第五章:境界線のハレーション
インターハイ予選での、息詰まるような激闘から数日が過ぎ、季節は深まりゆく秋から、冬の気配がすぐそこまで近づいていることを感じさせる頃。
学校中が一年で最も活気づき、生徒たちのエネルギーが最高潮に達する文化祭当日がやってきた。
校内は、普段の、規則と静寂に支配された厳粛な雰囲気が嘘のように、各クラスや部活動が、それぞれの個性を爆発させるかのように趣向を凝らした色とりどりの装飾で飾り付けられ、思い思いの奇抜な仮装をした生徒たちの、弾けるような笑顔と、抑えきれないほどの高揚感に満ちた笑い声、そして様々な模擬店やイベントの、熱のこもった客引きや呼び込みの声で溢れかえり、まさにお祭り騒ぎといった、非日常的で、少しだけ浮かれたような活気と高揚感に、校舎全体が包まれていた。
「いらっしゃいませー! 安くて美味しい焼きそば、いかがですかー!」
「お化け屋敷、絶賛開催中! 怖いの保証します! 泣いても知りませんよー!」
正門から校舎へと続くメインストリートには、手作りのカラフルな看板や、風に揺れる無数の風船が並び、甘ったるい綿菓子の匂いや、ソースの香ばしい匂いが漂ってくる。
どこもかしこも、人、人、人。その喧騒は、少しだけ俺を疲れさせた。
そんな喧騒の中心から少しだけ離れた、校舎の北側の、比較的静かで人通りの少ない、少し寂しいとも言える場所に、図書委員会のささやかで地味なブースは設けられていた。
机の上には、昨日、市内の印刷所から届いたばかりの、まだインクの独特の匂いが真新しい、出来立てほやほやの文芸誌『青藍』の最新号が、丁寧に、しかし少しだけ誇らしげに積み上げられていた。
今年の文芸誌の表紙には、俺が夏休みの早朝に、近所の小高い丘の上から撮った、朝焼けの淡い光に美しく染まる、グラデーションの空の写真が採用されていた。顧問の古賀先生が、俺が提出した何枚かの写真の中から、「これが一番、青春の青さを感じさせる」と言って、選んでくれたのだ。
自分の写真が、多くの人の目に触れる冊子の表紙になるというのは、想像以上に気恥ずかしく、そして嬉しいものだった。
そして、その文芸誌の中程のページ。
自分の小説『境界線のハレーション』が、初めて、インクの匂いを伴う「活字」となって印刷されたページを、少しだけ震える指先でそっとなぞるのは、想像していた以上に照れくさく、自分の内面をさらけ出してしまったような、激しい気恥ずかしさがあった。
しかし、同時に、何か自分の中で大きな壁を一つ乗り越え、小さなことかもしれないが、何かを確かに成し遂げたような、これまでに感じたことのない種類の、静かで、しかし確かな誇らしい気持ちも、確かにそこにあった。
ブースを訪れた生徒たちが、予想外に多く、この地味で目立たない文芸誌を手に取り、
「へえ、あのいつも教室の隅で静かに本読んでる照井が、こんな切ない恋愛小説みたいなの書くんだ。超意外だな。やるじゃん」
「おい照井、これ、読んだけどさ、結構、胸に刺さったぞ。最後とか、ちょっと泣きそうになったわ。もしかして、この主人公って、お前のことだろ? で、ヒロインはさ…やっぱり、あの子のこと、だよな?」
などと、同じクラスのクラスメイトや、顔見知り程度の友人たちに、面白半分に、あるいは少しだけ真剣な表情で感想を伝えられたり、からかわれたりもしたが、不思議と、以前のような、心を閉ざしたくなるような嫌な気はしなかった。
むしろ、ずっと自分の内側に、誰にも見せずにしまい込んできたものを、ようやく少しだけ、外の世界に向けて、震える手で差し出すことができたような、すがすがしい解放感と、ささやかではあるが、確かな達成感さえ感じていた。
勇気を出して、あの時、一歩踏み出してよかった、と心から思った。
