが開いた戸の影からちらりと顔を出した。


「どうしたんですか、先輩」


 わたしは慌てて冷蔵庫を閉めて、視線を泳がせた。顔が熱い。たぶん、赤くなっている。


「あの……はじめてにしてはまともなものになったとは思うんだけどさ……まほろが作ってくれたケーキとは比べものにならないっていうか、遠く及ばないっていうか……。何かはずかしくなってきて」

「えっ、先輩、ケーキ作ったんですか!?」


 しまった、自分でネタバレしてしまった。後悔してももう遅い。まほろはびゅんっと飛んできた。宝探しのようにキッチンを見回している。


「いや、まあ、作ったってほどじゃ……。スポンジもホイップもできてるやつ買ってきただけだし、フルーツだってカットされてるやつだし……組み立てただけっていうか」


 だめだ、墓穴を掘りまくってる。こんなことなら、堂々と出すんだった。まほろの瞳はきらきらと輝いていて、期待値が上がっているのが感じられた。

 

「そんな、謙遜しないでください。先輩のはじめてのケーキ、早く見たい」


 ぐいっとまほろの顔が迫ってくる。まほろに吐息がかかってしまいそうで、慌てて距離をとる。観念して、冷蔵庫の扉に手をかけた。


「味は保証されてるから……」


 最後にダメ押しして、ケーキをまほろの目の前に出した。

 まほろの瞳に、光の粒が散りばめられた。


「すごいです、先輩! ぜんぜんはずかしくなんてないですよ。おいしそうだし、かわいいし、包丁も使えなかった先輩が……こんなに……」


 まほろは内側からにじみ出るようにほほえんだ。なぜか少し、まほろの透明度が上がった気がした。


「先輩、成長しましたね。これであたしは……先立った妻は、安心して天国に帰れます」

「やだ、やめてよ。まだ原稿だって完成してないのに……」


 原稿完成のお祝いに作ったケーキを目の前にそんなことを言うのは、自分でもおかしかった。だけど、そんなわがままでも言わないと、まほろが今すぐいなくなってしまうような気がしてしかたなかった。


「あたしが気づいてないとでも思ってるんですか。先輩が原稿の完成を先延ばしにしてるの」


 はっとして顔を上げると、まほろは眉を下げて口もとを歪めた。甘くて苦い薬を飲んだような表情を隠すように顔を背け、部屋へと戻っていく。わたしもケーキを持ったまま追いかける。

 まほろは床に置いていた原稿を眺めていた。束ねた原稿のいちばん上にあったのは、最後のページだった。まほろは半透明の手のひらに絵を透かしながら、その表面を撫でている。


「いつもより細かいところ気にして修正したり、出来が気に入らないって一ページまるまる描き直したり……そんなこと、今までなかったのに」


 ひゅっ、と息がつまった。握りしめた手のひらに爪が食いこむ。


「ほんとは、あとひとつ、セリフを入れるだけなのに」


 まほろの小さな声は、わたしの胸に穴を穿った。その穴から熱いものが溢れ出て、代わりに冷たい隙間風が入りこみ、全身を駆け巡るようだった。身体から熱が奪われ、指先から冷たくなっていく。


「最終確認は終わりました。もう直すとこなんてないほど、完成度高いですよ。さいごのセリフ、書いてもらえますよね」


 まほろは原稿の最後のコマ、まだ鉛筆で走り書きしただけの吹き出しを指さした。

 わたしの口は、考えがまとまらないうちに動いていた。


「やだ……」


 まほろのこと困らせちゃいけないのに。

 原稿の完成が、まほろがこの世にいられるタイムリミットなのだ。完成を望みながらも、それをいちばん恐れているのは、まほろのはずだ。

 わがままを言っちゃいけない。それはわかっているのに、わたしの口は止まってくれない。


「完成なんてしなくていい。まほろが天国に帰らなくちゃいけなくなるなら、未完成のままでいい。ずっとこの漫画を描きつづける。そしたら、まほろはここにいられるでしょ?」

「先輩はあたしが、未練を残した地縛霊状態のままでいいんですか?」


 まほろは優しくほほえむと、わたしの左手をそっと包みこんできた。固く握りしめた手の甲を、綿毛でくすぐるような優しさで撫でられる。

 まほろは、わたしの目をのぞきこんでやわらかくえくぼを作った。その笑顔が、徐々にぼやけていく。


「先輩、涙で前が見えなくなる前に、最後のセリフ、書いちゃってください」


 まほろはペンを指さし、明るくそう言った。ぱしぱしと、半透明の手にひざを叩かれる。その勢いにのせられて、わたしは知らず知らずのうちにペンを取っていた。


「ずるいよ、まほろは……」


 原稿を机にのせ、最後のセリフを書き入れる。「ずっと好きだった」。まほろが望んだセリフだった。まほろと視線を絡ませる。ほほえむまほろを、わたしは弱々しくにらみ返す。でもすぐに眉から、まぶたから力が抜けてしまい、まほろの瞳はさらに優しく弧を描いた。


 ペンを放り、まほろの右肩に自分の肩を押しつけた。暑い季節になってはいたが、まほろから伝わってくる温度は不快ではなかった。

 むしろ、漫画が完成に近づくにつれて、まほろのぬくもりが恋しくなっていった。漫画を描いているとき以外は、いつでもからだのどこかが重なった状態でいないと落ち着かなかった。


