その十八
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自分の事を何の取柄も無い人間だと思うなら、それでも可いではありませんか。実際には何の取柄も無い人間というのは探して見付ける方が難しいものだと私は思っていますが、それでも自覚としてそうなのであればそれでも可いです。取り柄無しの自分とて、そのままで人の中に出て行って下さい。
上手くやろうと思うから、成功しなければならぬと思うから、難しいのです。自分には到底乗り越える事の出来ない困難が予想されるのです。上手くやる必要も成功する必要も無いのです。必要があるのはただあなたが『生きて行く事』だけではありませんか。それを許さない世界ではないと思います。そしてその中でこそ真実に揺るぎない、浮ついたものではない生きる目標を見出せるのではありませんか。
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拒絶はいい加減にではなく、しっかり、断固、拒絶しましょう。この俺様がどうして御前の言いなりにならねばならんのかと、まるで下賤の者に対等に話し掛けられた高貴な身分の人間の様に怒りましょう。何もそこまで言わなくてもと周囲の人間が此方を宥めに来る程に言い放ちましょう。気持ち良いですよ。私の経験だと、まるで自分が本当に高貴な身分であるかの様な錯覚がやって来ます。まあ何というのか、それ程にちゃんと拒絶しましょう。
私が言いたいのは、拒絶は自分自身を発揮する為のまたと無い機会であるという事です。それは人前で自分の意見を公表する事の一環です。その場は自分の為のステージなのです。断固自身の意見を表明して、あなたという人間が如何なる人間であるかを公然明示しましょう。善いものが近付いて来ると思いますから。
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堅実に、直接に他の誰かに生活を負う事無く生きている人、立派ですね。そうなのですが、実は私、それだけなのであれば立派とは思っていないのです。その事だけであれば実現している人は少なくありません。そして確かに経済的には自立して生き暮らしながら、自分の動物的な欲求だけに忠実に生きるのです。誰にも物質的金銭的に依拠してはいません。しかし自分の直接の利益にならぬ事は絶対にしないし心を用いる事をしません。そういう人間でも矢張、依然として、『直接に他の誰かに生活を負う事無く生きている人』です。だからです。そういう人間を複数知っているからです。その故にそれだけでは立派とは思えないのです。
人が立派なのは経済的に自立出来ているか否かに関係がありません。これはそういう事情で決まる事ではないのです。全然別の事で決まります。托鉢に町を歩く御坊様を如何に見ますか。あれある故に御坊様を経済的に自立していないと謂えますか。そんな事を言う人は多分居ないでしょう。また強いて経済的に自立していないと見た場合でも、その場合の経済的な自立というのはそれ程大事で尊敬を置くに値するものでしょうか。人間が人間として高い次元に居ると謂えるのは、使命を把握していて尚且つその使命を果たす事の為に生活を捧げている時なのです。生きるのであればそれを目指すべきではないでしょうか。眼中に在るのはその事であるべきでしょう。そしてその目的に漸近する為に有用なのであれば、自己の経済的自立も果たせば良い、そういう事なのだと私は思っています。
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「ええい、何うにでもなれ」
その動機が問題です。その背景如何でこのやけっぱちは善しとも悪しとも判ぜられます。如何なる動機で沈着な論理的思考を放擲するのですか。それは自分の保身が気に掛かっているのですか。その不安を『何うにでもなれ』と投げ捨てるのならば、それは大したものであり賞賛に値します。けれども例えば自分自身以外の人間の生活を支えている立場の自分がその事を真剣に考えるのが面倒になってこの言葉を発するというのであれば、それは『ふざけんな』という事になります。理の当然です。背負っている他人のものまでも何うなっても構わんとて投げ捨てる神経の何処に酌量すべき事情を見出せますか。
思考を停止するのが一概に悪い訳ではありません。人間がこの世を生きているのです。最後は論理的思考ではないのが当然でしょう。最後は自分の信念です。しかし最後に頼った自分の信念の威力が本当に発揮される為に、文字通り人事を尽くす必要があります。人事を尽くしてから天命を待って下さい。人事を尽くしてから、ですよ。何等人事を尽くさずにいきなり天命を待つ人間にその天命が降りて来るものかどうか、普通の人の頭で十分分かるでしょう。
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