その六
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理性的で居る事は何故大事な事なのでしょうか。私が思うにそれは『判断を誤らない為』です。生きて生活している上で諸々の判断を下し、自分の進みたいと願う方向に僅かでも進んで行かなければなりません。その為には世の中の事情を知る必要もあるでしょう。世間の人の判断が如何なるものか、それを知る必要もあるでしょう。物の値段を知る事も、利用しようとするサービスの内容を知っておく事も、法律的にどこまでが保証された範囲であるのかを承知しておく事も必要です。これら自分の外側に在るものの消息実態を知らなければ適切な判断を下す事は出来ません。
ですが、よく考えてみて下さい。これら人が理性的で居なければならない、そういう状態で判断を下さなければならない事というのは、抑々(そもそも)が『自分の進みたいと願う方向』というのが既に決まっている事を前提にしています。それが自分で何なのかも知らない間に理性的も判断もへったくれも無いでしょう。これらがその真価を発揮するのは目的が定まった後です。
自分の根本的な生きる目的、願い。そういうものは『判断』から生まれるものでもなく、また理性的な考察から形造られるものでもありません。それは理性に拠ってではなく感覚に拠って感受され、心がそれを認めて出来上がるものです。そうやって決まるものです。なのにその感覚を自ら封じ、自分が何ら信頼してもいない言動を繰り返して心を麻痺させて仕舞っては、生きる目的も願いも生み出されて来る筈がありません。そういう中に生きる人には表情がありません。
私はあなたに人間らしい生き方をしてほしいのです。感覚も心も健康に働き、その上で頭脳が担当する理性も正常に動く、そうあるべきではありませんか。私は人間の精神的な活動の基礎的な構造をその様に見ます。だから頭、詰まり頭脳の働きが鈍いだの何だのという事をさして重要視しません。そんな事は実に小さな事です。些事なのです。それよりも澄んだ心で居る事の方が迥かに大事です。比較になりません。
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「有難う御座居ました。どうか、お元気で」
旅先で出逢った知らない人に心の底から斯んな言葉を捧げたいです。心の底から斯んな言葉を捧げるに相応しい程に深い魂の交流をもちたいです。無理だと思います。でも無理だと思いながら心のどこかで期待します。その期待を自ら封じて仕舞う事が出来ません。その期待を封じる事は、確率的に無理だからという観測予測ではなく既に人間としての此方の魂の深さを問われている問題だからと私が思うからです。
「期待してはならない。しかし絶対に無いと、それを前提にしてはならない」
厳しくも難しいものだと思いませんか。しかし同時に真実だ真理だとは感じませんか。私を導く者は斯ういう事を私に指示します。そうやって、臆病な私を連れて私の先を行くのです。
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例えば、焦って失敗ばかりしている人が落ち着いて物事に相対する事を憶えるという変化はあるでしょう。また、下手糞だった人がコツを掴んで急に上手になったりする事もあるでしょう。更には、人間関係が気になって仕方がなかった人が急にそんなものは何うでも可い事だと気付き以後平然とするようになる事だってあります。これらはそんなに頻繁に目にする変化ではありませんが、それでも長い目で観察を続けているならば時折気が付く事です。『まあ、そんな事は無いよな』というものではありません。しかし弱い立場の人間を助ける支えるという価値観言動がそれまで全く無かったのに後になってから身に付いてくる、そういう事は本当に無いと私には見えます。この『資質』であっても人間のそれなのですから、純粋に先天的にとは謂い難いものであると私も思うのですが、不思議とそういう例を知りません。私の目には、優しい人は最初から優しいのです。『途中で変化してそうなった』のではなく。
私はこの事を断言する事は出来ません。しかし間違い無く私にはそう思えます。そう見えるからです。多分、これが一番『難しい』事だからでしょう。詰まり、これが一番尊く価値の有る事だからでしょう。
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『好きだから、続ける』、それでも可いのですが、その『好き』は、時と共に失せるかも知れません。色褪せるかも知れません。あなたのその『好き』の根元には、何が在りますか。その『好き』は、何から生えていますか。そこが大事なのです。
使命感に裏付けられていない好きは途絶えます。永続しません。恰も恋心の如くにです。更に謂うならば、使命『感』ではありません。使命の自覚、覚悟にまで固まったその意識に俟って、初めて地上で終わらない次元での永続性をもつのです。それは終わりません。尽きる事がありません。私はそういうものでなければ自分の心を委ねる気持ちにはなれません。
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