フィオ・ヴェルゲ
一瞬にして周囲が平らになった。小さな広場程の範囲が、音もなく消えた。人々がざわめく声も、商導軌が動く音も、何も聞こえない。そこで飴を咥えていた子どもも消えている。建物や商導軌があった場所には小さな砂の山?ができていた。
「ふむ、これでは抜かぬか。」
「何、これ...。」
何が起きたのか、何が起こったのか、ライナもゼルンも全く理解できない。ライナは、目の前の変わりように体が動かなくなった。
「今のは、魔法か?詠唱も、魔法陣もなしに?」
「ああ。...あれが、魔族の魔法だ。」
ディオンの魔法陣が空気に溶けるように消える。ガントレットを装備したディオンは、驚きと怒りの表情をしていた。
「お前は...。」
聞いたことない、ディオンの低い声。真っ直ぐに魔族を見るディオンにつられて、ライナとゼルンも魔族に視線をやった。相変わらず、何も無い空間に光る板が浮いている。
そして、やっと我に返った一般人が悲鳴を上げて四方八方に散らばり始めた。騒ぎ声がどんどん大きくなって、まともに避難ができていない。逃げ惑う人達は混乱し、事態は最悪だ。午後の穏やかな街が、一瞬で戦場と化した。
恐怖で染まった人々の顔。理解できない魔族の魔法。何もできなかった自分。ライナは、目の前で起こった全ての出来事や感情、先程までの自分の姿が雪崩のように押し寄せて来て、溺れそうになった。ぐるぐると思考の海を漂って、周りの音が聞こえなくなる。どこが上か下かもわからなくなった。
...何が起こってるの?私は何をした?あの時とは違う?今もディオンに守られているのに。
「ライナ!!」
急に聞こえたディオンの厳しい声に、深く沈みかけた思考が現実に引き戻される。はっとして顔を上げると、ディオンの鋭い視線に心臓を貫かれた。
「この魔法にお前の剣は不利だ!一般人を避難させろ!」
「っ!わ、わかった!」
...そうだ。私に、できること...。何もできないからって、本当に何もしなかったら、それは逃げだ。そんなんじゃ、英雄になるどころか、英雄を知ることもできないよ!
思考の海を抜け出したライナは何度か頷いて、混乱している人混みの方へ走り出した。
「まだ確認していないのに、どこかへ行かれたら困るな。」
瞬間、背後で魔族の声がした。反射的に振り返ると、こちらを見つめ、何かを伝えようと必死なゼルンと目があった。
「嬢ちゃん!前!!」
はっとして前を向くと、目の前の地面に四角い白い穴?があった。そして再び、ライナの中で魔法陣が発動する。嫌な予感がして飛び退くと、そこから何かが出てきた。
それは、人の形をしていながら、人ではなかった。頭部からは捻れたヤギの角が生え、顔の位置には生き物のものとは思えないドクロが嵌め込まれている。眼窩の奥で、青色の光が不気味に燃えていた。片手には巨大な鎌。刃の縁は鈍く光り、振るわれる前から空気を引き裂いていた。
「こ、これは...。」
「魔族だ!!」
ディオンの声がする。その大鎌を目の前にして、ライナは迷わず鞘から剣を抜いた。剣を構えると、目の前のドクロの魔族はわずかにピクリと反応したように見えた。ライナは大きく深呼吸する。柄を握る手が震えないようにぎゅっと握った。
「ゼルンはライナを補助しろ!俺は、」
「やはり。本物か。」
「っ!!」
まただ。瞬きのうちに、目の前に魔族が現れた。ドクロの魔族と、赤目の魔族の位置が入れ替わっている。目の前に赤目の魔族が現れた瞬間、今まで感じたことのない圧を感じた。ものすごい重さの何かで地面に押さえつけられているような感覚。赤い瞳に、心の奥底までえぐられているような不快感。嫌な汗が額に滲んだ。剣を落とさないようにぎゅっと握りしめて、その場に立っているのがやっとだ。
「ふむ、確認した。」
さっきから訳のわからない事を言っている魔族。何かを確認した魔族は、不敵な笑みを浮かべた。すると手元にあった白く光る薄い板が音もなく大きくなって、魔族はそこへ消えていった。
「...消えた...?」
振り返ると、ディオンの前にいたドクロの魔族も消えていた。本当に一瞬の出来事だった。
魔族がいなくなると、ふっと体が軽くなる。ライナはようやく息ができた気がした。
「意味わかんねえ...。」
魔族が消えて残ったものは、混乱した人々と恐怖、喉に刺さってとれない魚の小骨のような違和感だった。
「皆さん!落ち着いて!」
「走らないでー!」
魔族が去った後も、人々の混乱は収まらなかった。3人がなんとかして収めようとしても、全く上手くいかない。そもそも、ライナもよくわかっていないし混乱しているのに、他人を宥めるなんて事ができるはずもなかった。
「どうすんだ?これ。」
