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第三章:揺れる心と夕焼けの告白

九月も終わりに近づき、暦の上だけでなく、肌で感じる空気にも、ひんやりとした確かな秋の気配が色濃く感じられるようになった。

あれほどかまびすしかった蝉の声はいつしか遠のき、代わりに夜にはどこからか虫の音が聞こえてくる。

校庭の隅に、まるで古くからの主のようにどっしりと根を張る大きな銀杏の木の葉が、先端から少しずつ、しかし確実に鮮やかな黄色へとその色を変え始めていた。

グラウンドを吹き抜ける風も、夏の湿気をすっかり忘れ、どこか乾いた、高い空の匂いがする。


それと同時に、三年生にとっては、高校生活最後にして最大の目標となる、バレーボールの全日本高等学校選手権大会、通称「春高バレー」の県予選が、現実味を帯びた大きなプレッシャーとして、目前に迫ってきていた。

最後の大会。もう、次はない。

その言葉の重みが、校内の空気に静かな、しかし無視できない緊張感を漂わせ始めていた。


それに伴い、女子バレー部が日々の練習に汗を流す体育館に満ちる空気は、日増しにその密度を増し、まるで触れることができるかのように、目に見えてピリピリと張り詰めていった。

床を叩くボールの音も、シューズが床を擦る鋭い摩擦音も、夏休み前とは明らかに違う、どこか切迫した、研ぎ澄まされた響きを帯びている。

まるで、一本一本のプレーが、そのまま試合の結果に直結するかのような、極限の集中力が求められているようだった。


特に、チームの司令塔であり、精神的支柱でもあるキャプテンの日向咲葵にかかる精神的なプレッシャーは、傍目にも相当なものらしかった。

セッターというポジション特有の重圧、キャプテンとしてチーム全体を勝利に導かなければならないという強い責任感、そして、「これが本当に最後なんだ」という、否応なく募る焦り。

それらが複雑に絡み合い、彼女の心の中で大きな渦となっているのか、そのプレーには、以前にはほとんど見られなかったような精彩を欠く場面が、まるで水面に落ちたインクのように、少しずつ、しかし確実に目立つようになっていた。


他校との練習試合での、普段ならありえない簡単な連携ミス。

サーブレシーブが乱れた後の、難しい体勢からのトスが、無情にもネットにかかる。

あるいは、アタッカーとの呼吸が微妙に合わない、ほんの少しだけ乱れたトス。

普段の、常に冷静沈着で、まるで精密機械のように正確無比な彼女からは考えられないようなミスが、まるで水面に広がる不吉な波紋のように、ぽつり、ぽつりと現れ始めたのだ。

その度に、彼女自身が一番驚き、そして深く傷ついているのが、苦しいほど伝わってきた。


中でも、中学時代から苦楽を共にし、互いのことを誰よりも理解し、絶対的な信頼関係で結ばれているはずの、かけがえのない親友であり、チームの不動のエーススパイカーである結城澪との、阿吽の呼吸とも言える黄金コンビネーションが、微妙に、しかし確実に噛み合わないことが増えていた。

トスの高さが、ほんの数センチ合わない。

澪が跳躍するタイミングと、ボールが最高点に達するタイミングが、コンマ数秒ずれる。

二人の間に流れる、言葉にしなくても通じ合っていたはずの、あの特別な「空気」が、どこかギクシャクしている。

そのほんのわずかな、しかし試合の流れを大きく左右しかねない決定的なズレが、まるで精密機械の歯車に挟まった小さな砂粒のように、チーム全体の攻撃のリズムを少しずつ狂わせ、コート上に重く、不穏な影を落とし始めていた。

俺がいつものように、図書室の窓から固唾を飲んで眺める練習風景にも、夏休み前のような、溌剌とした明るさや活気が少しずつ失われ、代わりに焦りや苛立ち、そして不安のような空気が、じわりじわりと漂い始めているのが、手に取るように分かった。