 布団を取り払ったこたつの下にまほろの脚が伸びている。わたしはその滑らかな素足に添わせるように、折っていた脚を伸ばした。まほろの方から脚を絡めてくる。胸が締めつけられるほどあたたかいのに、触れている感覚はない。

 慣れたはずのふたりの触れあいに、今さら絶望を感じている。


「先輩……漫画描くの、やめちゃいますか?」


 まほろの言葉に、心臓が跳ね上がる。まほろは水に脚を浸すかのように、わたしの脚の中でぱたぱたと足首を動かした。ぬくもりがからだの中で波を作り蠢いている。くすぐったいような、受け入れがたいような感覚に、ぴくっとかすかにひざが跳ねた。


「何で……そう思うの?」

「特に根拠はないですけど……さっき、原稿が完成した瞬間の先輩の顔を見て、もしかしたらって思っただけです」


 まほろはおもむろに立ち上がり、ベッドに向かった。まんなかより少し左側に寄ったところに腰かける。わたしも追いかけるようにまほろの右隣に座った。

 まほろはうつむきがちに頬をゆるめ、からだをななめにしてわたしを見つめてきた。


 潤んだ瞳、華奢な鎖骨の線と、滑らかなくぼみ。白いワンピースはからだのラインを透かし、からだもろとも背後の景色を透かしている。

 息を飲むほど儚い姿だった。


「先輩、漫画やめないでください。ずっと描きつづけてください」


 ひざに置いた手が、ふんわりとまほろの手の温度に包まれる。まほろの顔は至近距離にあるのに、吐息は感じられない。


「もう描けないよ。まほろといっしょじゃないと」

「そんなことないです。今まではずっとひとりで描いてきたんでしょう。あたしがいなくたって、大丈夫じゃないですか。作業が分担できない分、ちょっと時間がかかるようになるとは思いますけど……」

「なんで……」


 わたしのかすかなつぶやきに、まほろは言葉を止めて目を伏せた。指が震えながら折り曲げられていく。


 わたしは泣いていた。


 視界がぼやけはじめたと感じたときには、すでに手遅れだった。

 頬がまんべんなく濡れると、あごから滴り落ちた涙は手まで濡らしはじめた。まほろの手をすり抜けて、手の甲に水玉模様ができていく。水玉がつながって、ひざに流れて、また新しい水玉ができる。


 まほろは静かにずっと手を重ねてくれていた。 涙の冷たさが伝わっていないといいなと思った。


「なんで、わたしの心配ばっかりするの? 今考えないといけないのはまほろのことでしょ? まほろはこれからどうなっちゃうの? 夢を叶え終えて……天国に、戻っちゃうんでしょ?」


 わたしは声を震わせながら言った。まほろは深呼吸するように何度か胸を大きく動かしたあと、顔を上げてくちびるをほころばせた。

 どうしてそんな顔ができるのかと思うほど、穏やかな笑顔だった。


「帰りますよ。天国に。そして、今度こそ門をくぐります。神さまとの約束ですから。もう決まっているあたしの予定より、先輩の未来の方が大事な話じゃないですか」

「ほんとにもう、戻ってこられないの? まほろの身体は……病院にいるまほろは、もう目覚めないの?」


 まほろの決意を止めない、止めてはいけないと言い聞かせていたのに。

 吹き荒れる感情を抑えることができず、まほろを責めるような言葉を吐き出してしまう。


「目覚めません。それが約束なので」

「まほろは怖くないの? なんで笑っていられるの?」


 沈黙を避けたい一心で、もはや揚げ足取りみたいな問いすらぶつけてしまう。

 ブレーキはもう壊れていた。それもこれも、最初の涙のせいだった。泣いてさえいなければ、もう少し冷静でいられたはずだ。


 ぼやける目をこらして、まほろをまっすぐに見つめる。泣き顔なんて粗末なものを見せてでも、まほろの瞳をわたしに向かせたかった。どこか遠いところなんて見てほしくなかった。

 まほろはくちびるを少し歪め、それでも涙は見せずに頬を引き締めた。眉根に寄ったしわにだけ、本当の気持ちをこめているかのようだ。


「怖いですよ。先輩に会えなくなるのが。忘れられちゃうかもしれないのが。思い出してもらえなくなるかもしれないのが」


 まほろは早口で言い募った。半開きの口から、熱い吐息が吐き出されるのが見えるようだった。


「絶対忘れない。毎日思い出すよ」

「うーん、でもそれも、先輩の未来を閉ざすようで心苦しくもあるんですけど」


 まほろは打って変わって、軽い口調で言った。肩透かしを食らったように、一瞬頭を真っ白にされた。涙も止まった。

 まほろはわたしのそんな反応を狙ったのか偶然なのか、へにゃっと笑ってみせた。つられて笑うところまではいかないものの、軽い吐息が漏れ出て、ぱんぱんだった風船から空気が抜けたような余裕ができた。


「先輩。あたしはもうちょっとだけこの姿でここにいられると思います。帰るまでに、もうひとつだけやりたいことがあるんです」


 声を出したらまたみっともなく震えることはわかり切っていたので、瞳でつづきをうながす。


「あたしを、あたしが入院してる病院に連れていってください」


 まほろはわたしを見つめ返して、ますます透明に近づいたように見える頬に、うっすらとえくぼを作った。

 机の上に忘れ去られたケーキは、クリームが溶けかけてフルーツが少し沈んでいた。

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