「なんとかして静かにさせないと...。」
「うーん、大規模魔法でなんとかなるか?」
「止まれ!!」
戸惑っていると、どこからか硬い男性の声が降ってきた。ライナは驚いてキョロキョロと辺りを見回す。迫力のある大声に、何事かと人々の動きがピタリと止まり、周囲はあっと言う間に静かになった。
「魔族は去った!!今、騎士団がこちらへ向かっている!その場で待機せよ!」
空を見上げて注意深く見回すと、時計塔の上空に、ポツリと人影があった。なるほど、あそこから音声拡張機でも使って話しているのだろう。
「すごいな。声だけで止めた...。」
「あの人、どうして魔族ってわかったんだろう?」
3人が見上げていると、空の上のその人が、段々とこちらへ近付いてきた。
「え、何、何?」
「...空、歩いてる...?」
空から近付いてきたその人は、紫色の髪を編み、白いシャツに紺のベストと長い上着を着ている。視晶をかけた中性的な顔立ちのその人には見覚えがあった。
「あ。あの時の。」
「魔力封じの腕輪の奴だなあ。」
空中を歩いているような動きでこちらへやって来た紫髪の人は、3人の前に降り立つと優雅に礼をした。ふわりと洗練された動作のその人は、爽やかな笑顔を浮かべていた。
「また会いましたね。」
この間のようにトゲトゲした声ではないからか、ちょっと男性的な声な気がする。白い手袋をした手がすっと差し出された。
「私はフィオ。フィオ・ヴェルゲです。よろしくお願いします。」
何かよろしくされることがあるのだろうか?ライナは薄っぺらい笑顔で差し出された手を握った。
「ライナです。この間は、ありがとうございました。本当に助かりました。」
「俺はゼルン。こっちはディオン。助かったぜ。」
「ヴェルゲ...。」
フィオと名乗ったその人は、3人と握手をして、周囲を見渡した。ざわめく街は、徐々に落ち着きを取り戻し始めている。騎士団が上手く誘導し、人々がこちらをちらちらと見ながら引いていった。
「魔族ですね。まさかこんなことになるとは...。」
フィオの視線の先には。何も無いその場所がある。見つめるフィオの横顔に、一瞬厳しい表情が映った気がした。再びこちらに向けられた瞳は柔らかなものに変わっている。
「3日は大陸導軌は動けませんし、宮廷会議もあります。皆さんには、王宮にお越しいただいて、相対した時の様子や魔族について証言していただきたい。」
まあ、そうなるよなとは思っていた。王宮に部屋を用意してくれると言うし、カルディアに行く予定だと言ったら大陸導軌の融通を効かせてくれると言ってくれたので王宮に行くことを了承した。
「わかりました。」
フィオが手配した馬車で王宮に向かった。金属と深緑色の落ち着いた城だ。金の装飾が施された美しい城に思わず見とれている内に到着したようで、3人は王宮に用意された部屋に案内された。王宮に泊まるのは2回目だが、やっぱり落ち着かない。なんと言うか、贅沢すぎてどうも使いづらい。
「荷物を置いたら身支度を整えて、王に挨拶へ向かいます。」
各自に用意された部屋に荷物を置いて、なるべく服についた土埃などを払い落としてから、フィオに続いて王の玉座に向かった。
大きな深緑色の扉の前に立っている騎士にフィオが1つ頷くと扉を開ける準備をする。そしてこちらを振り返って、自分の服装を整えながら言った。
「皆さんは、発言を許されるまでは何も言わないように。」
玉座の間の扉が開く。広い部屋の中は明るく、布をふんだんに使ったタペストリーや厚く美しい絨毯で飾られている。赤く真っ直ぐ伸びた敷物の先に、大きな玉座があった。両脇には綺麗な鎧を着た騎士が立っていて、真ん中にきらびやかな衣装を着た王が座っていた。
深緑色の袖も裾も長い衣装に身を包み、長い灰色のひげをたくわえた柔らかい印象のお爺さん。指には輝く指輪と、頭には金色の王冠をかぶっている。
玉座に続く短い階段の手前でフィオがひざまづいたのでライナとゼルンは慣れないながらも後に続いた。ディオンは宮廷魔法使いもしていたので慣れているっぽい。
「フィオ・ヴェルゲ。ただいま帰還致しました。」
「よくぞ無事に戻った。...して、その者らが?」
見た目通り、穏やかでゆったりとした声がした。フィオが顔を上げて3人を紹介する。
「はい。こちらが冒険者のライナ、ディオン、ゼルンでございます。我々が現着した時には、すでに魔族は3名によって消滅しておりました。」
「ふむ。よくやった。我はハルデンクライス国王、アルブレヒト・ハルデンクライス。冒険者諸君、礼を言うぞ。おかげで街に甚大な被害が出る前に事を収められるだろう。」
「あ、いや、それは...。」
...全然消滅してないよ!