「咲葵! 今のトス、全然低いって言ってるでしょ!」

「もっとしっかりとボールの下に入って、最後まで指先でボールを押し切って!」

「何回同じミス繰り返したら気が済むの! ちゃんと集中して!」


ある日の、ゲーム形式の実践的な練習中だった。

ついに、普段はあまり感情を表に出さず、常にクールで冷静沈着な印象の強い澪の、張り詰めていた堪忍袋の緒が、ぷつりと切れた。

普段の落ち着いた彼女からは想像もできないほど、鋭く、そして氷のように冷たい叱責の声が、体育館全体に突き刺さるように響き渡った。

その声に、ぴり、と空気が凍りつき、他の部員たちの動きも、まるで時間が止まったかのように一斉に止まった。

体育館の空気が、一瞬にして重く、冷たく、そして息苦しくなった。


「ご、ごめん…! すぐ、直すから! 次は…次は絶対に合わせるから!」


ネット際で、拾いかけたボールを落とし、立ち尽くした咲葵の声には、明らかな動揺と、焦りの色が滲んでいた。

そして、普段の、どんな時でも前向きで快活な彼女からは想像もできないほど、弱々しく、自信なさげに聞こえた。

それはまるで、嵐の中で道を見失い、迷子になってしまった子供のようだった。


「『次』じゃないんだよ!」

「この練習の一本一本が、本番の試合に繋がるんだって、何回言ったら分かるの!?」

「私たちは、もう後がないんだよ! 分かってるの!?」

「これが、最後の大会なんだよ! あんたがそんな調子じゃ、勝てるわけないでしょ!」


澪の言葉は、普段のクールな佇まいからは想像もできないほど感情的で、切実で、そして少しだけヒステリックにさえ聞こえた。

彼女もまた、この最後の大会にかける並々ならぬ想いと、長年のパートナーである咲葵への、誰よりも大きな期待を抱いているのだろう。

それだけに、今の、なかなか本来の調子を取り戻せない咲葵の姿と、噛み合わないコンビネーションの状況が、歯がゆく、もどかしくて仕方ないのかもしれない。期待が大きい分だけ、失望もまた大きいのだろう。


「わ、分かってるよ! そんなこと、澪に言われなくても、私が一番分かってる!」

「でも…! 澪だって、たまにはもっと早くブロックのフォローに入ってくれたっていいじゃない!」

「いつもいつも、難しいボールは全部、私一人に任せっきりにしないでよ!」


咲葵も、これまでずっと、心の奥底で押し殺してきたであろう感情が、ついに堰を切ったように溢れ出たように、声を荒げて、涙声で言い返す。

二人の間に、これまで俺が見たことのないような険悪で、冷え切った、修復不可能なほどの亀裂が入ってしまったかのような空気が流れる。

中学時代からずっと、最強のライバルであり、最高のパートナーとして、互いを高め合い、支え合ってきたはずの二人の間に生まれた亀裂は、俺が想像していた以上に深く、そして深刻なのかもしれない。


「…何よ、それ。結局、私のせいだって言いたいの? 私のプレーが悪いって?」


「そうは言ってない! けど…! もういい!」


他の部員たちは、ただ黙って、心配そうに、そして少し怯えたように、激しく言い争う二人を遠巻きに見つめるしかなかった。誰も、その間に割って入ることも、何かを言うこともできない。

重苦しい沈黙が、体育館を支配した。

結局、その日の練習は、その異常なほど重苦しく、気まずい雰囲気のまま、予定されていた時間よりもずっと早く切り上げられることになった。

まるで、何かが決定的に壊れてしまったかのように。


図書室の窓から、一人、俯いて、鉛のように重い足取りで、夕暮れの体育館の出口から出てくる咲葵の姿が見えた。

肩を落とし、とぼとぼと、まるで世界にたった一人取り残されてしまった迷子のように、力なく歩いている。

いつもは太陽のように、周りの空気まで明るく照らす彼女のオーラは完全に消え失せ、いつも凛と伸びているその背中は、今日はずっと小さく、頼りなく、そして見ているこちらまで胸が痛くなるほど、痛々しく見えた。

