その一
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身体の休養は何も動かない事眠る事でとる事が出来ます。しかし精神、心の休養はそうは行きません。仕事にも何にも縛られず自由な時間が長く続く状況に於いても、既に心満たされていなければその自由な時間は拷問に変じます。精神の休息、心の休養は、何もせず眠る事に拠っては得られません。却って生き甲斐に沿って『働く』ところに得られるのです。
そうではありませんか。これはその自由時間以前に自分が自分の力を注ぎ込む事が出来るものを見出しているか否かに拠る話です。それを見出しているならば、額に汗して身体を動かし働きながらでも休みが得られます。それを先ず第一番に獲得すべき、探すべきです。探して下さい。出来れば家の中で本を読む事に拠ってではなく、外に出掛ける事に拠って。外で黙って、恐ろしく地味な仕事をずっと続ける人間を見る事に拠って。
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投資に生活を賭けている人は大変だと思います。刻々変わる世界の情勢、それも新聞やニュースで報じられる大きな動きのみならず、相当に細分化した分野を幾つも幾つも調べ上げ、且つその変動を注視しなければならないからです。専門職という言葉が似合いますね。専門的な事に埋もれるのです。そして実際、その一瞬の判断が巨大な損益の分岐点になるのです。
私自身がそうではないので飽迄想像なのですが、投資で生活している人の一番大きな特徴は投資以外の事を全くする余裕が無いという事なのではないでしょうか。人生が即投資なのです。いや、無論最初からそうだった訳ではないのでしょうが、その道に入ってから後が本当にそうなって仕舞ったのではないかと思うのです。それは私に謂わせれば最早人間の暮らし、人生ではありません。心が不要なのです。情報と頭脳だけしか要りません。それだけを使って、酷使して、老人になるのです。私はそんな道は断じて選びません。それは私の愛する父が生きた生き方ではありませんから。父はもっと人間らしかった。心で生きていましたから。
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『笑う事が少ない。いや、無い』
大人になり、もう或る程度の年数生きてきているのです。自分に於いても他人に於いても納得出来ない、理不尽な解決しか無かった事を幾つも目にしてきているでしょう。更にこの不確定な時代をまだこの先を暫く生きていかなければなりません。それらを皆忘れて心の底から笑う事が出来ない、そういう機会が滅多に無いのは、寧ろ『自然』と謂うべきではないでしょうか。だから私は笑う事が少ない事に就いては、さして『問題』とは思いません。悲しい事ですが、それでもそれは或る程度自然だからです。
しかしこれに対して泣く事が少ない事に就いては、あからさまに、明白に、即座に、良くないものを感じます。人間なのです。心が働いている筈です。なのに泣く事が少ないというのは一体如何なる理由ですか。それは健康ではありません。その涙無きは悲しい事が無いそれではないでしょう。感じる事の浅き薄きに拠るのではないですか。だから人として健康ではないのです。恐れず、遠慮せず、泣いて下さい。泣く事が出来ている間は、まだ大丈夫です。人間らしい心がしっかりと働いている事の証拠だからです。
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視野を広げるというのは世界の政治情勢や経済動向を知る事ではありません。また新聞の社会面に毎日目を通す事でもなければ本を沢山読む事でもありません。これらは皆視野を広げる為に『多少とも役立つ』事であるというだけで、これらのうちの単独又は複数の何れかに打ち込んだらそれでその人の視野が広がる訳ではありません。恰も栄養素の多い食物を摂取しまくったら身体強健になると考える様なものだと思います。身体を鍛える事は何処に行った、そして抑々(そもそも)身体を鍛えて何をしたいのかという大前提だる『目的』は何なのですか、という訳です。
一番直接的に、人間の視野を広げる行動とは何か。色々な見方が出来ると思いますが、私は『他の人と共に生きる』事だと思います。その人の立場に自分も立ってみるという事であると思います。自分はまだ若くてすたすた歩ける。でも車椅子の人にはそれが当たり前には出来ない、普通の高さに在るスイッチを一人では操作出来ない、更には万一坂道を登っている途中で苦しくなり意識を失った場合、車椅子が逆行で加速して坂を下り、そのまま十分に命の危険がある場合になるという事を実感として知るのです。
或いは若い自分が『未来に希望をもとう』と思って自分を元気付ける。結構です。それで良いでしょう。でもそれを八十代後半の人にそのまま言う訳には行きません。そういう年齢で既に散歩も難しくなっている人のお世話を、少しでも可いからやってみましょう。すると何がそういう年代の人にとっての慰め喜びになるのかを、そしてそういう人に相対するに絶対に忘れてはならないものが何なのかを、聊かでも知る事が出来るでしょう。
他にも幾らでもあります。親が子供を可愛がらない、却って暴力を振るう。親の雇用が不安定で徹底的に家庭が貧しい。衣服は何とかなっているが、病院に行く事が出来ない。諸々、諸々です。そういう『自分ではない立場』の人の生活に関わるのです。意識的意図的に関与するのです。その時、自分以外の人間の立場を実感をもって、自分自身の事として受け留める事が出来る様になるのです。これが自分の視野を広げるという事であると私は思います。ニュースを見るのも新聞を読むのも専門書で信頼出来る情報に即して勉強研究するのもその後です。それは核心に在る自分のこの体験、この実感を補完する事が出来るだけのものです。誰でも可い訳ではありません。そんな、自分の事しか考えない、自分の利益だけしか視ていないあほんだらの立場になんか立ってやる必要はありません。一目見るなり後足で砂をかけてやれば宜しい。でも、視野を広げる事は必要です。何故なら多くの人の人生には、何うしても他者が必要だからです。
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