古賀先生と、そして、あの夕暮れの図書室で、俺の背中を押してくれた彼女に、感謝しなければならない。
「やっほー、照井くん! 文芸誌、もらいに来たよ! 約束通り!」
クラスの出し物である、大盛況だったらしいお化け屋敷の、脅かし役としての自分のシフトを終え、脅かしすぎたせいか、少しやつれたような、しかしやりきった満足そうな顔で(本人曰く、脅かし役としてかなり本気で頑張り、多くの生徒の悲鳴と涙を引き出したらしい)、日向咲葵が、他の友人たちと一緒に、図書委員会のブースにふらりとやってきた。
顔にはまだ、お化け役用の、少し不気味なメイクがうっすらと残っているのが、なんだかおかしくて、少し笑ってしまった。
彼女は、ブースに並べられた他の展示物や、他の委員が手作りした可愛らしい栞などにはほとんど目もくれず、一直線に文芸誌の山に向かい、まるで最初からそれが唯一の目的だったかのように、迷わず一冊を手に取った。
そして、近くにいた友人たちに「ちょっと先に行ってて」と断ると、ブースの隅に置かれていたパイプ椅子に、すとんと深く腰を下ろし、少し緊張したような、真剣な、そしてどこか期待に満ちた表情で、ゆっくりと、一文字一文字を確かめるように、ページをめくり始めた。
俺の小説『境界線のハレーション』のタイトルが印刷されたページで、彼女の指が、ぴたりと止まる。
俺は、ブースのカウンターの陰に隠れるようにして、少し離れた場所から、他の文芸誌を整理するふりをしながら、内心では、自分の心臓が喉から飛び出してしまいそうなくらいドキドキしながら、彼女の反応を、固唾を飲んで、息を殺して見守っていた。
俺が書いた、あの拙い小説の中には、俺が図書室の窓から、いつもこっそりと、しかし憧れの気持ちを持って見ていた、練習にひたむきに打ち込む彼女の美しい姿、彼女が好きだと言っていた、あの風景写真家の撮るような、どこまでも広がり、全てを包み込むような優しい空の描写、そして、あの忘れられない、夕暮れの図書室で、彼女が俺にだけ、涙ながらに打ち明けてくれた、セッターとしての深い悩みや葛藤に対する、不器用で、回りくどい、俺なりの精一杯の、そして心からの答えのような言葉を、物語の中にそっと、誰にも気づかれないように、主人公のモノローグや、情景描写の中に、慎重にカモフラージュしながら紛れ込ませていたつもりだった。
彼女に、この物語に込めた俺の秘めた、名前のない想いが、ちゃんと伝わるだろうか。
いや、別にストレートに伝わらなくてもいいのかもしれない。そんなおこがましいことは望んでいない。
ただ、俺が彼女をずっと見ていたこと、彼女の言葉や、その存在そのものに、俺の心は大きく動かされ、勇気づけられ、そして救われたという、その紛れもない事実が、この『境界線のハレーション』という物語の形になって、彼女の元に無事に届けば、それだけで、俺にとってはもう十分すぎるのかもしれない、とも思っていた。
一ページ、また一ページと、物語の展開を追うように、ゆっくりと、そしてとても丁寧に読み進める咲葵。
その表情は真剣そのもので、時折、小さく息を呑むような気配や、眉根を寄せるような仕草が、少し離れた場所にいる俺にも、静かなブースの中に痛いほど伝わってくる。
俺は、自分の心臓の、ドクン、ドクン、という大きな音が、彼女に聞こえてしまうのではないかと、本気で心配になるほどだった。
時間が、永遠のように長く感じられた。
そして、物語の最後のページ、最後の行を読み終えると、彼女はしばらくの間、文芸誌から顔を上げることができなかった。
俯いたまま、微動だにせず、じっとしている。
その華奢な肩が、ほんの微かに、しかし確実に、小刻みに震えているように見えた。
泣いているのだろうか? それとも、怒っているのだろうか?