俺は、胸がまるで巨大な万力でぎゅっと締め付けられるような、切ない、どうしようもない思いで、ただ窓ガラス越しに、その孤独な後ろ姿を見送ることしかできなかった。

こんなにも打ちひしがれた彼女の姿を、あの冷たいカメラのファインダー越しに覗く気には、到底なれなかった。彼女の深い孤独と、言葉にならない悲しみを、写真という形で記録することなんて、今の俺には、絶対にできなかった。

それは、あまりにも残酷で、無神経な行為に思えた。


一方、そんな彼女の苦悩と葛藤を、安全な窓越しに目の当たりにしながらも、俺自身にも、もはや目を背けることのできない個人的な試練が、静かに、しかし確実に訪れていた。

毎年秋の文化祭で、伝統的に発行されている、図書委員会の手作り文芸誌『青藍せいらん』。

その編集作業が大詰めを迎える中、顧問であり、現代文を担当している、厳しいことで有名な国語教師の古賀先生が、俺が個人的に書き溜めていた小説『見えない境界線』のデータが保存されているUSBメモリを、俺がうっかり図書室のカウンターに置き忘れていたのを偶然見つけ、ほんの出来心というか、好奇心から中身を読んでしまったらしいのだ。


「おい、照井、これ、お前が書いたのか?」

「ちょっと読ませてもらったが、正直、驚いたぞ。これは、すごいじゃないか」

「特にこの主人公の内面の、繊細な心理描写、そして情景描写の瑞々しさ、読者をぐっと引き込む構成力がある。これは磨けば光る、間違いなく才能だ」

「ぜひ、今年の文芸誌の目玉として、この小説を載せてみないか。俺としては、巻頭に持ってきたいくらいだと思っているんだが、どうだ?」


放課後、他の生徒がほとんど帰ってしまい、がらんとした図書室で、思いがけず真剣な、そして有無を言わせぬような、普段の授業中とは違う熱意を込めた口調で、強く勧めてきたのだ。


その小説には、他ならぬ日向咲葵という、俺にとってあまりにも眩しすぎる、特別な存在に心を揺さぶられ、焦がれ、しかし近づくことのできない、俺自身の内面や、誰にも打ち明けたことのない複雑な葛藤が、自分でも気づかぬうちに、あまりにも色濃く、そして生々しく投影されてしまっている。

それを、クラスメイトや、他の生徒たち、もしかしたら、日向咲葵本人も含めた、不特定多数の人々の目に晒すことに対する、言いようのない恐怖と、まるで衆人環視の中で裸にされるような、激しい羞恥心は、俺が想像していた以上に大きく、鉛のように重く、俺の心を締め付けた。


「いえ、あの、俺なんかの、こんな拙い、未熟な小説…誰も読みたい人なんていないですよ」

「それに、これはまだ書きかけで、全然完成してませんし…とても、人様にお見せできるような代物じゃ…」


しどろもどろになって、情けない、バレバレの言い訳を並べて弱音を吐くと、隣でその一部始終を聞いていた颯太が、

「何、弱気なこと言ってんだよ、照井! あの鬼のように厳しい古賀先生が、そこまでベタ褒めするなんて、滅多にないことだぜ?」

「これは超ビッグチャンスじゃんか! もっと自信持てって!」

「俺もこの前、お前が席外してる間に、こっそりちょっと読ませてもらったけどさ、お前の文章、結構、グッとくるもんあったぜ? 特にあの、ヒロインの女の子の描写とか、なんか妙にリアルでさ…もしかして、あれって…」

と、いつものお気楽な調子で、しかしどこか本気で励ますように、俺の背中をバンバンと遠慮なく強く叩く。


「うるさい! 勝手に人のパソコン覗くなよ! プライバシーの侵害だぞ!」


しかし、彼の屈託のない励ましの言葉も、今の、頑なに固く閉ざされてしまった俺の心には、残念ながらあまり響かない。

文芸誌への掲載を決意するには、あまりにも、俺には勇気が足りなかった。

自分の最も個人的で、触れられたくない、脆くて弱い部分を、公衆の面前に、活字という形で曝け出すことへの抵抗感は、想像していた以上に、ずっとずっと強かったのだ。

人と深く関わることからずっと逃げ続け、自分だけの安全な殻の中に閉じこもってきた自分が、自分の内面の、ある意味すべてを、言葉という形で、不特定多数の人々に差し出すことなんて、本当にできるのだろうか。

