第四章:ファインダー越しのエール
秋晴れの空気が澄み渡る、十月のある週末。
いよいよ、春高バレーの県予選当日がやってきた。
会場となったのは、隣町の、県内でも最大級の規模を誇る、近代的で大きな総合体育館だ。
朝早くから、各出場校の選手たちや、応援団、保護者、そして熱心な高校バレーボールファンでごった返し、普段はがらんとしているであろう広い体育館は、独特の、むせ返るような熱気と、試合開始前から張り詰めた、ピリピリとした緊張感に包まれていた。
あれほど文芸誌への掲載を逡巡し、悩み抜き、自分の殻に閉じこもっていた俺が、あの夕暮れの図書室での出来事をきっかけに、まるで何かに憑かれたように締め切りギリギリまで推敲を重ねて、なんとか小説『境界線のハレーション』を完成させ、無事に文芸誌の印刷所への入稿を終えた。
そして今は、クラスメイトであり、悪友でもある高瀬颯太と一緒に、会場の観客席二階の、コート全体が比較的見やすい場所に座って、試合開始を待っている。
自分でも、この数ヶ月間の自身の変化に、正直驚いていた。数ヶ月前の、図書室の窓際でただ本を読んでいるだけだった自分には、到底考えられない行動力と、心境の変化だった。
「いやー、しかしマジで驚いたぜ。あの超絶インドア派の照井淳弥様が、わざわざ休日に、こんな人でごった返す、汗臭い体育館の中にまで応援に来るなんてな」
「こりゃ、明日は槍でも降るんじゃねーの? それとも、やっぱりお目当ては、噂のあの子か? 日向さんか? ん? 白状しろよ」
隣で、まるで映画館にでもいるかのように、大きな紙コップに入ったポップコーンを、バリボリとわざとらしく大きな音を立てながら頬張り、ニヤニヤと、全てお見通しだと言わんばかりの、いやらしい笑みを浮かべてからかってくる颯太。
俺は、軽く肘で彼の脇腹を突きながら、「うるさい。同じクラスの、クラスメイトの応援に来ただけだ。それ以上でも、それ以下でもない」とだけ、ぶっきらぼうに返して、熱気に満ちたコートの方へと視線を向けた。
まあ、彼の言うことは、その通り、あながち間違いではないのだが、それを素直に認めるのは、まだ何となく癪だった。
体育館全体を包む、独特の熱気と、張り詰めた空気。肌を刺すような緊張感。
各校の応援団が繰り出す、地鳴りのような、割れんばかりの大声援と、力強いブラスバンドの演奏、揃いのユニフォームを着たチアリーダーの甲高い掛け声。
そして、コート上でウォーミングアップをする選手たちが発する、気合の入った叫び、シューズが磨かれた床を擦る、キュッ、キュッという鋭いスキール音、ボールがコートを激しく叩きつける、乾いた打撃音。
普段、あの静かな図書室の、分厚い窓ガラス越しに、まるで音のないサイレント映画のように見ていた光景とは全く違う、五感を直接、激しく揺さぶるような圧倒的な臨場感と、剥き出しの、純粋なエネルギーの巨大な渦。
それに、俺は少しだけ気圧されそうになるのを感じていた。
ここは、図書室とは全く違う、勝負の世界なのだ。
「うおー! いよいよ始まった! うちのクラス、がんばれー! 日向ー! 澪ー!」
隣で颯太が、ポップコーンを放り出して立ち上がり、声を張り上げて叫ぶ。
コートの中央で、キャプテンマークと、エースセッターを示す背番号1をつけた、鮮やかなブルーのユニフォーム姿の日向咲葵は、普段教室で見る、少しおっとりした彼女や、図書室で話す時の、親しみやすい彼女とは全く別人のように、凛々しく、頼もしく、そしてやはり、他のどの選手よりも、目が眩むほどに輝いて見えた。
コート上で、チームメイト一人ひとりに的確な指示を出し、自らも誰よりも大きな声を出してチーム全体を鼓舞する姿は、まさにチームの魂であり、冷静沈着な司令塔そのものだった。
「一本集中!」
「絶対取るぞ!」
「声出してこー!」
そして、その隣には、同じように強い決意をその涼やかな瞳に宿し、絶対的なエースとしての、揺るぎないオーラを放つ結城澪がいる。
二人の間には、もうあの日の練習中に見たような、痛々しいほどの気まずさや、互いへの不信感のようなわだかまりは、微塵も感じられない。
試合前のウォーミングアップ中も、時折、ふと視線を交わし、小さく、しかし深く頷き合うだけで、互いの考えていることや、次のプレーの意図が、まるでテレパシーのように瞬時に通じ合っているのが、遠く離れた観客席から見ていてもはっきりと分かった。