俺の心臓は、期待と、それ以上に大きな不安で、今にも張り裂けそうなくらい、大きく、そして激しくドクドクと音を立てている。
やがて、彼女はゆっくりと、まるで重い瞼を持ち上げるかのように、顔を上げた。
その大きな、吸い込まれそうなほど美しい瞳は、やはり涙で潤んでいて、まるで夕焼けの空のように、赤く染まっていた。
しかし、その表情は、悲しみや怒りではなく、むしろ、深い感動と、何か温かいものを受け取ったかのような、穏やかさに満ちているように見えた。
彼女は静かに立ち上がり、一歩、また一歩と、まっすぐに、俺が立っているカウンターのもとへと、躊躇うことなく歩いてきた。
周りの、あれほど騒がしかった文化祭の喧騒が、まるでボリュームを最小限まで絞ったかのように嘘のように遠のいていき、この瞬間、世界に俺と彼女の二人しか存在しないような、不思議で、濃密で、そして少しだけ神聖な感覚に包まれた。
「照井くん…」
彼女の声は、抑えようのない感情で、少しだけ震えていた。
「読んだよ…。全部、ちゃんと読んだ。一文字も飛ばさずに」
「…これ…やっぱり、私のこと、だよね?」
「あの時の、夕暮れの図書室での会話も、私が好きだって言った、あの空のことも…私が一人で悩んでたことも…全部、全部、この中に書いてあった…優しく、書いてあった…」
俺は、言葉を発することができず、ただ、こくりと、しかし強く、彼女の問いかけを肯定するように頷くことしかできなかった。
心臓が、肋骨を突き破って、口から飛び出してしまいそうなくらい、大きく、そして速く脈打っている。
顔が、耳まで真っ赤になっているのが自分でもはっきりと分かった。俯いて、彼女の顔をまともに見ることができない。
「…見ててくれたんだね。私のこと。ずっと」
「私が一人で勝手に悩んでたことも、必死で、もがいて頑張ってたことも、全部…」
「ずっと…、あの図書室の窓から、遠くから、静かに、応援してくれてたんだね」
咲葵の透き通った白い頬を、一筋の熱い涙が、きらりと光りながら、ゆっくりと伝った。
「ありがとう。本当に、本当に、ありがとう」
「すごく…すごく、嬉しかった。心が震えた」
「あの時、照井くんが隣に座ってくれて、私の話をただ黙って聞いてくれて、そしてかけてくれた言葉に、私、本当に救われたんだよ」
「あの言葉があったから、私は澪ともちゃんと正直に話せたし、最後まで前を向いて、諦めずに戦うことができたんだと思う。だから、ありがとう」
その涙は、決して敗北の悲しみや悔しさの色ではなく、温かくて、優しくて、そして心の底からの、深い感動の色をしていた。
俺は、自分の拙い、不器用で、回りくどい言葉が、誰にも打ち明けられずにずっと胸の中に秘めていた想いが、確かに彼女の心に届いたことを知り、胸がいっぱいになった。
言葉にならない、熱い感情が、堰を切ったように込み上げてきて、視界が急速に滲んだ。
同時に、彼女の存在そのものが、彼女が何気なくかけてくれた言葉が、俺にとってどれほどの眩しい光となり、前に進むための勇気となり、そして孤独からの救いになっていたかを、改めて、そして深く、思い知らされた。
俺たちはきっと、互いに気づかないうちに、互いに見えないエールを、ずっと、ずっと送り合っていたのかもしれない。境界線を越えて。
文化祭の喧騒も、まるで遠い夢のように過ぎ去り、後夜祭で燃え盛ったキャンプファイヤーの残り火が、名残惜しそうにパチパチと微かな音を立てて燻る、文化祭の後片付けの日。
夕暮れ時の、がらんとした、祭りの後の静けさが漂う図書室で、山積みになった返却本を黙々と整理していた俺と、クラスで使った備品を返しに来た咲葵は、まるで運命の糸に手繰り寄せられたかのように、偶然、二人きりになった。
他の図書委員や、まだ残っていた生徒たちも、後片付けを早々に終えてもう帰ってしまい、広い図書室には、窓から差し込む夕暮れの優しい光と、心地よい、そして少しだけ甘酸っぱい静寂だけが満ちていた。
窓から差し込む低い角度の、柔らかなオレンジ色の西日が、空気中に静かに舞う細かな埃の粒子をキラキラと金色に照らし出し、高い本棚や、古い木の机の影を、リノリウムの床に長く、濃く落としている。
まるで、世界全体が、俺たちのこの、特別な瞬間を祝福するかのように、優しい光のハレーションを起こしているようだ。