その重い問いに対する答えは、すぐには見つけられそうになかった。


やがて、文化祭の準備期間が本格的に始まり、普段は静かな校内も、どこか浮き足立ったような、そわそわとした、独特の非日常的な空気に包まれ始めた。

廊下にはペンキや接着剤のツンとした匂いが漂い、あちこちの教室からは金槌で何かを打ち付ける音や、楽しそうな生徒たちの笑い声が絶え間なく漏れてくる。

俺たちのクラスの出し物は、様々な候補の中から、白熱した議論と多数決の結果、ありきたりではあるが、毎年一番の集客を誇り、最も盛り上がるという定番中の定番、お化け屋敷に決まった。


放課後の教室は、ホームルームが終わると同時に、大量のダンボールや黒い布、ベニヤ板などで迷路のように複雑に仕切られ、壁には不気味な模様や、血糊のように見える赤い絵の具が、遠慮なく塗りたくられていく。ペンキと埃の匂いが鼻をつくほど充満し、むせ返るようだった。


「そこ、もう少し暗幕しっかり隙間なく留めて! 光が漏れてるって!」

「小道具係、もっとお札作ってくれないと足りないよー!」


実行委員になった日向咲葵は、クラスメイトたちをまとめようと、顔やジャージにペンキを点々とつけながらも、一生懸命に指示を飛ばし、自らも率先して、汗を流しながら作業を進めていた。

しかし、あの澪との一件以来、どこか上の空というか、無理して明るく振る舞っているように見え、作業の合間に、一人で窓の外をぼんやりと眺めている姿が、以前よりも明らかに頻繁に見られるようになった。

彼女の周りのクラスメイトたちも、そんな彼女の微妙な変化に気づいているのか、「日向、大丈夫? 無理してない? 疲れてるんじゃない?」「何か手伝おうか?」と、どこか腫れ物にでも触るように、気を遣っているのが、傍から見ていても痛いほど伝わってきた。

かつての、太陽のような輝きは、少しだけ翳りを見せているようだった。


俺はといえば、クラスの準備には、最低限の義務として、嫌々ながらも顔を出す程度で、ほとんどの時間は、やはり落ち着く図書室にこもり、図書委員会の文芸誌の編集作業に追われる日々を送っていた。

他の委員が集めてきた、瑞々しい感性の詩や、鋭い視点のエッセイ、切れ味の鋭い掌編小説などの様々なジャンルの原稿を読み、誤字脱字がないかを丹念にチェックし、全体のレイアウトやページ構成を考えながらも、ただ一つ、自分の原稿をどうするか、掲載するのか、それとも断るのか、その最終的な結論だけを、どうしても出せずにいた。

文芸誌の印刷所への入稿締め切り日は、まるで死刑執行のカウントダウンのように、刻一刻と、無情に迫ってきているというのに。時間は、俺の逡巡を待ってはくれなかった。


そんな、俺にとっても、そしておそらく日向咲葵にとっても、苦しく、出口の見えない時間が流れていた、ある日の放課後。

珍しく女子バレー部の練習が、ミーティングだけで早く終わったのか、咲葵が一人で、まるで何かに吸い寄せられるかのように、ふらりと図書室にやってきた。

彼女は特定の本を探すでもなく、カウンターに声をかけるでもなく、いつもの俺の指定席の近く、大きな窓際の席に、音もなく静かに腰を下ろし、ただ黙って、窓の外の景色を眺めていた。


空は、まるで印象派の画家が描いた絵画のように、燃えるように鮮やかなオレンジ色と、深い紫色、そして夜の訪れを告げる藍色が複雑に混じり合った、息をのむほど劇的で、美しいまでの夕焼けに染まっていた。

しかし、彼女は、そのあまりにも美しい空を、どこか虚ろな、焦点の合わない目で、ただぼんやりと眺めているようだった。

いつもの、周囲を明るく照らす太陽のような溌剌とした輝きは完全に影を潜め、窓から差し込む最後の夕陽に照らされたその美しい横顔には、深い疲労と、拭いきれないほどの悩みの色が、痛々しいほど濃く刻まれているように見えた。