二人は、あの苦しい時間を乗り越えて、さらに強く、深く、結びついたのだ。その事実が、俺の胸を熱くした。
試合が始まると、完全復活を遂げた二人の、息の合った黄金コンビネーションは、序盤から相手チームを翻弄し、次々と効果的な得点を重ねていく。
咲葵の上げる、まるで糸を引くように正確無比で、アタッカーが最も打ちやすい高さとスピードの、完璧なポイントを寸分違わず捉えたトスを、澪が持ち前の、並外れた高いジャンプ力と、男子選手並みのパワーで、相手コートの、がら空きになったスペースへと、強烈に、容赦なく叩き込む。
「よっしゃー! ナイスコンビ! すごい!」
「咲葵! 澪! いいぞー! その調子だ!」
その度に、会場の、我が校の応援席からは、地鳴りのような、割れんばかりの大きな歓声と、嵐のような拍手が沸き起こった。
俺も、思わず立ち上がり、声には出さないまでも、力強く拳を握りしめていた。
しかし、今日の初戦の対戦相手は、去年のこの県大会でベスト4に進出した、優勝候補の一角とされる、伝統ある強豪校だ。百戦錬磨の古豪が、そう簡単に、このまま一方的な試合展開で勝たせてくれるはずはなかった。
試合の中盤以降、相手チームも、キャプテンを中心とした、粘り強く、執念深いレシーブと、セッターの巧みなゲームメイクによる多彩な攻撃パターンで猛然と反撃を開始し、試合は、多くの観客が予想した通り、一点を取り、取られては取り返す、一進一退の、息も詰まるような、緊迫した接戦となった。
互いに一歩も譲らない、まさに手に汗握る、緊迫したシーソーゲームが、延々と、終わりが見えないかのように続いていく。
「くそー、しぶといな、相手も。なかなか崩れない」
「頑張れ! ここが踏ん張りどころだぞ! 気持ちで負けるな!」
応援席のボルテージも、最高潮に達している。
苦しい場面が続く。デュースが繰り返され、両チームともタイムアウトを取り、選手たちがベンチへと戻ってきた時だった。
ベンチに座り、タオルで滝のように流れる汗を拭いながら、肩で大きく、苦しそうに息をする咲葵が、ふと、多くの観客で埋め尽くされたスタンド席の方に、何かを探すように視線を向けた。
そして、大勢の人混みの中にいた、クラスメイトたちに紛れていた俺の姿を捉えると、ほんの一瞬、驚いたように大きく目を見開き、すぐに次の瞬間、小さく、しかしはっきりと、力強く頷いてみせた――ような気がした。
いや、気のせいではない、確かに彼女は俺を見て、頷いたのだ。
その瞬間、俺と彼女の間に、言葉を超えた、目には見えないけれど確かに存在する、特別な何かが、まるで細い光の糸のように、すっと通じ合ったような気がした。
俺は、周りの生徒たちのように大声で名前を叫んで声援を送る代わりに、ただ真っ直ぐに、静かに、しかし心の底からの、ありったけの力強い眼差しで、コート上の彼女を見つめ返した。
心の中で、強く、強く念じた。
――大丈夫だ、君なら絶対にできる。俺は、ずっと君を見てきたから、分かる。
――最後まで、君と、君のチームを信じてる。俺が見てるから。
言葉にならない、俺なりの精一杯の、そして最大限の、静かなエールを送る。届け、この想い。
咲葵はコートに向き直り、深く、大きく息を吸って、そして吐いた。
その真剣な横顔には、もう先ほどまでの、ほんのわずかに見えた迷いの色は、どこにも見当たらなかった。
彼女の瞳には、再び強い決意の光が宿っていた。
そこからの日向咲葵は、まるで何かに憑かれたかのように、あるいは何かから解き放たれたかのように、驚くほどの冷静さと、研ぎ澄まされた集中力で、コート上の絶対的な指揮官として、仲間たちを信頼し、的確な指示と、力強い声で鼓舞し、そして自らは精密機械のように、寸分の狂いもない正確無比なトスを、アタッカーたち一人ひとりの特性に合わせて、的確に上げ続ける。
時に意表を突く、サインプレーによるクイック攻撃や、相手のタイミングを外すトリッキーなツーアタック、あるいはフェイントを効果的に混ぜ込み、相手ブロッカーを巧みに翻弄し、アタッカーが最も力を発揮できる、最高の打点へと、彼女の細く、しなやかな指先から放たれるボールは、まるで彼女の熱い魂と、勝利への強い執念が宿っているかのように、寸分の狂いもなく、吸い込まれるようにアタッカーの手のひらへと届けられていく。