開け放たれた窓からは、もうすっかり秋めいて、冬の訪れが近いことを感じさせる、ひんやりと澄んだ、清浄な空気が、心地よく流れ込んできた。
遠くから、運動部の掛け声が微かに聞こえる。
「あの…先日は、インターハイ予選の応援、わざわざ会場まで来てくれて、本当にありがとう。スタンドに照井くんがいるの見えた時、すごく驚いたけど、すごく力になったんだ。勇気をもらえた」
先に沈黙を破り、切り出したのは、意外にも俺の方だった。
自分でも驚くほど、以前よりもずっと自然に言葉が出てきた。それでも、緊張で少しだけ声が震えるのが自分でも分かったが、もうそれを隠そうとは思わなかった。
「日向さんたちが、最後まで諦めないで、チーム一丸となって、必死にボールを追いかけて戦ってる姿を見て、俺も、自分の殻に閉じこもって、言い訳ばかりしてちゃダメだって、自分の小説を最後までちゃんと書こうって、そして文芸誌に載せようって、最後の決心がついたんだ」
「だから、お礼を言うのは、本当はこっちの方なんだよ。勇気をくれて、本当にありがとう」
「ううん、そんなことないよ。私もだよ」
咲葵は少しはにかみながら、頬をほんのりと赤らめ、しかし次の瞬間、真っ直ぐに俺の目を見て、はっきりと、そして春の陽だまりのように優しい声で答えてくれた。
「照井くんが、あの観客席にいるのが見えた時、すごくびっくりしたけど、同時に、すごくすごく心強かったんだよ。『ああ、私、一人じゃないんだ』って、『見ててくれる人が、ちゃんといるんだ』って、心の底から思えたから」
「…それに、あの小説、『境界線のハレーション』、本当に、本当に好き。感動した。何度も何度も読み返しちゃった。私の宝物にするね」
「なんて言ったらいいのかな…読んだ後、胸の奥の方がね、まるで夏の終わりに、キンキンに冷えた瓶のラムネを一気に飲んだ時みたいに、しゅわしゅわーってなって、少しだけ切ないんだけど、でも、すごく、すごく、あったかくなったんだ。サイダーみたいに、きらきらしてた」
明確な、「好きだ」という、恋愛感情を示す告白の言葉は、まだ、どちらからもない。
けれど、交わされた視線の中に、重ねられた言葉の優しい響きの中に、お互いへの、他の誰にも向けられない特別な、そしてこれからゆっくりと、大切に育てていきたいと願う、淡く、しかし確かな想いが、静かに、しかし確かに伝わるのを、俺は感じていた。
ファインダー越しに、遠くから、ただ憧れの気持ちで眺めているだけだった、あの眩しすぎる、手の届かない太陽のような光が、今、すぐ隣で、俺のためだけに、こんなにも柔らかく、優しく、慈しむように微笑んでいる。
物理的な距離も、そして何よりも、心の距離も、あの、出会ったばかりの、五月の新緑が眩しかった春の日からは考えられないほど、確かに、そして劇的に縮まっている。
俺が描き出そうとして、そして乗り越えようとした『見えない境界線』は、いつの間にか、俺と彼女の二人を優しく、そして温かく繋ぐ、美しい光の輪、『境界線のハレーション』へと、静かに、そして美しく変わっていたのかもしれない。
(いつか、必ず。この胸の中にある、温かくて、少しだけ切なくて、そして炭酸の泡みたいに、止めどなく弾ける、このサイダーみたいな気持ちを。自分の言葉で、ちゃんと、彼女に伝えなければ)
夕暮れの深い静寂に優しく包まれた図書室に、俺と彼女の、二人分の穏やかな、そして少しだけ速い呼吸の音だけが、優しく、そして親密に響いている。
まだ輪郭のはっきりしない、不確かだけれど希望に満ちた未来への微かな予感と、始まったばかりのこの特別な関係性がもたらす、甘酸っぱくて、くすぐったいような、そして胸を締め付けるような温かさを、胸の中にそっと、壊れないように、大切に抱きしめながら、俺たちはそれぞれの場所で、それぞれの夢に向かって、きっとまた新しい、今日までとは違う一歩を、踏み出すのだろう。
一人ではなく、二人で。
窓の外を見上げると、深い藍色に染まった、吸い込まれそうなほど美しい夜空に、ひときわ明るい一番星が、冬の近い、澄み切った大気の中で、まるで俺たちの未来を、静かに、しかし力強く照らすかのように、強く、そして美しく瞬き始めていた。
それはまるで、これから始まる、俺と彼女の、まだ誰も知らない、新しい物語の、ささやかな、そして希望に満ちた、確かな道しるべのようだった。
(了)