まるで、迷子の子供が、帰り道を探して途方に暮れているかのようだった。


声をかけるべきか、それとも、そっとしておくべきか。

数秒間、いや、もっと長く感じられた時間、俺は激しくためらった。

自分のことでさえ手一杯で、いまだに答えを出せずに迷っている俺に、彼女の抱える深刻な悩みを聞いてあげられるような資格なんて、本当にあるのだろうか。

下手に声をかけて、余計に彼女を傷つけてしまうのではないか。そんな恐れもあった。

でも、今の、こんなにも弱々しく、打ちひしがれて見える彼女を、このまま一人きりで、この深い夕闇の中に、孤独の中に置いておくことは、どうしても、できなかった。

それは、あまりにも残酷な気がした。


意を決して、できるだけ床がきしまないように、物音を立てないように、細心の注意を払いながら、そっと彼女の隣の椅子を引き、静かに、しかし確かな存在感を示すように、腰を下ろした。


「…何か、あった?」

「見てて、すごく疲れてるみたいだけど。大丈夫か?」


俺の、自分でも驚くほど穏やかで、遠慮がちな声かけに、咲葵は驚いたように、ゆっくりと、重い瞼を持ち上げるようにして顔を上げた。

ガラス窓に反射した、燃えるような鮮やかな夕陽の光をいっぱいに受けた彼女の大きな瞳が、潤んで、赤く滲んでいるように見えた。泣いていたのだろうか。


「! あ、照井くん…いつの間に…」

「うん、ちょっとね…色々あって、考え事してただけ…心配かけちゃって、ごめん」


彼女は、最初こそ無理に笑顔を作って、いつもの快活さを取り繕おうとしていたが、俺がただ黙って隣に座り、急かすでもなく、ただ静かに彼女の言葉を待っていると、やがてぽつり、ぽつりと、まるで長い間せき止められていたダムが、ついに決壊したかのように、堰を切ったように、その胸の内にある、重く苦しい思いを、途切れ途切れに話し始めた。


チームの司令塔であるセッターとしての、逃れられないプレッシャー。

キャプテンとして、チームメイト全員を勝利に導かなければならないという、背負いきれないほどの重圧。

そして、何よりも、自分にとって誰よりもかけがえのない存在であるはずの、たった一人の親友、澪と、感情的に激しくぶつかってしまい、言ってはいけない言葉を言ってしまったことへの、深い後悔と、どうしようもない戸惑い。


「私、ちゃんとみんなを、澪を、最後の大会で、勝たせられるのかな…って、最近、すごく不安で…」

「自分の上げるトスに、全然自信がなくなっちゃって…」

「澪にも、あんなひどいこと言っちゃって…もう、どうしたらいいか、全然分かんないんだ…」


途切れ途切れの、か細い言葉の端々から、彼女が一人で背負い込んでいるものの大きさ、その真面目で強い責任感と、その下に隠された、今にもプレッシャーに押し潰されてしまいそうなほど繊細で、脆い心が、痛いほどダイレクトに伝わってきた。

いつも笑顔で、太陽のように明るく、強く見える彼女も、人知れずこんなにも深く悩み、傷ついていたのかと、俺は胸が強く締め付けられ、かけるべき言葉を失った。

ただ、彼女の震える肩を、見つめることしかできなかった。


気の利いた、スマートな励ましの言葉や、的確なアドバイスなんて、人付き合いが極端に苦手で、ボキャブラリーも貧困な俺には、到底思いつくはずもない。

ましてや、バレーボールの技術的なことなんて、ルールすらろくに知らないのだから、これっぽっちも分かりはしない。


「俺には、バレーボールのことは、全然分からないけど…」


そう正直に、そして少し申し訳なさそうに前置きをしてから、必死に、そして慎重に、今の傷ついた彼女の心に、少しでも寄り添えるような、温かい言葉を探す。


「でもさ…俺も、昔からずっと、人と上手く話せなくて、自分の殻に閉じこもってることが多かったから…誰かと本気で意見をぶつけ合ったり、ましてや喧嘩したりするのって、すごく怖いし、ものすごいエネルギー使うよな。できることなら、ずっと避けて通りたいって思う気持ち、俺にも、すごくよく分かる気がする」