その姿は、神々しいとさえ思った。
そして、試合は、互いにセットを取り合い、最終セットまでもつれ込み、スコアはついに24対24、どちらが取れば勝利となる、デュースに突入した。
どちらが勝ってもおかしくない、極限の緊張感が、巨大な体育館全体を、息苦しいほどに支配する。
会場にいる誰もが固唾を飲んで、コート上の一点に、全ての神経を集中させて見守る中、相手エースの強烈なスパイクを、我が校のリベロが、執念で、床に滑り込みながら懸命に拾ったボールが、ややネット際に、しかしふわりと高く、咲葵の頭上へと上がった。
会場にいる誰もが、この土壇場の、最も重要な場面で、絶対的エースの澪へ、勝負を決めるトスが上がると確信した、その瞬間だった。
しかし、咲葵は、ネット越しに見える相手ブロッカー三人の動きを、まるでスローモーションのように冷静に見極め、全く逆の方向へ、意表を突く、しなやかで美しいバックトスを選択した。
その、まるで意志を持っているかのように見えたボールは、美しい放物線を描き、完全にノーマークとなっていたライトアタッカーの、高く振り上げられた右手のひらに、完璧に、吸い込まれるように収まった。
アタッカーが渾身の力で叩きつけたボールは、相手コートのど真ん中に、まるで小さな隕石が落下したかのように、バーン! という強烈な音を立てて突き刺さった。
勝利を確信した、割れんばかりの歓声が、応援席から上がりかけた、まさに、その時だった。
――かに、見えた。
しかし、ボールが着地したのは、無情にも、ほんの数センチ、わずかにサイドラインの外側だった。
非情にも、コートサイドにいた副審の赤い旗が、さっと上がり、そして主審のホイッスルが、長く、そして甲高く、体育館全体に鳴り響き、相手チームのポイントと、同時に、試合の終了を告げた。
電光掲示板に表示された最終スコアは、26対28。
あと一歩、本当に、本当にあと一歩及ばずの、あまりにも惜しい、そして残酷すぎるほどの敗北だった。
「うそ…だろ…今、入ってたように見えたのに…」
隣で颯太が、信じられないといった表情で、呆然と呟く。
その、全ての終わりを告げるホイッスルが鳴り響いた瞬間、コートに立っていた選手たちは、まるで全身の力が抜け、糸が切れたマリオネットのように、次々とその場に崩れ落ち、あるいは膝をつき、肩を震わせ、止めどなく溢れ出す悔し涙を流した。
咲葵も、コートに両膝をつき、しばらくの間、顔を上げることができなかった。その小さな背中が、小刻みに震えているのが、遠く離れた観客席からでも、痛いほどはっきりと分かった。
でも、彼女はすぐに、気丈にも立ち上がり、ネット際で同じように悔し涙に濡れ、呆然と立ち尽くす澪のもとへゆっくりと歩み寄り、言葉もなく、ただ強く、相手チームの健闘を称える温かい拍手の中で、固く、固く抱き合った。
「ナイス、咲葵。最高の、最高のトスだったよ。最後まで、お前のトスを、私は信じてた。本当に、ありがとう」
「澪こそ、すごかった! よく、最後まで諦めないで、打ち抜いてくれた! 本当にありがとう! …ごめんね、私のせいで、勝たせられなくて…ごめん…」
嗚咽混じりの、涙声で、それでも互いを懸命に称え合い、労い合う二人の声が、体育館の喧騒の中でも、わずかに俺の耳に届いた。
涙でぐしゃぐしゃになった彼女たちの笑顔は、敗北という結果がもたらした深い悔しさ以上に、自分たちの持てる力の全てを出し切ったという、一点の曇りもない清々しさと、三年間、苦楽を共にしてきたかけがえのない仲間への、深い感謝の気持ちに満ちていたように見えた。
俺はその光景を、ただ胸が熱く詰まるような思いで、息を止めて、瞬きもせずに、じっと見つめていた。
やはり、この瞬間も、俺はシャッターを切ることはできなかった。
この、あまりにも尊く、切なく、そして、敗北の中にあってもなお、眩しいほどに美しい瞬間は、ファインダー越しの冷たい四角いフレームに収めるべきものではなく、この自分の心の中に、温かい、そして決して色褪せることのない記憶として、直接焼き付けたかったからだ。
勝敗という、分かりやすい結果を超えた、彼女たちの間に存在する、誰にも壊すことのできない、確かな絆の輝きを、俺はきっと生涯忘れることはないだろう。そう、確信した。