「しっ!」
勝手に話そうとすると、フィオにキッ!と睨まれてライナは言葉を飲み込んだ。
「よいよい。発言を許可する。」
灰色の口髭を長くのばした国王が緩く笑う。ライナはほっとして、緊張しながら話し始めた。
「魔族は、消滅していません。突然現れた魔族は、突然消えてしまいました...。」
「討伐しようとしたと同時に、魔族は去って行きました。逃して申し訳ありませんでした。」
ディオンも続けてそう言うと、国王は口髭を撫でながら目を伏せる。
「そうか...。諸君を責めるつもりも、立場もない。過程がどうであれ、我々は諸君に助けられたのだからな。」
「国王陛下。本日はこれで失礼させていただければ幸いです。彼らも魔族と対峙して疲れが溜まっているでしょう。私が彼らから話しを聞いて、後日、まとめて報告させていただきたく存じます。よろしいでしょうか?」
「良いだろう。ゆっくり休みたまえ。」
フィオが礼をして、それに続いて3人は玉座の間を後にした。
「なんか、優しそうな王様だったね。」
「お貴族様は怖いもんだ。覚えとけ、嬢ちゃん。」
翌日。ふかふかのベッドから起き上がって王宮の召使いによって身支度を整えられ、3人は食堂らしき場所でゆったりと朝食を食べた。城に努めている騎士や召使が食事をとる場所らしい。長い長い机には見たことない料理がずらりと並べられている。
ライナは温かくて甘いスープを飲んだ。優しい甘さとまろやかな口当たりが気に入った。
「ん〜、美味しいねえ!」
「主食はパスタか。へえ、手ぇこんでんな。」
様々な形で色とりどりなパスタが沢山ある。それぞれ味付けが違って、見た目もいい。
リュンフェルトは素材の味で勝負!と言う感じの料理が多かったが、ハルデンクライスはどれも火が通されていて、手間暇をかけた複雑な味付けが特徴的だ。とても美味しい。
食後、ライナはいい香りがするお茶を飲んでいた。ディオンも気に入ったのか、穏やかな表情で楽しんでいる。ゼルンだけは微妙な顔をした。
「すっごくいい香りがするね。」
「紅茶だ。ハルデンクライスは茶葉の産地だからな。...いい香りだ。」
「俺はいいや。甘い匂い茶はちょっとなあ。」
食堂を出て、指定された応接室に向かった。フィオに呼び出しを受けている。事情聴取だ。
「私達は、私達が見たことをそのまま話せばいいんだよね?」
「そうだ。あんまり緊張すんな、嬢ちゃん。俺らには何も落ち度はないさ。」
「でも、魔族を逃がしてしまった...。」
あまり表には出さないようにしていたが、ライナとしては非常に後悔している。ぎゅっと己の拳を握った。
「私があそこで怯まなければ...。1人で立ち向かえるくらいに強かったら...。」
一瞬で、周囲にいた大勢の人が消えた。あの一瞬の光景が脳裏に焼き付いて離れない。爪で掌を傷つけていることも気付かずにいると、そっとディオンがライナの手をとった。
「ライナ。お前だけが抱えることではない。ちゃんと悔しいと思えるライナは、ちゃんと成長しているし十分頑張っているよ。」
ゼルンの大きな手が頭をポンポンと叩く。
「そうだぞ。大丈夫さ。誰も嬢ちゃんのせいだと思ってないし、俺らは嬢ちゃんの努力を知ってる。あんましょげんな?」
「うん...。ありがとう。」
2人のおかげで、ちょっと心が凪いだ。これで落ち着いて、事情聴取も受けられそうだ。
応接室は、深緑と深い茶色を基調とした落ち着いた雰囲気だった。足音を吸収する深い茶色の分厚い絨毯が敷かれ、中央に机と、それを挟んで4人がけくらいのソファが置かれている。大きな窓と、壁には絵画、今は使われていない暖炉があり、とても静かだ。
フィオは、ソファに深く腰掛けて紅茶を楽しんでいた。こちらに気付くと優雅にカップをソーサーに音もなく置いて立ち上がる。
「こちらへどうぞ。お茶を入れさせましょう。」
ソファに座ると目の前にお茶が置かれる。さっき飲んだ香りとは違うが、いい香りの紅茶だ。ディオンが香りを楽しみながら飲んでいるが、ゼルンは微妙な顔をしている。
「一晩過ごして、どうでした?何か不便な点はありますか?」
「いいお部屋をありがとうございます。とても良く眠れましたし、快適です。ね?」
紅茶に手を付けていないゼルンに聞くと、何度も頷いた。なんだかゼルンの方が緊張してるような...?
「それは良かったです。何かあれば、私に言って下さい。」
そう言って、フィオはどこからか小さな金属?の塊を取り出した。ライナが見ていると、ゼルンが説明してくれる。
「録音の魔術具だ。」
「よくご存知ですね。これ以降の話はこれで録音させてもらいます。よろしいですか?」
「はい。」
録音の魔術具と机の上に置いて、ライナ達の事情聴取が始まった。
※フィオは男性です。