自分の内面について話すのは、極端に苦手で、できれば避けたかったけれど、今の、傷つき、弱っている彼女には、上から目線の理屈っぽいアドバイスなんかよりも、ただ共感し、隣にいるよと伝える、寄り添う言葉が必要な気がした。


「だけどさ…本気でぶつかれるってことは、見方を変えれば、それだけ相手のことを真剣に考えてる、大切に思ってるってことの裏返しなんじゃないかなって、俺は思うんだ」

「本当にどうでもいいって思ってる相手とは、そもそも本気で喧からないと思うんだよ」

「日向さんが、澪さんのこと、そしてチームのことを、本当に心の底からすごく大切に思ってるからこそ、感情的になって、ぶつかっちゃうんじゃないかな」

「それって、きっと、悪いことばかりじゃないと思うけどな。ちゃんと、本気で向き合おうとしてる証拠だよ」

「…それに、俺が見てて思うのは、日向さんは、ちょっと一人で全部、背負い込みすぎてる気がする」

「キャプテンだからとか、セッターだからとか、そういうのもあるのかもしれないけど…もっと周りを頼ってもいいんじゃないかな。澪さんだって、他のチームメイトだって、きっと、日向さんのこと、支えたいって思ってるはずだからさ」


俺の、拙く、そしてひどく回りくどい、何の具体的な解決にもならないような言葉に、咲葵はただ黙って、じっと耳を傾けていた。

窓の外は、もうすっかり濃い藍色の夜の闇に包まれ始めており、空にはちらほらと、今日一番に輝く星が瞬き始めていた。体育館の方からは、もう練習の音は聞こえてこない。

長い、少しだけ気まずい沈黙の後、彼女はゆっくりと、俯いていた顔を上げた。

その表情は、さっきよりも少しだけ、ほんの少しだけれど、憑き物が落ちたように、穏やかになっているように見えた。


「…そっか。そっか…そうだよね」

「私、澪のこと、本当に大好きなんだ。中学で初めて会った時から、ずっと最高のライバルで、最高の相棒だって、心の底から思ってる。他の誰にも代えられない、特別な存在だって」

「だから、最後の大会、どうしても一緒に全国の舞台に行きたくて…それで、いつの間にか焦って、視野が狭くなってたんだと思う」

「自分の気持ちばっかり押し付けて、澪の気持ちとか、周りのみんなの気持ちを、全然考えてなかった…。ちゃんと、見えてなかった…」


彼女の大きな美しい瞳から、ずっと堪えていたものが溢れ出すように、ぽろり、ぽろりと大粒の涙が零れ落ちた。

それは、自分の犯した過ちに対する後悔の涙であり、同時に、自分が本当に大切にしているものに、改めて気づいたことへの、安堵の涙のようにも見えた。

夕陽の最後の名残の光が、その涙の軌跡をキラリと照らした。


「ありがとう、照井くん。なんか、話を聞いてもらったら、すごくすっきりした。頭の中のもやもやが晴れて、整理できた気がする」

「私、ちゃんと、澪と話してみる。逃げないで、私の、本当の気持ちを、正直に伝える」

「…照井くんの言葉、なんか、静かだけど、すごくストレートに心に響いたよ。ありがとう」


涙を、制服の袖で乱暴に拭うと、彼女は少しだけ吹っ切れたような、そして新たな決意を秘めたような、強い光を宿した顔で立ち上がった。いつもの、太陽のような輝きが、少しだけ戻ってきたように見えた。


「照井くんも、文化祭の文芸誌の小説、頑張ってね。古賀先生がベタ褒めしてたって、颯太から聞いたよ」

「私、本当に楽しみにしてるから。照井くんの書く言葉って、静かだけど、すごく心にストレートに響くから、きっとすごく素敵な小説だと思う」

「だから、絶対、載せてね! 私、一番に読むから!」


その真っ直ぐで、一点の曇りもない、励ましの言葉と、俺の可能性を信じてくれているかのような、疑うことを知らない信頼に満ちた眼差しが、まるで春の温かい陽光のように、頑なに固く閉ざされ、厚い氷で覆われていた俺の心を、じんわりと、しかし確実に溶かしていった。

自分の、たどたどしく、何の確信もない、ただ自分の経験に基づいただけの言葉が、誰かの心をほんの少しでも動かせたのかもしれない。その小さな、しかし確かな実感と手応えが、大きな、そして温かい勇気を、俺の中に与えてくれた。

俺も、もうこれ以上、自分の臆病さや羞恥心から逃げてばかりじゃいられない。自分の殻を、今度こそ破らなければ。彼女が、そう教えてくれたような気がした。


「俺も…載せてみようと思う。勇気を出して、自分の小説」

「タイトル、変えようかな。『境界線のハレーション』って」

「…うん、完成させて、必ず載せるよ。約束する」


そう、自分でも驚くほどはっきりと口にすると、不思議と心は軽くなり、あれほど重くのしかかっていた迷いは、嘘のように消えていた。

ハレーション。それは、強い光がカメラのレンズに入り込んだ時に、写真の画面上に現れる、虹色の、時に幻想的で美しい光の輪のことだ。

まるで、彼女という、俺にとってあまりにも眩しすぎる光に照らされた、俺自身の心の有り様を、そして俺たちが乗り越えようとしている「境界線」を、象徴しているかのようだと思ったから。

そのタイトルが、今の俺の気持ちに、そしてこの書きかけの物語に、最もふさわしい気がしたのだ。


「ほんと!? すごい! やったね、照井くん! 決めたんだね!」

「『境界線のハレーション』、すごくいいタイトルだと思う! なんか詩的で、かっこいい!」

「絶対、絶対読むからね! 心から応援してるから! 頑張って!」


咲葵の声には、いつもの快活な力強さが完全に戻っていた。

その曇りのない、心からの笑顔が、俺にとって、他のどんな言葉よりも力強い、最高のエールになった。

夕闇が深く、静かに包み始めた図書室に、俺と彼女の間に生まれた、目には見えないけれど確かに存在する、特別な繋がりを示すような、温かくて、優しい空気が満ちていた。


翌日の放課後。

俺は約束通り、文芸誌の編集作業をしながらも、気が気ではなく、図書室の窓から、体育館の前庭で、少し距離を置いて話している咲葵と澪の二人の姿を、自分のことのように、少しだけ緊張しながら見守っていた。

最初は少し距離を置き、お互いに硬い表情で、どこかぎこちなく言葉を交わしていた二人だったが、やがて咲葵が何かを、身振り手振りを交えながら、涙ながらに熱心に訴え、澪がそれを静かに、しかし真剣な表情で聞き入り、そして深く、ゆっくりと頷き、次の瞬間、二人とも堰を切ったように涙を流しながら、言葉もなく、ただ強く、固く、お互いを確かめるように抱き合っていた。


「よかった…本当に、よかった…」


思わず、安堵のため息と共に、小さな声が漏れた。

まるで、長く降り続いた冷たい雨がようやく上がって、空に大きく、鮮やかな七色の虹がかかったような、澄み切った、そしてあまりにも美しい、感動的な光景だった。

俺はそっと、窓辺に置いてあった愛用のフィルムカメラを静かに構え、今度こそ、ためらうことなく、シャッターを切った。

遠くから、二人の和解と、新たな、そして最後の挑戦への再出発を、そっと祝福するように。

ファインダー越しに見た、涙でぐしゃぐしゃに濡れた二人の笑顔は、黄金色に輝く、秋の低い夕陽に照らされて、まるで一枚の宗教画のように、神々しいほどに美しかった。

この一枚は、きっと俺にとって、特別な、そして忘れられない大切な写真になるだろう。そんな確かな予感がした。

現像するのが、今から楽しみで仕方がなかった。

この写真には、きっと、あの夕暮れの図書室で生まれた、小さな勇気と希望の光も、一緒に写っているはずだ。

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